そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【人生(仮)】2日がかりで考えたこと。 意味や評価を求めすぎて、身動きが取れないのかも。

こんばんは。

昨日は久々に(再開後は初めて?)ブログの更新ができませんでした。

体調が悪いという訳でもなかったのですが、どうも書きたいことがまとまらず

ズルズルと時間だけが過ぎ、気が付けば寝なければいけな時間になってしまったのでした。

更新を楽しみにして待っていた方がいましたら、すみませんでした。

で、昨日の分まで張り切って書こうとすると多分疲れるので、それなりに力を抜きつつ話をします。


以前から何度も書いている通り、今の仕事はそれほどプレッシャーのかかる業務ではありません。

毎日のノルマは一応ありますが、基本的に日をまたいで持ち越しなどはなく、その日その日で完結するため

家へ持ち帰ったり寝る前にあれこれ考えたりする必要がないことも大きいと思います。


ただ、これは私の性分なのかそれともよくあることなのか、仕事の内容よりも職場での人付き合いに神経を使います。

「自分からあいさつしたのに、相手は無言の上にこちらを見もしなかった」とか、されるとヘコみませんか?

もしかしたら気付かなかったのかも・・・ いや、ちゃんと相手の顔を見て言ったんだから、分かってはいるはず。

だとしたら、私が声をかけたのが気に食わなかったか、場合によっては私の存在そのものを嫌っているとか・・・

そういえば、学生の頃にもどんなにあいさつしても無視され続けた相手がいたな・・・ やっぱり嫌われているとしか・・・


あぁ、自分はどんだけ価値のない人間なんだ。  


「いくらなんでも考えすぎだろ!?」と思われる方も多いでしょうけど、これが私のデフォルトの思考回路だったりするわけで。

”未来はいくらでも変えられる”とは言っても、”変えられない過去”があっての自分ですから、いくらでも引きずってしまうんです。

そして、引きずられて行きつく先は決まって”自分はダメ人間”という定位置。

そうやっていくら自分を貶めたところで、他人が「よしよし」って慰めてくれる訳でもないのに、ホント飽きないよねぇ。

(そして、仮に慰めてもらえたとしても今度は「人に迷惑ばかりかけて、申し訳ない」・・・ どないせぇちゅうねん。)

読む方もさすがにイライラしてくると思うのでこのくらいにしますが、これを10~20年くらい繰り返しているんですよ、私の脳ミソは。

こんな”困ったちゃん”でも私の生命の一部なので、だましだまし付き合っていくしかないんじゃないか、と思っております。


じゃあその”だます方法”があるのかというと、今考えているのは”物事に、意味や評価をつけない”ということ。

さっきのあいさつの例で、相手が無反応だった理由が”私を嫌っているから”というのは、明らかに自分の思い込み。

仕事場ですから、相手も仕事のことだけを考えていてこちらに気づかなかった可能性だってあるわけですし。

本当のところは、相手に聞いてみなきゃ分からないですよね。 (聞いたところで『アンタが嫌い』と面と向かって言う人は少ないだろうけど)

自分の中で”あいさつを返してもらえなかった意味”を勝手に作ってしまっているから、苦しくなるのかもしれません。

同じように”相手は私を「ダメな奴」と思っているにちがいない”というのも、自分が勝手にそういう評価に落とし込んでいる可能性も。

本当かどうか分からないことを信じて、心や身体を傷つける。 不合理極まりないことですが、これに苦しんでいるのは私だけではない気がします。


ふと考えたのですが、子どもの頃はもっと純粋にいろいろなことを楽しめたはずでした。

砂場に行けばとにかく大きな山を作って、喜んでいました。 次の日雨が降って、崩れていると悲しかったり。

そのうちに他人との勝ち負けとか、優劣とか、性別・性格・考え方の違いとかに”意味”や”評価”をつけて、自分を定義づけしていきます。

それは人が成長する上で避けては通れない道なのですが、それが行き過ぎると”意味”や”評価”がないと行動できない大人になってしまわないだろうか。

「意味がないことは、したくない」

「評価されないなら、やってもしょうがない」

それを避けるために、自分の思考や行動には事前にあれこれ意味をつけ、終われば他者からの評価を求め。

自分を定義づけ、言い換えれば「自分がそこにいる、それをやる理由」という生きる根拠のようなものになり。

不運にもそれが揺らぐことがあると、”意味がない、評価されない自分”の存在価値そのものが危うくなってしまう。

そうならないためには、子どもの頃のように”意味も評価もない、ただただ楽しいこと”をやっていくことも必要なのかなぁと。

「そんなことして意味あんの?」とか「他人に笑われるかも?」と思っても、自分が楽しくなれることなら(社会のルールや法律を破らない範囲で)やってみたらいい。

ちなみに私が今やってみたいのは「戦国時代をテーマにしたゲームを作ること」「サッカー・Jリーグの年度ごとの結果を調べてまとめること」です。

前者は知識・技術・資金などハードルが高くすぐには実行できませんが、アイデアを考えるだけでもすでに楽しいです。

後者も「いったい何の意味があんねん!」と言われそうですが、こういうデータを集めてまとめる作業が昔から好きなんですよ、私。

それこそJリーグが始まった頃、小学生だった私は架空のチームとリーグを作ってサイコロで勝敗をつけ、順位表や星取表をノートに(以下略) 


こういうことを大事にしていけたら、仕事や人生で多少のつまづきがあっても、生きていけそうな気はしてきます。

あ、このブログだってそうか。 ”意味”がなければ”評価”もいらない、どこぞの誰かが趣味でやっているものだったね。


というわけで、今日はマジメでしたが下らない話もいろいろしていきたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします。

明日は土曜日なので、例の歴史連載ネタですよ。 お楽しみに。

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【人生(仮)】ぼんやりぼやぼや、考えた。 余白が無いと、新しいことを書き込めない?

こんばんは。

昨日今日と、10月にしては暑いくらいの陽気に恵まれた山陰地方です。

明日は私の地元・出雲市で大学生による駅伝大会、通称『出雲駅伝』が開催されます。

何年か前には台風の直撃を受けて中止になったこともありましたが、今年はその心配もなさそうです。

ただ、気温が上がる午後からの開催なので、今日みたいな温度だとなかなかハードなコンディションかも・・・

某民放テレビ局で全国放送もあります(はず)。  お休みの方は、よろしければチェックしておいてくださいませ。


さて、ご挨拶はこのへんにして今日の本題。

衆議院が解散し、新しい議員を選ぶための選挙への準備が着々と進んでいます。

一部の政党や政治家は既存の枠組みを崩して、新たな時代を作ろうと息巻いていますが、果たしてうまくいくのでしょうか。

・・・といっても、私ごとき一個人が、この弱小ブログで何か意見したところで世論に影響があるわけでもないし、

第一、政治ネタは『書いている自分自身が、面白いと感じられない』という難点があるので、ここでは別の視点から。


経済と雇用の問題や社会保障の財源、原発との付き合い方、外交・国防の在り方など、今回の選挙で論じられるであろうテーマはいくつもありますが

かつて(非正規とはいえ)教育現場に携わった私は、日本の『教育』をこれからどうしたいのか、というのも注目しています。

選挙を戦う各政党(政治団体含む)の政策公約をすべてきちんと確認したわけでないことは承知の上でお話しすると

こと教育に関しては『教員の育成・雇用のための財源の確保』とか『低所得世帯への教育機会の保障』も大事なのですが

『日本の将来を担う子どもたちに、どんな大人に育ってほしいのか』という信念を持っている候補者がどれだけいるのか、と。

これから猛スピードで変わっていくであろう日本と世界に対応するため、これからの子どもたちに本当に必要とされる力は何なのか。

こういった部分に強い信念を持っている人(なおかつ、ある程度の共感ができる人)が一人でも二人でもいれば、私はその人を応援したくなります。

『それは政治家じゃなくて文部科学省や現場の先生の仕事だろ』とか『政治と教育をいっしょくたに語るな』という意見もありそうですが・・・


言葉は適切ではないかもしれませんが、今までの『お受験のためのお勉強』だけでは、すでに現代においても通用しなくなっている気がします。

学校教育の役割として、社会に出るうえで最低限必要となる知識や学力をすべての子どもに保障する必要は、もちろんあります。

しかし、今の日本では”その部分だけ”、例えばテストの点数や学歴をありったけ伸ばすことだけが推奨されたために

それで人生を勝負しようとしたものの、”上には上がいる”で思わぬ挫折を味わう羽目になってしまった大人が、あまりに多すぎたのではないか、と。


具体的に言えば、『与えられた課題を期限までに、より望ましい形で仕上げる能力(学校の宿題はその練習?)』も、確かに社会で必要とされる場面は多々あります。

ところが、その練習だけをした代償に『出会ったことのない問題には、最初からお手上げ』となってしまっては、社会から”与えられた仕事しかできない大人”と評価されるでしょう。

(全国学力テストで、記述式の問題での”無回答(一切手を付けない)率”の高さが指摘されることからも、この傾向は危惧されます)

そして、コンピューターや人工知能などが発達を続ける中で、”ただこなせばよい仕事”は確実に人間の手から離れていきます。

あったとしても高齢者や海外出身者など、雇用側にとって”安く使える労働力”とみなされた人たちの間で、奪いあいになるでしょう。

最終的に『働きたいし稼ぎたいけど、自分にできて生計を立てられそうな仕事が無い』となってしまってからでは、手遅れなのです。

・・・これは私自身もひしひしと感じている危機感であるのは、言うまでもないのですが。


うん、真面目すぎて面白くもなんともないですね。 ここらでちょっとひねりましょうか。


私が小学生?くらいの頃、何となく見ていたアニメの主題歌に、こんな感じの歌詞が出てきました(著作権の都合上、若干デフォルメ)。

『頭は空っぽにしていた方が、夢や希望をいっぱい入れられる』

まぁ現実で頭を空っぽにしたら仕事や生活に重大な支障をきたすわいな・・・なんてツッコミは置いといて。

子どもの頃の自分はどうだったかな・・・と考えてみると、夢や希望は二の次でとにかくテストの点数や通知表の『5』が欲しかったような気が。

そのために、頭の中に隙間なく知識を詰め込んで、それを授業やテストではき出し、先生に褒められたい・・・だったのかなぁ。

そして、教員として子どもの前に立った時も、それができる子どもだけを褒めていなかったかなぁ・・・と、今になって反省したり。


もし今、何かの奇跡が起こってもう一度生徒の前に立てるとしたら、自分は何を伝えたいだろう。


『・・・知識を詰め込むのもいいけど、ちょっとは余白を残しておけよ』というのが、今日の時点での答えでしょうか。

これは、今の仕事で自分が感じていることとも関連しています。 ちょっと自分語りっぽくなりますが・・・

すでに5か月目に突入した仕事では、一通りのことはできるようになり、上司や先輩からも少しは認められるようになりました。

入ってすぐの頃は、とにかく目の前の仕事をこなすことで精いっぱいで、周りの人や状況を見る余裕などありませんでした。

それでも1か月、2か月と経つうちに自然に頭と身体が動かせるようになり、自分の仕事プラスアルファの事ができるようになったのです。

例えば、他の人が作業しやすいように障害物を動かしたり、新しく入ってきた人に作業手順や注意点をアドバイスしたり。

自分に”与えられた仕事”だけを脳にみっちりインプットすることも仕事をする上での一つの方法ですが、

そればかりでは”与えられた仕事”以上のパフォーマンスは生み出せないし、『替わりはいくらでもいる』と言われたらそれまで。


そうならないために、プラスアルファの部分をどんどん大きくしていかないといけないと思い、ある程度の余力を残して

作業に集中する必要が無いときには、意識的に周りの状況や他の人の動きを観察し、次に自分ができそうなことを探します。

いわばノートの端っこにわざと作っておいた『余白』の部分に書き込むような感じで、日々追加していくイメージです。

歌に出てきた『夢や希望』とは少し違いますが、このひと手間があることで、以前の仕事とは段違いにやりがいを感じています。

教育現場から離れたことで、自分の中で新たな考え方にシフトできた事は、今となっては好ましい変化だと思っています。

惜しむらくは、学校で教育を受けている時に気付けていれば・・・ と、過去を考えても仕方ないので、前向きに。


ひたすら数字や知識を競って、ノートや頭の中を真っ黒にした経験も、今の自分の何かには役立っているはずです。 

でも今は『それだけが人の価値じゃないし、他のやり方もあるんだよ』ということを

自分を含めた大人たちは、折に触れて子どもたちに伝えていく”任務”があるのでは、と思っているのです。

繰り返しになりますが、そんな想いと情熱を持った人が政治や教育の世界に現れれば、私は共感するし、応援したいです。


・・・ぼやぼやの割には、話がふくらみすぎてしまいました。 でも、たまにはこういうのもいいですよね?(←自己弁護乙)

明日あたりは、この反動が来ると思います。 どんなくだらない話が来ても、驚かないでくださいね。

では、また。

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【人生(仮)】自分が望まない未来を避けるために、今何ができるのだろうか?

こんにちは。

仕事が休みで自宅に居がちになると、いろいろと考えることが多くなってしまいます。

今日はそんなグルグルした思いについて、新カテゴリー【人生(仮)】の力を借りて書いてみます。


ここ最近、仕事から帰って決まってみてしまう動画があります。

ある意味ちょっと刺激が強いかもしれませんので、ご注意ください。



今からおよそ20年前に制作されたドキュメンタリー番組が元ネタらしいのですが

内容をまとめると、失業をきっかけに妻子と住む家を失った50代(当時)の男性が

70代(当時)の母親が受け取る年金から家賃や生活費の援助を受け、アパートの一室で一人で暮らす様子が描かれています。

「人生に疲れた」と言って仕事を探すのも諦めて引きこもり、母親が知り合いの便利屋に頼み込んで働かせてもらっても長くは続かず

最後には母親からの援助も打ち切られることになり、社会との唯一の接点だった便利屋の男性からも罵声を浴びせられ・・・という所で終わっています。

2017年現在、この男性は(生きていれば)70歳を過ぎているはずですが、どうしているのでしょうか?


私がこの動画(と男性)から目を離せないのは、他人事とは思えないからかもしれません。

取材当時と現在、そして将来を単純に比較することはできないかもしれませんが、

少なくとも日本では『働く』ということに対する物理的・精神的なハードルが果てしなく上がっていっている気がします。

表向きは「人手不足」といいながら、実際に不足しているのは「海外や同業他社との競争に勝ち抜ける能力や技術を持った人材」だけで

これまで高く評価されてきた「テストや通知表で好成績を収め、偏差値の高い大学を卒業した」人でも苦戦しているばかりか

「少し前なら、どこかの会社で採用されていた」はずの多くの人間が、もはや正社員としては通用しないようになってきています。

(個人の資質だけでなく、経済成長の頭打ちや経費節減の名目で人件費を減らす企業など、構造的な問題も大いに絡んでいますが・・・)


まして、歳を取れば取るほど仕事の能力を身につけ、その分待遇や収入の向上が期待できた「年功序列」の原則が崩れ

今は多くの企業で「成果主義」を全面に押し出し、「即戦力求む!」といって優秀な新卒者のみを正社員のターゲットに絞り

その他大勢の人員は解雇や調整がしやすい契約社員・派遣社員として雇い入れ、業績が悪くなればそこから切り捨てる。

彼らを「使える人材に育てる」という考えは無く、「使えなくなったら新しいのと替えればいい」と消耗品のように扱う。

これらが私の偏った見方に過ぎなければいいのですが、昨今のテレビや新聞の報道からはそんな雰囲気を感じるのです。


本題に戻すと、この映像の男性がここまで落ちぶれてしまったのは、本人だけの責任だったのかなぁ、と。

確かに、ひとつのトラブルで(長年勤めたであろう)職場を捨て、そのストレスを妻や子どもにぶつけたのはまずかっただろうし

失業者や求職者が受け取れるはずの給付金を受け取っている様子もなく、ハローワークや役所などにも足を運んでいないとなると

金銭面だけでなく人間関係や体調にも不調が出てきて、「人生に疲れた」となっても自業自得じゃないか、と感じる自分がいます。

まして50を過ぎて働こうとせず、親のスネをかじっている状態ですから「しっかりしろ!」と周りが言いたくなる気持ちも分かります。


それでも、20年後に50代になった私が、この男性とそっくりになっている可能性だって、否定はできないのです。

私も長年追いかけていた教職の道を諦め、その過程で心身の調子も崩し、不安定な雇用形態で生活を成り立たせています。

今の職場も知り合いの紹介が無ければ縁が無かっただろうし、下手をすれば現在も無職が続いていた恐れもありました。

とはいえこのまま進展が無ければ、年をとればとるほど仕事の当てもなくなり、社会的に肩身の狭い存在に落ちていくのは目に見えています。

繰り返しになりますが「若いうちに社会で結果を出せなかった人」は、「歳を取ったら仕事をしたくても雇ってもらえない人」になっていく未来が迫っているのですから(あくまで私自身の観測です)。


・・・では、この男性はどうすれば良かったのか。  いくら考えても、納得のいく答えは出ません。

なぜなら「あの時こうすればよかった」は結果論に過ぎず、どんなに優れた人間でも過去を変えることはできないからです。

「我慢して職場にしがみついていれば・・・」 「妻に謝ってヨリを戻せていたら・・・」 「もっと働く意欲を見せていたら・・・」

これらの「たら」「れば」をいくら並べても、過去をやり直せるわけではないし、苦しい現状が劇的に良くなることもないのです。

それは、私や他の人の人生においても全く同じで、自分の過去の失敗に起因する負債は、自分で抱えて生きていくしかありません。

もちろん周りの誰かに相談して借金や悩みなどを軽くすることは大事ですが、最後に責任を負うのは自分自身でなければならないのです。


こういうと「貧困やワーキングプアも自己責任なのか!?」と問い詰められそうですが、私はむしろ「自己責任」という言葉は嫌いで

何らかの助けを求めている人には周囲から手が差し伸べられるべきだし、そういう社会であってほしいと思っています。

でもそれはその人の「現状」を立て直し、「将来」を良くするための行為であって、その人の「過去」を埋め合わせることは誰にもできない。

「もっと勉強していたらこんなことにはならなかった、だから自己責任だ」

「もっと仕事ができるように努力していたら、こんなことには(以下略)」

「もっと人生を頑張っていたら(以下略)」


こういう事を言う人はネット上にごまんといますが、その人の過去にいくら文句を言ってもどうしようもないじゃないですか。

他人を批判しているようで、実は自分自身や国の社会制度への怒り・不満も込められているのかもしれませんが

どうやったら現状を抜け出せるか、将来を少しでも良くするためにはどうすればいいか、を考えた方が建設的なような。

それを考えることは、自分自身の現状や将来をよりよくする練習にもなるのでは。


植松努さんの言葉を借りれば『だったらこうしてみたら?』と今からできることをやってみて

一人でも多く、一つでも多くの夢が叶ったら、それはその人にとっても社会にとっても、きっと素敵なことですよね。

そのために、今ある負債ばかりを見つめるのではなく、今ある財産(人的・物的・精神的)を活かすことを考えていきたいと思います。

明日の仕事からでも、それを実践していけたらいいな・・・と思いつつ、今日はここまでとします。

ありがとうございました。

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【人生(仮)】新カテゴリー1回目は、「ダメな自分」についての客観的考察。

こんにちは。

昨日の今日で恐縮ですが、新カテゴリーを作りました。

題して【人生(仮)】『ジンセイカッコカリ』と読みませい。

人生を語るなんて何とも仰々しい感じもしますが、自分の中では語感が割と気に入ったので決めました。

なにせカッコカリなので、いろいろ迷いながら惑いながら、自分と周りの人の人生についてモヤモヤグルグル考えて、その輪郭を作っていきたいと思います。

それではその1発目ということで、今日の出来事から考えた『なんちゃって人生論』をどうぞ。


私には、どうも「自分はダメな人間だ」と考えるクセがあるようです。

今は多少落ち着いていますが、病院にかかる前はその傾向がひどくて、その場から動けなくなったこともあるほどでした。

仕事で失敗したとか、友人や同僚に無視されたとか、ブログのアクセス数(ツイッターのフォロワー数)が減ったとか、

まぁいろんなきっかけで発動する「自分はダメ人間」モード。 こうなると、もう何もかも「どうせ何やってもダメだから」となってしまいます。


でも、冷静に考えてみると、『落ち込んだ時』と『普段の気分の時』とで、自分の能力や他者からの評価は本当に異なるのか、と。

たまたま一度失敗しただけで、その人の存在や能力が全否定されなければならないとしたら、みんな「ダメ人間」になってしまうのでは。

だとしたら、『絶対的にダメな自分』というのは世の中に存在しなくて、理想の自分や優れた他人との「比較」が自分をダメに見せてしまうのかも。


例えば 『自分はあの同僚より仕事ができない、自分はダメだ』 と思った時。

心の中では、バリバリ仕事ができる自分でいたい。 仕事ができて、上司に認められたり部下に慕われたりする自分がいい。

でも、そうなるにはきっと相当な努力と時間が必要だ。 それ以前に、自分にはそこまで到達できる能力があるのだろうか・・・。

でも、仕事ができないと見下されるし、クビになるかもしれない。 でも、でも、でも・・・。

・・・というように、私にも経験があるわけですが、理想にたどり着くのを諦めて、現状に甘んじることを選んでしまう状態。

こんな自分でいるのも嫌だけど、報われるかどうか分からない努力をして、それが無駄になって今より傷つくのはもっと嫌だ。

見かねた隣人が『悩んでいるヒマがあったら、何か行動を起こせ!』と尻をひっぱたきたくなるのも最もなのですが、

本人は本人で『行動して傷つく痛み』『現状に甘んじる苦しさ』を天秤にかけたまま、一歩も動けないことだってあるのでした。


では、この状態から抜け出すための良い方法はあるのかどうか。

私が考える方法の一つは『生命や財産に傷がつかない範囲で、決断して行動する練習をする』です。

実際、私もあれこれ悩んで苦しんで、今日だって仕事で失敗して「自分はダメだー」となったのですが、どうにか立ち直れています。

なので、今この瞬間も「自分はダメだー」と思っている人にだって、そこから抜け出すためのチャンスは、必ず訪れるはずと思います。


ただ、現状の自分がどんなにダメでも、自分自身が動かないことには何も始まらないし、何も変えられないというのは間違いないです。

仕事やお金の問題はある程度周りの人がカバーしてくれる(ただし頼み方には注意)かもしれませんが、

例えば「アレが食べたい」とか「ぐっすり寝たい」というような、自分の生命の奥底から湧き上がる生理的欲求は

他人に頼んで自分の替わりに食べてもらったり寝てもらったりしても、満たされる訳ではありませんからね。

同じように、自分が「こうなりたい」とか「こうありたい」と思ったら、どんなに面倒でも自分が動いてどうにかするしかないのです。


でも、いざ行動するのは怖いですね。 これまでさんざん失敗して、『努力は報われない』と刷り込まれてしまった人には特に。

だから『生命や財産に傷がつかない範囲で』という但し書きをつけました。

『失敗するとケガや病気、最悪の場合命を失う恐れがある』ことや、『多額のお金を払って何かを手に入れようとする』のはやめておこう、ということです。

確かに、人生を大きく動かそう、ダメな自分を180度変えようと思えば、そのくらいのリスクを負わないと成功は手に入らないのかもしれません。

しかし、ひとまずダメな自分(だと思い込む事)を少しでも変えるには、小さな成功経験を積み重ねることが効果的ではないかと思います。

「自分で選んだ方法がうまくいった」なら、そのまま一つの成功経験になりますし

「自分で選んだ行動が失敗した」としても、「失敗しても、そんなに悪いことにはならない」ということが学べれば、立派な成功経験です。


「自分で決めることができない」のは、「選択を間違えたら大変な事が起こる」とか「選択を間違えた自分が許せない」といった思考・感情が邪魔をしていることもあります。

なので、例えば「今日のお昼はアレを食べに行こう」と決めて、いざ食べてみたら口に合わなかったとしても

「次の外食では、あの店(メニュー)はやめておこう」とか「まぁお腹壊さなければ大丈夫かな」くらいに思えれば、貴重な気づきになります。

こう書くと『外食のメニューと人生の選択を一緒にするな!』と怒られそうな気もしますが、

「自分で決めて、結果には自分が責任を持つ」という根っこの部分は同じじゃないですかね? うーむ?


・・・はい、時間的にも文章力的にも限界が近いので、今日はここまで。

こんな感じで、30数年生きてきて感じたことをゆるーくまとめていく新カテゴリー【人生(仮)】

次は1か月後かもしれないし、明日かもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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