そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【人生(仮)】心はいつからでも育てられる? 過去の自分に負けてられない。

こんばんは。

今日は予定通り実家で畑仕事をし、先ほどまで車を運転しておりました。

大相撲夏場所もちょうど千秋楽ということで、カーラジオでその様子を聴いておりましたが

横綱・鶴竜(かくりゅう)関が14勝1敗の成績で、2場所連続5回目の優勝を果たしました。

途中までトップを走っていた関脇・栃ノ心(とちのしん)関は、今日勝ったものの3場所ぶりの優勝はならず。

それでも13勝2敗の好成績を残し、敢闘賞と技能賞を獲得。 そして来場所での大関昇進を確実なものとしました。

あとは・・・今日明日のスポーツニュースで報じられるはずなのでそちらをご覧ください(←いつもの逃げ)。

山陰出身の2人の関取は今場所もパッとしなかったしなぁ・・・ 来場所こそは奮起してくれると信じています。


ところで・・・全ての取り組みが終わった後、鶴竜関と栃ノ心関のインタビューが放送されたのですが

2人のコメントに共通していたと思ったのが、勝負に向かう時の『心』の持ち方を考えているなぁ、ということ。

鶴竜関は横綱に昇進して以降、ケガや不調でなかなか横綱として求められる結果が出せない時期もありました。

その苦しい時期を乗り越え、こうして2場所連続優勝という結果を出せたことについて鶴竜関は

「周りからの応援や期待もあったが、まずは自分が『どんな相撲で勝ちたいのか』に集中して稽古をした」と言っていました。

相撲は1対1の勝負ですから、とうぜん対戦相手の特徴や攻め方を研究する部分も必要ですが

それ以上に『自分はこの体勢になったら、簡単には負けない』という、いわゆる”型”を持っている力士は強いといいます。

そして、日々の稽古や生活を積み上げ、自分なりの”型”を磨き上げていくことで

本場所の取り組みで力を発揮することができ、自信が生まれてくるのだと思います。


栃ノ心関は、終盤に連敗して結果的に優勝を逃したことは「悔しい」としながらも

「とにかく『一日一番』、過去や明日の事は考えずに、その日の取り組みに集中することができた」と振り返っていました。

おそらく、大関昇進が懸かっていることで「結果を出さなければいけない」という思いが、本人にはあったと思います。

それでも、先のことは置いておいて、昨日負けたことを引きずらず、その日にやるべき事に集中して臨む。

スポーツマンに限らず、こうした心がけを持っている人は多くても、実践するのは簡単なことではないのでしょう。

かく言う私も過去は思いっきり引きずり、未来をあれこれ不安に思って踏み出せない、正反対のタイプですから。


でもね。

2人のインタビューを聴いていて、ほんの少しですが自分にも光明はありそうな気がしました。

鶴竜関は現在32歳、栃ノ心関は30歳。 相撲界の第一人者・白鵬(はくほう)関にしても33歳。

みなブログ主よりは若いのですが、大相撲の世界ではすでに『ベテラン』と呼べる年齢です。

同い年ということになると、36歳の嘉風(よしかぜ)関が今場所勝ち越していました。 

腕力や瞬発力では20代前半から半ばあたり、伸び盛りの『若手』と呼ばれる有望力士に分があるところですが

相撲界での長い経験の中で、なにより『心』を育て続けていることが、ベテランとして活躍する『カギ』なのではないかと。


自分の『強み』や『課題』は何か。 自分が求める『道』はどこにあるのか。 そして『いま本当に必要なもの』は何なのか。

そういった事を自分に問い続け、周りからの指導や助言も受け入れつつ、自分にできることを課していく。

その積み重ねが、他人がどうだとか社会がどうだとかを心の中から退けて、自分の心に『自信』を育てるプロセスなのかもしれません。


仕事をしていない今は、そういう外からの『雑念』が入りにくいという意味では良い環境なのかもしれない。

(自分からネットの海に飛び込んで、あれこれ不要な情報を拾い集めて疲弊していたら意味がないが)

さんざん傷ついてきた過去の自分は捨てきれないけど、いつまでもそこにすがって生きてはいけないことも分かっているから。

とりとめのない話になりましたが、この歳になるまでずっと見て見ぬふりしてきた『宿題』だと思って

時間がかかっても自分の『心』と向き合い、正面から受け止め、そして育てることに取り組んでいきたいと思います。


それでは、今日はこれで。

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【人生(仮)】世の中にあふれる”普通”や”常識”って、何を基準にしたものだろう?

こんばんは。

今日は朝から降りそうな雰囲気があって、昼前からは結構激しい雨音が室内でも聞こえてましたが

これを書いている夕方になるとすっかり止んで、窓の外には青空と夕焼けも見えています。

日没までに書き終わったら、ちょっと散歩に行こうかしら・・・? (少しお酒入ってますが)


さて・・・仕事をしていない日中、しかも家の中ですることはある程度パターン化されてきます。

決まった時間に起きて、飯食って、ゲームにログインして、少し身体鍛えて、ブログ書いて、ツイッター見て。

ツイッター・・・ これは時間を決めて、というより時間があったら見てしまう、といった方が正しいですが(汗)

一つひとつのツイートをにじっくり目を通すことは少ないものの、たまに『これは!?』と考えさせられるものがあります。

今日の話題は、そういった”あるツイート”から広げていこうと思います。


最近フォローした”ある方”が、このような事をツイートしていました。

「今の社会が求める『普通』や『まとも』の基準が高すぎて、それを真に受けて苦しむ人が多くいる」

一種の”お悩み相談”的なつぶやきに対するツイートだったのですが、私にも心当たりがありまして。

「将来の夢・・・? とりあえず普通に大学に入って、普通に学校の先生になって、普通に結婚して、普通に子ども育てて・・・」

高校生の頃にはこんな事を考えていたような。 ”学校の先生”を”良い会社”に置き換えたら、より一般論になるかも。

でも36歳になった私は、大学は出て一時は学校にも勤めたけれど、結婚も子育てもしてないわけで。

当時の私に言わせたら、明らかに『普通じゃない』人生ですよね。 ただ、そんな自分が不幸だとは思わないんです。


もちろん、好意を持った異性とお付き合いして、家庭を築ける関係になることは、人生において有意義なものになるでしょう。

そして子どもが生まれて、育てる中で得るものも大変に多いでしょうし、それは人類が受け継いてきた”営み”ともいえるもの。

ただ、現代では「未婚化・晩婚化」や「所得の伸び悩み」などを背景に、誰しもが必ず通る道ではなくなってきているのも事実。

ある程度の所得があって、交際を続ける時間もあって、何より”この人なら!”と思える出会いを得る機会があるかどうか。

非正規の職で昼夜問わず働き、自分ひとりの生活を維持するだけで精一杯。 そういう人に『普通は・・・』なんて言っても、虚しいところです。


そう考えると「結婚するのが『普通』」とか「子どもを育てるのが『普通』」というのは、いつ誰から教わった価値観だったのだろう?

周りが「そうした方がアナタのためだよ」と言ってくれるから? 逆に「そうしないなんて、アイツはおかしいヤツだ」と後ろ指をさされないため?

”自分(または親や子ども、親しい相手)が周りから『おかしいヤツ』と笑われないため”に、理想の姿を『普通』の2文字に落とし込んではいなかったか?

そして、昔の自分が(無意識のうちに)納得していた『普通』は、何十年も経った現在でも『普通』なのか??


・・・うーん、酒の影響か普段のウップン晴らしか、ちょっと思考の迷路に入り込んでしまった。 冷静になりますね。

何が言いたいかと聞かれれば、他人の言う”普通”とか”常識”って、その人自身の知識や価値観による線引きに過ぎないのでは、と。

例えば「これくらい『普通は』知ってるだろ、『常識』だろ」という時、「自分が(たまたま)その知識を持っていた」という事実を基準にしゃべっています。

私もたまにあるのですが、「相手が知らない情報を知っている自分は、相手より優れている」という錯覚に陥ることがあってですね。

もちろん逆に「自分が知らなくて相手は知っている」情報だって無数にあるはずなのに、”とにかく相手より優位に立ちたい”という心理があると

「こんな事も知らないのか」とか「だからお前はダメなんだ」みたいに、相手の全てを否定してしまう物言いになってしまう恐れもあって。

一対一の会話でも怖いのに、ネットやSNSを通じて”顔も知らない不特定多数の相手に対して”やっている人の何と多いことか・・・ 

「勘違いしている人が多いですが・・・」なんて書き出しで始まる文章を読むと、こっちがヒヤヒヤしてしまうのですよ。

「自分が知っていることだけが真実、後はすべて間違い!」と言うと、聞く(読む)人をひきつけますがリスクも大きいですから。

どんなに自分がある分野に詳しいと思っていても、知らない事は必ずありますし自分より詳しい他者は必ずいるものです。

(ついでに、そういう人に限って自分の知らないことに言及されると「そんな事、フツーは知らないし!」で逃げたりする。)


またグダグダになってきたのでまとめると、”世の中の『普通』や『常識』って、絶対に守らなきゃいけないものでもない”と。

極めて当たり前の結論なのですが、特に日本人は”出る杭は打たれる”というか”周りから外れてはいけない”と思い込むばかり

誰かが決めた”基準”に自分をはめ込むことが当たり前になっていて、その”基準”自体も時代の変化に即していないのでは、なんて。

別の例えをすると、昔から「大学出ていい会社に入って、定年まで働くのが『普通』」なんて言うけど、今の新社会人はどう思っているだろう。

有名な大企業でも一つの不祥事で経営難に陥ったり、海外の大企業に買収・統合されたりするのが当たり前の時代。

入った会社が30~40年後までそのまま生き残っている保障なんてないし、転職や副業に寛容な見方も広がりつつある。

そんな社会の変化の中で「何が何でも新卒で入った会社にかじりつけ、それが『常識』だ!」と言い切るのは、ちょっと乱暴なのかも。

まして私自身も離職⇒転職を何度も経験して、今もって無職なわけですから、そんな『常識』で飯は食えねぇ!と今なら言えるのですが。

特にこれから社会人になる人は、学校を出るまでは「親や先生の言う事を聞く」でいいのかもしれませんが

その合間を見て「自分の価値観で自分を動かす」練習をした方がいいのかもしれません。 

大事なことは自分で動いて覚えていかないと、誰も教えてくれませんから・・・


あー、久々にいろいろ吐き出したらなんかスッキリした(笑)

人間、勉強や取材といった”インプット”も大事ですけど、時には思い切って”アウトプット”することも必要ですね。

頭に詰め込んで考えているだけだとどうしても煮詰まってしまうし、何より外に出すと他者との接点ができる可能性がある。

リアルで他者と接する機会が激減している今の自分にとっては、精神衛生上も良いことだと思います(仕事は探せよ)。

場合によっては相手に”突き刺さってしまう”場合もありそうですが、表現等は極力気を付けるようにするのでどうかご容赦を。


そんなところで、外はだいぶ暗くなってきました(日は長くなってます)。

明日はスッキリ晴れるといいけどなぁ。 ではまた。

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【人生(仮)】他人と比べて自信を失う”クセ”をどうにかするための、ブログ主なりの考察。

こんばんは。

2日前の金曜日の記事で言っていた”練り上げ待ち”の内容で、今日は書いてみます(忘れてなかった!)

テーマはタイトルの通り【他人と比べて落ち込む”クセ”を、どう克服すればいい??】です。


これを考えたきっかけはもちろん、ブログ主自身がその”クセ”を強く持っているからです。

いつから始まったかはもはや定かではありませんが、最近の例をあげると。

「あの同僚は自分より仕事が早いし、上司からも褒められている。 それに比べて自分は・・・」

「あのブログは大した事を書いている訳でもないのに(失礼)、自分のブログよりも読者が多い・・・」

「(ツイッターで)あの人は『おはよう』とつぶやいただけで何十人からいいねされるのに、自分がやっても無反応・・・」


とにかく、自分と他人を比べる材料があると、反射的に比べてしまうんですね。

そして大抵の場合はその観点において自分より優れているので、『自分なんて・・・』と自信を失ってしまうんですね。

まぁ、それだけならいつもの事だからブログに書こうとも思わないのですが、問題は別の視点にあって。


例えば、メンタル関係のお医者さんが書いた本とか、メンタル関連の症状をある程度自力で克服した人のブログ、

あるいは「自分に自信が持てない、自分はダメな人間・・・」と落ち込んだ人が検索するであろうネット上の記事などでは

決まって「他人と比べるのをやめたら、自信が湧いてくるよ!」という内容のアドバイスが。

多くの方がそろって口にするくらいですから、その見立ては確かに正しいのかもしれませんけど

当事者としては「それが出来るのならとっくにやってるし、こんなに苦しんでいないんだよぅ・・・」が本音だったりするわけで。

そう。 わかっちゃいるけど、やめられないんです。 わかっちゃいるけど、やめられない。 大事なことなので2回言いました。


人間というもの、「なくて七癖」とか「三つ子の魂百まで」という通り、一度心身に染みついてしまった習慣や考え方を変えるのは非常に困難。

その理由は、あくまで聞きかじりですが「その習慣や考え方の中に、無意識に利点(メリット)を感じているから」だそうです。

じゃあ『自分を他人と比べる』ことの利点って何だろう・・・と考えていると、思い当たるフシがありました。

「自分より優れている(と思っている)相手と比べて、劣等感を持って落ち込む」のは当たり前だけど

逆に「自分より劣っている(と思い込んだ)相手と比べることで、優越感を得ることができた」からではないか?と。


優越感。

思い返せば、これは限りなく”自信”と似ています。

「私は、アイツよりテストの点数が良い」 「私は、アイツより足が速い」 「私は、アイツより友達が多い」・・・

特に子どもの頃なら、比べる相手はだいたい「自分より程度の低い”アイツ”」であることが多かったのでは。

「”アイツ”に勝っている」イコール「自分はこれができる、能力がある」という”自信”に結びつくことは、私の経験上もありました。


ただ、学校を卒業して社会に出てからは、自分が勝てる(はずの)”アイツ”はなかなか見つからなくなるんですよね。

それは、自分の心も成長して「自分より程度の低い(と思っている)相手に勝っても、誇れることじゃない」と思うようになるから。

また、テレビやSNSを通して見聞きする人物は、ほとんどの場合自分より優れているから有名になっている、という事実も。

そして何より、あらゆることが高速化・効率化されつつある現代日本では、「できること」より「できないこと」の方が見えやすくなっている。


「何やってんだ」 「こんな事もできないのか」 「それでもプロ(正社員)か」 「これだから派遣(パート、バイト)は」 などなど・・・


常に「自分より優れている”誰かor何か”」と比べられて、価値観として刷り込まれてしまう面もあるのではないか、なんて。

そう思うと、これは”個人個人のメンタルの強さ”だけで片付けてしまえる問題でもないのでは、と。 

絶えずこうした不安や悩みを抱えた人に『心が弱いからダメなんだ、もっとガンバレ』は禁句とされていますが

他人の心の内面まで完全確実に言い当てるのはおそらく不可能なので、相手を余計に傷つける可能性もあることは確かです。


・・・ちょっと脱線気味ですので、話を戻して。

結局のところ、確実に「他人と比べるのをやめる」ための方法として、現時点で言えるのはただ一つ。

”他人と比べることのメリットを手放す”、つまり”他人と比べて優越感を得ることを諦める”ことになるわけですが。

「それだと”自信を失う”ことはなくなるけど、”自信を得る”こともできなくなるじゃん!」 心の中から、そんな声が聞こえてきますよ。

そうですよね。 ホントそうですよね。 大事なことなので(以下略)



ですが、ここで重要な気づきを与えてくれたのは、このブログでも以前に何度か紹介・引用している

北海道で工場経営と宇宙ロケット開発をしながら、全国の学校などで講演活動を行っている植松勉さんです。

植松さんもブログを公開していて、私も主にツイッター経由で更新された記事を読む事があるのですが

その中で何度かおっしゃっていたのが『”優越感”は”自信”とは違うものである』ということでした。


”優越感”は自分より低い相手と比べれば簡単に手に入るけど、自分より優れた相手に出会えば簡単に”劣等感”に変わってしまう。

そんなものは”本当の自信”ではない。

”本当の自信”は、過去の自分にできなかったことができるようになったとき、”自分が成長した実感”とともに得られるものである
、と。


これも、聞く人にとっては「そんなの分かってるし、できないから困ってるんだよ」となってしまうかもしれません。

ですが、今の自分にとって居心地が良くない場所に留まっていても、状況が自然に良くなることはほとんどない、とも感じます。

そして、自分で一歩も前に進まないまま”自信”を得られたとしても、それは単に”優越感”の基準が下がっただけに過ぎない、とも。

だとすれば、このまま(頼りない優越感にすがりつつ)劣等感を抱えて生きていくしかないんだ、と開き直るのも一つの方法だし

それに納得できないなら、自分の中に残った力を振り絞って、できなかったことをやって”本当の自信”をつかみに行くか。

あるいは「一人では何もできないから助けて」と、周囲の人や機関に向けて声を上げるか。
 

自分自身の問題として考えた時に、今思いつく解決策はこれくらいです。 傷つき、恥をかき、後ろ指をさされる恐れはあるけれども。


究極、「他人と比べること自体が無意味」という、”悟り”に近い開き直りもアリかもしれません。

「人間誰だって、最期は骨と灰になるんだ。 そこに優劣なんてない」 数日前、ブログ主が実際に思ったことです。 ・・・病んでますかね、私。


まぁそれは究極過ぎるにしても『自分のメンタルに対して強すぎる”劣等感”は自分を傷つけるだけ』と絶えず自覚すること

頼りない”優越感”を”本当の自信”に置き換えていけるように行動を起こしていくこと、この2点はやってみようと思います。


キーボードを打つ手にちょっと気合いが入りすぎて、長くなってしまいました。

明日はその反動で、あっさり味の記事になるかもしれません。 その時はご容赦を。

ではー。

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【人生(仮)】「より良く生きたい」「人生を変えたい」を邪魔する無力感。 どう付き合うかが、人生そのものかも?

こんばんは。

今日は、さっきまで無心で戦国関係のブログ記事のネタ練りをしておりましたよ。

手をつける前は「あー面倒だなぁ、休みが潰れるなぁ」とネガティブモードにもなりますけど、始めてしまえばこちらのもの。

やはり興味のある分野の話だと、次から次に知りたいことや調べたいことが浮かんできて、気が付けば2時間経ってました。

これで明日の仕事終わりに「あー土曜日の記事どうすっぺー」と頭を悩ませる問題もなくなりました。 スッキリですね。


で、本題はこれとはあまり関係ないんですけど。

今日はメンタル系の病院の予約を入れてて、そこでかかりつけの先生と話をしてきました。

一時期は「もう生きるの疲れた(本当はもっと刺激的な表現)」的な言葉もぶつけていましたが、最近はずいぶん穏やかに。

仕事の内容や人間関係によるストレスも前職より少なくなり、少ない収入でも生活のやりくりができている自負もあるからでしょうか。

それでも一度飲み始めた薬の量は簡単には減らせないとのことですが、これからの人生の大半をかけた気の長い仕事になるでしょうね。


そこでさっきの「生きるの疲れた」ですけど、これには2通りの受け取り方ができるようで。

一つはもう文字通り「もう生きるのを終わりにしたい」という、自分の人生に対する諦めの境地。

もう一つは「今より良く生きたい」とか「人生を変えたい」という、エネルギーを秘めた言葉として。

想像に過ぎないところですが「生きるの疲れた」と言う人は、この2つの間をゆらゆら揺れるブランコのような状態で。


できることならもっと自由に、食べたいものを食べて、行きたい場所に行って、信頼できる人と付き合って・・・

でも、今の自分の能力だったり資本だったり境遇だったりがそれを許さない。 もっと○○があればできるのに、自分にはそれがない。

努力すれば手に入るかもしれないけど、もし手に入らなかったら自分が傷つくだけだし、他人から「自己責任だ」と言われるのも嫌だ。

それ以前に、もう前向きな努力をするだけの体力も気力も使い果たした自分は、このまま何者にもなれない人生の終わりを待つだけなの・・・?



書いても読んでも気分が落ち込むのでこの辺で止めますが(本当はもっとこういう暗い部分に向き合いたい気持ちもありますけど)

そうした無力感というか、植松さんの言うところの「どーせむり」にいっそ流されてしまうのも、一つの生き方ではあります。

現に自分自身も「なるべく努力をしないで、お金や知名度が欲しい」という気持ちがないわけではありません。 そう見える人は正直うらやましいですし。

でも(とは言いたくはないんですけど)、そうでない生き方のほうが大抵の人からは好まれますし、達成感もあるとは思うんですよ。

いい意味でも悪い意味でも、今日と同じ世界がいつまでも続くわけではないし、今日と同じ自分がいつまでもそこにいるわけでもない。

それは退化かもしれないけど、ひょっとしたら進化とか成長かもしれない。 痛みも伴うだろうけど、それを超えた時の喜びもあるだろうか。

明日の為替(かわせ)相場が完璧に分かる人などいないのと同じで、明日の自分を完璧に予習することもまた人間にできる事ではないのでしょう。

そして『物事の良い面は過小評価してすぐ忘れ、悪い面は過大評価していつまでも記憶に残る』のは、動物の本能らしいですし。


うーん、やっぱりこのテの話は落としどころが分からなくなりますね。 まだまだ勉強不足だなぁ・・・。

ともかく、そろそろ寝る時間が迫っていることだけは確か。 強引ながら締めます。


『明日は、自分がやりたいことを一つだけやってみよう。

 やりたいことがないなら、やるべきことをやろう。

 それもできないなら、誰かに助けを求めるか、動けるだけの力を溜めよう。』



「頑張れ」とか「やればできる」とか「いつやるの?今でしょ!」なんて私は他人に言えないし、言いたくもないので

言えるとすれば『まずは目の前にある山を越えるために、何ができるか考えること』かなぁ、と思います。

もちろん『その山を越えてどうなるのか』とか『そもそも越える必要あるのか』を検討して、選択肢を増やすのもアリですが

その余力すらない人(過去の自分も含めて)もいるので、モヤモヤと向き合う上で何かの参考になれば。


では、今日はこのへんで。

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【人生(仮)】相撲取りの世界では、”食べるのも寝るのも稽古のうち”というらしいけど。

こんばんは。

年明けからちょうど1週間になりました。 今年最初の日曜日でしたね。

来週には大相撲初場所が始まるらしいですけど、内外が騒がしい中で大丈夫なんでしょうか・・・

今日の記事のタイトルも何やら”思わせぶり”なものですが、相撲の話ではありませんから! 残念!(←2018年もチョイスが古いなー)


今日は仕事が休みで、久しぶりに腰を据えて読書をしていたんですけど

読んでいた中に気になった一節があって、いろいろと考えていたんですよね。

本題は資本主義と社会主義の違いについて、だったと思いますけど(イデオロギーを論じるつもりは微塵もない)

ざっと引用しますと「労働とは、自分の能力を”価値”として物に刻み込む、人間だけが持つ営みである。

しかし、資本主義における労働は効率化・分業化され、その成果も資本家のものとなり、もはや強制される”作業”に過ぎない。

労働者は、労働よりも食事や娯楽にのみ人生の価値を見出すようになりはしないか」
(社会主義を提唱したとされるマルクスの主張より)

今からちょうど200年前にドイツで生まれた学者の主張ですけど、なかなか現代日本の”イタイ所”を衝いている気がしなくもありません。

実際日本で食べる事や遊ぶ事には全く不自由しないけど、それはお金があってこそのことで、そのお金を稼ぐ事にはとんでもなく不自由を感じるという・・・


これから先、AI(人工知能)だのビッグデータだの、生半可な人間では到底手が及ばない先進技術が市場に導入されると

それを使いこなせる人はどんどん仕事とお金が手に入るけど、そうでない人はどうなってしまうのかという不安はあります。

「そうならないように努力するんだ、負けたヤツは自己責任だ」という人もいるでしょうけど、人間はスタート地点も能力も一人ひとり違って、決して平等ではない。

一流(という表現は私は好かないが)のスポーツ選手やタレントでも、予測できないケガや不祥事でその後の人生を棒に振ることだってある。

ましてスタート地点も能力も二流・三流(重ねて言うがこういう人間の区別の仕方は私は嫌い)でしかない人間なら言うに及ばず・・・ 

もちろんそこから這い上がる人もいるし、そういう存在からは学ぶべきところも多いけど、全員が同じ方法で成功できるわけでもない。

とりわけ”学校で勉強ができた”しか取り柄を持たないタイプの人間は、(すでに現代でもだけど)将来は相当苦労するんじゃないかと・・・


いかん、また話が変な方向にそれてしまう。 軌道修正。

で、タイトルの話に戻るわけですけど、お相撲さんは本場所で勝つために、毎日稽古を積むのは当然のこととして

常人の数倍の量の食事をし、充分な睡眠(昼寝含む)をとって栄養を吸収し、部屋での共同生活で相撲界のしきたりや人間関係を学び・・・

と、生活の大半の場面で何らかの学びや鍛錬を得ているようなのですよね(子どもの頃、興味があってそういう本を読んだことがある)。

もちろん素質に恵まれていたり、大きなケガをせず高い意識を持って稽古を重ねた力士のみが”一人前”の『関取』になれるわけで

脚光を浴びる人とそうでない人、言い換えれば”優勝劣敗”がはっきりするスポーツの厳しい世界ではあるのですけど

そういう”アスリート”でない大多数の人にとっても、自分が働くのが”時間と労働力を売ってお金を稼ぐため”に過ぎなかったとしても

労働以外の時間を”次の労働に向かうための骨休め”としか考えないのは、正直もったいないことなのかな、と思ったりして。


バランスの取れた食事と十分な睡眠をとって体調を整えること、読書や学習の習慣をつけて新しい知見を得ること、

あるいは仕事場以外の人たちと広く関わること、逆に自分自身の生き方や考え方を掘り下げていくこと、などなど・・・


お相撲さんの生活と同じで、本業に従事する時間以外の方が、自分の人生にとって重要なのかもしれない、と。

そういう時間を持つことすら許されないほど長時間労働に拘束する、あるいは労働者の心身に過度の負荷をかけて身動きを取れなくする

いわゆる(定義づけが異なるかもしれないが)”ブラック企業”がなくならないのは、資本主義の宿命として仕方ないのかもしれないけれど

一人でも多くの人がその呪縛から逃れることができれば、多少なりとも”働き方改革”の成果となり得るのではないかと。

あとは”お金を稼げない=(日本で)暮らしていけない”という(一種の強迫に近い)価値観も、いつか変わる日が来るのかなぁ・・・なんて。


まぁこのブログは思想や主義の良し悪しを議論する場ではないし、政治家や大企業に注文をつけたところでしょうがない部分もありますんで

今日のところは『人生の中で何に最も重要な価値を見出すか、という問いを一人ひとりが突き付けられてるんじゃなかろうか』という結論(?)にしておきます。

私もこれまで自分の人生を投げ出したくなることが数えきれないほどあったし、これからも数十回、数百回とあると思いますけど

何か”人生を懸けてなすべきこと”が見つかれば、それに視線を向けることで多少の問題は視界に入らなくなる気がしましたから。

『お金が欲しければ一生働けばいいし、知識が欲しいなら一生勉強すればいい』と、テレビで見た誰かが言っていましたっけ。


ただ”それができないから苦労してるのさ”と、私の心の奥底にある弱気が叫んでいます。 

でも気持ちが熱い今だけは負けたくないなぁ~、自分の中の弱気に。

何日かすれば平熱に戻るだろうけど、このままくすぶったままでいたくもないので、心を乗っ取られないようにしないと。


・・・うん、明日からもまたいつもの仕事だけど、ちょっとやる気出てきた。

では、へばってしまわない程度に頑張ってくるので、皆様方もどうぞ”ぬかりなく”

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