そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【人生(仮)】「より良く生きたい」「人生を変えたい」を邪魔する無力感。 どう付き合うかが、人生そのものかも?

こんばんは。

今日は、さっきまで無心で戦国関係のブログ記事のネタ練りをしておりましたよ。

手をつける前は「あー面倒だなぁ、休みが潰れるなぁ」とネガティブモードにもなりますけど、始めてしまえばこちらのもの。

やはり興味のある分野の話だと、次から次に知りたいことや調べたいことが浮かんできて、気が付けば2時間経ってました。

これで明日の仕事終わりに「あー土曜日の記事どうすっぺー」と頭を悩ませる問題もなくなりました。 スッキリですね。


で、本題はこれとはあまり関係ないんですけど。

今日はメンタル系の病院の予約を入れてて、そこでかかりつけの先生と話をしてきました。

一時期は「もう生きるの疲れた(本当はもっと刺激的な表現)」的な言葉もぶつけていましたが、最近はずいぶん穏やかに。

仕事の内容や人間関係によるストレスも前職より少なくなり、少ない収入でも生活のやりくりができている自負もあるからでしょうか。

それでも一度飲み始めた薬の量は簡単には減らせないとのことですが、これからの人生の大半をかけた気の長い仕事になるでしょうね。


そこでさっきの「生きるの疲れた」ですけど、これには2通りの受け取り方ができるようで。

一つはもう文字通り「もう生きるのを終わりにしたい」という、自分の人生に対する諦めの境地。

もう一つは「今より良く生きたい」とか「人生を変えたい」という、エネルギーを秘めた言葉として。

想像に過ぎないところですが「生きるの疲れた」と言う人は、この2つの間をゆらゆら揺れるブランコのような状態で。


できることならもっと自由に、食べたいものを食べて、行きたい場所に行って、信頼できる人と付き合って・・・

でも、今の自分の能力だったり資本だったり境遇だったりがそれを許さない。 もっと○○があればできるのに、自分にはそれがない。

努力すれば手に入るかもしれないけど、もし手に入らなかったら自分が傷つくだけだし、他人から「自己責任だ」と言われるのも嫌だ。

それ以前に、もう前向きな努力をするだけの体力も気力も使い果たした自分は、このまま何者にもなれない人生の終わりを待つだけなの・・・?



書いても読んでも気分が落ち込むのでこの辺で止めますが(本当はもっとこういう暗い部分に向き合いたい気持ちもありますけど)

そうした無力感というか、植松さんの言うところの「どーせむり」にいっそ流されてしまうのも、一つの生き方ではあります。

現に自分自身も「なるべく努力をしないで、お金や知名度が欲しい」という気持ちがないわけではありません。 そう見える人は正直うらやましいですし。

でも(とは言いたくはないんですけど)、そうでない生き方のほうが大抵の人からは好まれますし、達成感もあるとは思うんですよ。

いい意味でも悪い意味でも、今日と同じ世界がいつまでも続くわけではないし、今日と同じ自分がいつまでもそこにいるわけでもない。

それは退化かもしれないけど、ひょっとしたら進化とか成長かもしれない。 痛みも伴うだろうけど、それを超えた時の喜びもあるだろうか。

明日の為替(かわせ)相場が完璧に分かる人などいないのと同じで、明日の自分を完璧に予習することもまた人間にできる事ではないのでしょう。

そして『物事の良い面は過小評価してすぐ忘れ、悪い面は過大評価していつまでも記憶に残る』のは、動物の本能らしいですし。


うーん、やっぱりこのテの話は落としどころが分からなくなりますね。 まだまだ勉強不足だなぁ・・・。

ともかく、そろそろ寝る時間が迫っていることだけは確か。 強引ながら締めます。


『明日は、自分がやりたいことを一つだけやってみよう。

 やりたいことがないなら、やるべきことをやろう。

 それもできないなら、誰かに助けを求めるか、動けるだけの力を溜めよう。』



「頑張れ」とか「やればできる」とか「いつやるの?今でしょ!」なんて私は他人に言えないし、言いたくもないので

言えるとすれば『まずは目の前にある山を越えるために、何ができるか考えること』かなぁ、と思います。

もちろん『その山を越えてどうなるのか』とか『そもそも越える必要あるのか』を検討して、選択肢を増やすのもアリですが

その余力すらない人(過去の自分も含めて)もいるので、モヤモヤと向き合う上で何かの参考になれば。


では、今日はこのへんで。

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【人生(仮)】相撲取りの世界では、”食べるのも寝るのも稽古のうち”というらしいけど。

こんばんは。

年明けからちょうど1週間になりました。 今年最初の日曜日でしたね。

来週には大相撲初場所が始まるらしいですけど、内外が騒がしい中で大丈夫なんでしょうか・・・

今日の記事のタイトルも何やら”思わせぶり”なものですが、相撲の話ではありませんから! 残念!(←2018年もチョイスが古いなー)


今日は仕事が休みで、久しぶりに腰を据えて読書をしていたんですけど

読んでいた中に気になった一節があって、いろいろと考えていたんですよね。

本題は資本主義と社会主義の違いについて、だったと思いますけど(イデオロギーを論じるつもりは微塵もない)

ざっと引用しますと「労働とは、自分の能力を”価値”として物に刻み込む、人間だけが持つ営みである。

しかし、資本主義における労働は効率化・分業化され、その成果も資本家のものとなり、もはや強制される”作業”に過ぎない。

労働者は、労働よりも食事や娯楽にのみ人生の価値を見出すようになりはしないか」
(社会主義を提唱したとされるマルクスの主張より)

今からちょうど200年前にドイツで生まれた学者の主張ですけど、なかなか現代日本の”イタイ所”を衝いている気がしなくもありません。

実際日本で食べる事や遊ぶ事には全く不自由しないけど、それはお金があってこそのことで、そのお金を稼ぐ事にはとんでもなく不自由を感じるという・・・


これから先、AI(人工知能)だのビッグデータだの、生半可な人間では到底手が及ばない先進技術が市場に導入されると

それを使いこなせる人はどんどん仕事とお金が手に入るけど、そうでない人はどうなってしまうのかという不安はあります。

「そうならないように努力するんだ、負けたヤツは自己責任だ」という人もいるでしょうけど、人間はスタート地点も能力も一人ひとり違って、決して平等ではない。

一流(という表現は私は好かないが)のスポーツ選手やタレントでも、予測できないケガや不祥事でその後の人生を棒に振ることだってある。

ましてスタート地点も能力も二流・三流(重ねて言うがこういう人間の区別の仕方は私は嫌い)でしかない人間なら言うに及ばず・・・ 

もちろんそこから這い上がる人もいるし、そういう存在からは学ぶべきところも多いけど、全員が同じ方法で成功できるわけでもない。

とりわけ”学校で勉強ができた”しか取り柄を持たないタイプの人間は、(すでに現代でもだけど)将来は相当苦労するんじゃないかと・・・


いかん、また話が変な方向にそれてしまう。 軌道修正。

で、タイトルの話に戻るわけですけど、お相撲さんは本場所で勝つために、毎日稽古を積むのは当然のこととして

常人の数倍の量の食事をし、充分な睡眠(昼寝含む)をとって栄養を吸収し、部屋での共同生活で相撲界のしきたりや人間関係を学び・・・

と、生活の大半の場面で何らかの学びや鍛錬を得ているようなのですよね(子どもの頃、興味があってそういう本を読んだことがある)。

もちろん素質に恵まれていたり、大きなケガをせず高い意識を持って稽古を重ねた力士のみが”一人前”の『関取』になれるわけで

脚光を浴びる人とそうでない人、言い換えれば”優勝劣敗”がはっきりするスポーツの厳しい世界ではあるのですけど

そういう”アスリート”でない大多数の人にとっても、自分が働くのが”時間と労働力を売ってお金を稼ぐため”に過ぎなかったとしても

労働以外の時間を”次の労働に向かうための骨休め”としか考えないのは、正直もったいないことなのかな、と思ったりして。


バランスの取れた食事と十分な睡眠をとって体調を整えること、読書や学習の習慣をつけて新しい知見を得ること、

あるいは仕事場以外の人たちと広く関わること、逆に自分自身の生き方や考え方を掘り下げていくこと、などなど・・・


お相撲さんの生活と同じで、本業に従事する時間以外の方が、自分の人生にとって重要なのかもしれない、と。

そういう時間を持つことすら許されないほど長時間労働に拘束する、あるいは労働者の心身に過度の負荷をかけて身動きを取れなくする

いわゆる(定義づけが異なるかもしれないが)”ブラック企業”がなくならないのは、資本主義の宿命として仕方ないのかもしれないけれど

一人でも多くの人がその呪縛から逃れることができれば、多少なりとも”働き方改革”の成果となり得るのではないかと。

あとは”お金を稼げない=(日本で)暮らしていけない”という(一種の強迫に近い)価値観も、いつか変わる日が来るのかなぁ・・・なんて。


まぁこのブログは思想や主義の良し悪しを議論する場ではないし、政治家や大企業に注文をつけたところでしょうがない部分もありますんで

今日のところは『人生の中で何に最も重要な価値を見出すか、という問いを一人ひとりが突き付けられてるんじゃなかろうか』という結論(?)にしておきます。

私もこれまで自分の人生を投げ出したくなることが数えきれないほどあったし、これからも数十回、数百回とあると思いますけど

何か”人生を懸けてなすべきこと”が見つかれば、それに視線を向けることで多少の問題は視界に入らなくなる気がしましたから。

『お金が欲しければ一生働けばいいし、知識が欲しいなら一生勉強すればいい』と、テレビで見た誰かが言っていましたっけ。


ただ”それができないから苦労してるのさ”と、私の心の奥底にある弱気が叫んでいます。 

でも気持ちが熱い今だけは負けたくないなぁ~、自分の中の弱気に。

何日かすれば平熱に戻るだろうけど、このままくすぶったままでいたくもないので、心を乗っ取られないようにしないと。


・・・うん、明日からもまたいつもの仕事だけど、ちょっとやる気出てきた。

では、へばってしまわない程度に頑張ってくるので、皆様方もどうぞ”ぬかりなく”

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【人生(仮)】いざという時のために、お金の他にもいろいろ蓄えておきたい話。

こんばんは。

意気込んで立ち上げたわりに、ほとんど使っていない【人生(仮)】のカテゴリーでたまには書いてみます。

といっても内容は完全に思い付きなので、深みが無いのはご了承ください。


仕事が休みの今朝、久々に見たテレビ番組でお金の使い方について話をしていました。

「限りあるお金は、自分のためだけじゃなくて世のため人のためになる使い方をしなさい」みたいな話だったと思います。

まぁ至極ごもっともな指摘なのですが、今の時代はそれもなかなか難しいなと感じていて。

消費税率の引き上げや『森林なんとか税』の新設、年金納付額の引き上げ、物価の上昇など出ていくお金は増える一方なのに

仕事をして安定的に入ってくるお金は増えるわけでもなく、逆にに給料を減らされたり仕事を失ったりする人も増える始末・・・

現代の日本って、「食べる」や「遊ぶ」など『お金を使う』ことには全く不自由しない代わりに

「働く」だったり「起業する」などして『お金を稼ぐ』ためには非常に不都合が多い環境であるような気がしています。

それを嘆いているだけでは何も変わらないし何もできないままなんで、自分がどう動くかになるんですけどねぇ。


すでに『稼ぐ』能力がある人はそれを活かしてどんどん稼げばいいとして、それが無い人はどうしたらいいか。

月並みなアイデアになりますけど、やはり自分が今持っている資源(知識や体力、技術)や環境(人との交流、ネット環境など)を

いろいろな組み合わせで世に送り出すことを考えてみる。 それが『誰かから必要とされ』れば、すごい励みになります。

あるいは今の自分にないものでも、少しでも『自分にもできそう』と思うならば、手に入れるために挑戦してみるとか。

もちろんすぐに収入や知名度が上がることは望めないですが、行動することで自分の中に『経験値』がたまっていくと

「今度はあれもやってみよう」とか「こういうこともできそうだ」という感じで、視野とか行動範囲が広がることもメリットかも。

逆にどうやっても『自分にはできない』と感じることは、思い切ってそれができる人を探して知り合いになるとか。

何かを目指して行動すると、結果が出れば最高ですがその過程でも様々な気づきや収穫が得られるのではないでしょうか。


そうはいっても「どうせ自分には何もないから無理」とか「それができれば苦労はしない」という心の声も、自分の中には同居しています。

何かを表現することは、他者からの批判や嫉妬、中傷などを受けることと隣り合わせというか、それによって”心が叩き潰される”ことすらあると感じていて。

「これ以上傷つきたくないから、何もしたくない。 最低限の稼ぎを得て、一人のまま細々と生きていければいい」と思う時だってあります。

それはそれで一つの生き方ですけど、それで自分の能力とか可能性まで見捨ててしまったら・・・

もう中年といっていい歳になって、あとは年老いて衰えていくだけの自分を、黙って見送るしかないのか?

その先には、とても寂しく恐ろしい結末が待っているとしか思えないのです。


だから、世知辛い現代日本へのせめてもの抵抗として、心と身体が動くうちにできる限りのお金や能力、人脈なんかを蓄えておきたい。

そして、余裕がある時には何とかいろいろひねり出して、自分が少しでも上に登れるための足掛かりを作りたい。

全く具体性が無い話で申し訳ないんですが、今年の残りと来年はこういう事を意識していけたらと思っています。

(それに、これは本来なら10~20代の、気力体力が充実していた時期に考えておくべきだったこと・・・ 今さら感が半端ない。)

このブログにもそれが反映されるかもしれませんし、掛け声倒れになることも十分あり得ますが、どうなることやら。


とりあえずは当面の生活費を稼ぐため、明日からまた仕事を頑張り・・・たくはないですが”自分が納得できる”分はやっていこうと思います。

では、今週も寒さ対策をぬかりなく、ということで。

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【人生(仮)】2日がかりで考えたこと。 意味や評価を求めすぎて、身動きが取れないのかも。

こんばんは。

昨日は久々に(再開後は初めて?)ブログの更新ができませんでした。

体調が悪いという訳でもなかったのですが、どうも書きたいことがまとまらず

ズルズルと時間だけが過ぎ、気が付けば寝なければいけな時間になってしまったのでした。

更新を楽しみにして待っていた方がいましたら、すみませんでした。

で、昨日の分まで張り切って書こうとすると多分疲れるので、それなりに力を抜きつつ話をします。


以前から何度も書いている通り、今の仕事はそれほどプレッシャーのかかる業務ではありません。

毎日のノルマは一応ありますが、基本的に日をまたいで持ち越しなどはなく、その日その日で完結するため

家へ持ち帰ったり寝る前にあれこれ考えたりする必要がないことも大きいと思います。


ただ、これは私の性分なのかそれともよくあることなのか、仕事の内容よりも職場での人付き合いに神経を使います。

「自分からあいさつしたのに、相手は無言の上にこちらを見もしなかった」とか、されるとヘコみませんか?

もしかしたら気付かなかったのかも・・・ いや、ちゃんと相手の顔を見て言ったんだから、分かってはいるはず。

だとしたら、私が声をかけたのが気に食わなかったか、場合によっては私の存在そのものを嫌っているとか・・・

そういえば、学生の頃にもどんなにあいさつしても無視され続けた相手がいたな・・・ やっぱり嫌われているとしか・・・


あぁ、自分はどんだけ価値のない人間なんだ。  


「いくらなんでも考えすぎだろ!?」と思われる方も多いでしょうけど、これが私のデフォルトの思考回路だったりするわけで。

”未来はいくらでも変えられる”とは言っても、”変えられない過去”があっての自分ですから、いくらでも引きずってしまうんです。

そして、引きずられて行きつく先は決まって”自分はダメ人間”という定位置。

そうやっていくら自分を貶めたところで、他人が「よしよし」って慰めてくれる訳でもないのに、ホント飽きないよねぇ。

(そして、仮に慰めてもらえたとしても今度は「人に迷惑ばかりかけて、申し訳ない」・・・ どないせぇちゅうねん。)

読む方もさすがにイライラしてくると思うのでこのくらいにしますが、これを10~20年くらい繰り返しているんですよ、私の脳ミソは。

こんな”困ったちゃん”でも私の生命の一部なので、だましだまし付き合っていくしかないんじゃないか、と思っております。


じゃあその”だます方法”があるのかというと、今考えているのは”物事に、意味や評価をつけない”ということ。

さっきのあいさつの例で、相手が無反応だった理由が”私を嫌っているから”というのは、明らかに自分の思い込み。

仕事場ですから、相手も仕事のことだけを考えていてこちらに気づかなかった可能性だってあるわけですし。

本当のところは、相手に聞いてみなきゃ分からないですよね。 (聞いたところで『アンタが嫌い』と面と向かって言う人は少ないだろうけど)

自分の中で”あいさつを返してもらえなかった意味”を勝手に作ってしまっているから、苦しくなるのかもしれません。

同じように”相手は私を「ダメな奴」と思っているにちがいない”というのも、自分が勝手にそういう評価に落とし込んでいる可能性も。

本当かどうか分からないことを信じて、心や身体を傷つける。 不合理極まりないことですが、これに苦しんでいるのは私だけではない気がします。


ふと考えたのですが、子どもの頃はもっと純粋にいろいろなことを楽しめたはずでした。

砂場に行けばとにかく大きな山を作って、喜んでいました。 次の日雨が降って、崩れていると悲しかったり。

そのうちに他人との勝ち負けとか、優劣とか、性別・性格・考え方の違いとかに”意味”や”評価”をつけて、自分を定義づけしていきます。

それは人が成長する上で避けては通れない道なのですが、それが行き過ぎると”意味”や”評価”がないと行動できない大人になってしまわないだろうか。

「意味がないことは、したくない」

「評価されないなら、やってもしょうがない」

それを避けるために、自分の思考や行動には事前にあれこれ意味をつけ、終われば他者からの評価を求め。

自分を定義づけ、言い換えれば「自分がそこにいる、それをやる理由」という生きる根拠のようなものになり。

不運にもそれが揺らぐことがあると、”意味がない、評価されない自分”の存在価値そのものが危うくなってしまう。

そうならないためには、子どもの頃のように”意味も評価もない、ただただ楽しいこと”をやっていくことも必要なのかなぁと。

「そんなことして意味あんの?」とか「他人に笑われるかも?」と思っても、自分が楽しくなれることなら(社会のルールや法律を破らない範囲で)やってみたらいい。

ちなみに私が今やってみたいのは「戦国時代をテーマにしたゲームを作ること」「サッカー・Jリーグの年度ごとの結果を調べてまとめること」です。

前者は知識・技術・資金などハードルが高くすぐには実行できませんが、アイデアを考えるだけでもすでに楽しいです。

後者も「いったい何の意味があんねん!」と言われそうですが、こういうデータを集めてまとめる作業が昔から好きなんですよ、私。

それこそJリーグが始まった頃、小学生だった私は架空のチームとリーグを作ってサイコロで勝敗をつけ、順位表や星取表をノートに(以下略) 


こういうことを大事にしていけたら、仕事や人生で多少のつまづきがあっても、生きていけそうな気はしてきます。

あ、このブログだってそうか。 ”意味”がなければ”評価”もいらない、どこぞの誰かが趣味でやっているものだったね。


というわけで、今日はマジメでしたが下らない話もいろいろしていきたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします。

明日は土曜日なので、例の歴史連載ネタですよ。 お楽しみに。

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【人生(仮)】ぼんやりぼやぼや、考えた。 余白が無いと、新しいことを書き込めない?

こんばんは。

昨日今日と、10月にしては暑いくらいの陽気に恵まれた山陰地方です。

明日は私の地元・出雲市で大学生による駅伝大会、通称『出雲駅伝』が開催されます。

何年か前には台風の直撃を受けて中止になったこともありましたが、今年はその心配もなさそうです。

ただ、気温が上がる午後からの開催なので、今日みたいな温度だとなかなかハードなコンディションかも・・・

某民放テレビ局で全国放送もあります(はず)。  お休みの方は、よろしければチェックしておいてくださいませ。


さて、ご挨拶はこのへんにして今日の本題。

衆議院が解散し、新しい議員を選ぶための選挙への準備が着々と進んでいます。

一部の政党や政治家は既存の枠組みを崩して、新たな時代を作ろうと息巻いていますが、果たしてうまくいくのでしょうか。

・・・といっても、私ごとき一個人が、この弱小ブログで何か意見したところで世論に影響があるわけでもないし、

第一、政治ネタは『書いている自分自身が、面白いと感じられない』という難点があるので、ここでは別の視点から。


経済と雇用の問題や社会保障の財源、原発との付き合い方、外交・国防の在り方など、今回の選挙で論じられるであろうテーマはいくつもありますが

かつて(非正規とはいえ)教育現場に携わった私は、日本の『教育』をこれからどうしたいのか、というのも注目しています。

選挙を戦う各政党(政治団体含む)の政策公約をすべてきちんと確認したわけでないことは承知の上でお話しすると

こと教育に関しては『教員の育成・雇用のための財源の確保』とか『低所得世帯への教育機会の保障』も大事なのですが

『日本の将来を担う子どもたちに、どんな大人に育ってほしいのか』という信念を持っている候補者がどれだけいるのか、と。

これから猛スピードで変わっていくであろう日本と世界に対応するため、これからの子どもたちに本当に必要とされる力は何なのか。

こういった部分に強い信念を持っている人(なおかつ、ある程度の共感ができる人)が一人でも二人でもいれば、私はその人を応援したくなります。

『それは政治家じゃなくて文部科学省や現場の先生の仕事だろ』とか『政治と教育をいっしょくたに語るな』という意見もありそうですが・・・


言葉は適切ではないかもしれませんが、今までの『お受験のためのお勉強』だけでは、すでに現代においても通用しなくなっている気がします。

学校教育の役割として、社会に出るうえで最低限必要となる知識や学力をすべての子どもに保障する必要は、もちろんあります。

しかし、今の日本では”その部分だけ”、例えばテストの点数や学歴をありったけ伸ばすことだけが推奨されたために

それで人生を勝負しようとしたものの、”上には上がいる”で思わぬ挫折を味わう羽目になってしまった大人が、あまりに多すぎたのではないか、と。


具体的に言えば、『与えられた課題を期限までに、より望ましい形で仕上げる能力(学校の宿題はその練習?)』も、確かに社会で必要とされる場面は多々あります。

ところが、その練習だけをした代償に『出会ったことのない問題には、最初からお手上げ』となってしまっては、社会から”与えられた仕事しかできない大人”と評価されるでしょう。

(全国学力テストで、記述式の問題での”無回答(一切手を付けない)率”の高さが指摘されることからも、この傾向は危惧されます)

そして、コンピューターや人工知能などが発達を続ける中で、”ただこなせばよい仕事”は確実に人間の手から離れていきます。

あったとしても高齢者や海外出身者など、雇用側にとって”安く使える労働力”とみなされた人たちの間で、奪いあいになるでしょう。

最終的に『働きたいし稼ぎたいけど、自分にできて生計を立てられそうな仕事が無い』となってしまってからでは、手遅れなのです。

・・・これは私自身もひしひしと感じている危機感であるのは、言うまでもないのですが。


うん、真面目すぎて面白くもなんともないですね。 ここらでちょっとひねりましょうか。


私が小学生?くらいの頃、何となく見ていたアニメの主題歌に、こんな感じの歌詞が出てきました(著作権の都合上、若干デフォルメ)。

『頭は空っぽにしていた方が、夢や希望をいっぱい入れられる』

まぁ現実で頭を空っぽにしたら仕事や生活に重大な支障をきたすわいな・・・なんてツッコミは置いといて。

子どもの頃の自分はどうだったかな・・・と考えてみると、夢や希望は二の次でとにかくテストの点数や通知表の『5』が欲しかったような気が。

そのために、頭の中に隙間なく知識を詰め込んで、それを授業やテストではき出し、先生に褒められたい・・・だったのかなぁ。

そして、教員として子どもの前に立った時も、それができる子どもだけを褒めていなかったかなぁ・・・と、今になって反省したり。


もし今、何かの奇跡が起こってもう一度生徒の前に立てるとしたら、自分は何を伝えたいだろう。


『・・・知識を詰め込むのもいいけど、ちょっとは余白を残しておけよ』というのが、今日の時点での答えでしょうか。

これは、今の仕事で自分が感じていることとも関連しています。 ちょっと自分語りっぽくなりますが・・・

すでに5か月目に突入した仕事では、一通りのことはできるようになり、上司や先輩からも少しは認められるようになりました。

入ってすぐの頃は、とにかく目の前の仕事をこなすことで精いっぱいで、周りの人や状況を見る余裕などありませんでした。

それでも1か月、2か月と経つうちに自然に頭と身体が動かせるようになり、自分の仕事プラスアルファの事ができるようになったのです。

例えば、他の人が作業しやすいように障害物を動かしたり、新しく入ってきた人に作業手順や注意点をアドバイスしたり。

自分に”与えられた仕事”だけを脳にみっちりインプットすることも仕事をする上での一つの方法ですが、

そればかりでは”与えられた仕事”以上のパフォーマンスは生み出せないし、『替わりはいくらでもいる』と言われたらそれまで。


そうならないために、プラスアルファの部分をどんどん大きくしていかないといけないと思い、ある程度の余力を残して

作業に集中する必要が無いときには、意識的に周りの状況や他の人の動きを観察し、次に自分ができそうなことを探します。

いわばノートの端っこにわざと作っておいた『余白』の部分に書き込むような感じで、日々追加していくイメージです。

歌に出てきた『夢や希望』とは少し違いますが、このひと手間があることで、以前の仕事とは段違いにやりがいを感じています。

教育現場から離れたことで、自分の中で新たな考え方にシフトできた事は、今となっては好ましい変化だと思っています。

惜しむらくは、学校で教育を受けている時に気付けていれば・・・ と、過去を考えても仕方ないので、前向きに。


ひたすら数字や知識を競って、ノートや頭の中を真っ黒にした経験も、今の自分の何かには役立っているはずです。 

でも今は『それだけが人の価値じゃないし、他のやり方もあるんだよ』ということを

自分を含めた大人たちは、折に触れて子どもたちに伝えていく”任務”があるのでは、と思っているのです。

繰り返しになりますが、そんな想いと情熱を持った人が政治や教育の世界に現れれば、私は共感するし、応援したいです。


・・・ぼやぼやの割には、話がふくらみすぎてしまいました。 でも、たまにはこういうのもいいですよね?(←自己弁護乙)

明日あたりは、この反動が来ると思います。 どんなくだらない話が来ても、驚かないでくださいね。

では、また。

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