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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【人生(仮)】人が誰しも抱くであろう喪失感・・・ 頑張ったら克服できるものなの?

こんばんは。


たまたま親が見ていたテレビのワイドショーで、久しぶりに『ゴミ屋敷の住人』という話題を見ました。

今回取材されていたケースでは、当事者は80歳前後の男性で一人暮らし。 昔はお店を営んでいたが、廃業して現在は無職。

母親と死別した30年ほど前から屋外で拾ったゴミを自宅に持ち帰るようになり、現在ではゴミが自宅の外まであふれだす状態。

近所付き合いも皆無に近く、むしろ近隣住民からは迷惑がられている様子。 行政も定期的にゴミ出しの指導やゴミの撤去を行っているが、効果は無し。

取材したテレビ局のディレクター?の問いかけにも答えたり答えなかったりで、心のどこかに”孤独感”や”絶望感”を抱えた人物のように見えました。


・・・これだけを読んだ限りでは『単なる怠け者じゃないか』とか『近所に住んでいて欲しくない』みたいに感じる人も、多いのかもしれません。

自宅からあふれ出すほどにゴミを溜めこみ、それが近隣にも悪い影響を与えているとなれば、本人の思考や習慣に課題を見出す必要もあるのでしょう。

そしてブログ主だって(このように書いているという事は)そういう印象も抱きましたし、それが人間として抱いてはいけない感情だとも言い切れません。

とはいえ、ここで放送された10分ほどのVTRだけで、彼が彼なりに懸命に生きてきたであろう80年の人生を『無駄な人生』と断じることは、私にはできません。

それは誰の人生に対しても言えることですし、ブログ主自身の37年の人生についてもそうであって欲しいと感じることです。


ここからはあくまでブログ主の見解に過ぎませんが・・・


この男性がゴミを集め続けて手放せないのは、”失ったものの埋め合わせをしたいから”ではないだろうか? と思いました。

今は年老いた彼にも若い頃があり、おそらくですが商売や家庭生活で”自分は恵まれている”と感じた時間があったことでしょう。

しかし、歳をとるにつれて失うものは増えるといいます。 彼の場合も仕事を失い、体力を失い、そして最愛の母親を失いました。

そして人は、失ったものや満たされないものを他の何かで埋め合わせようとする・・・ 健康な人なら”ストレス解消”とでも言いましょうか。

美味しい物を食べる(食べ過ぎ注意)、好きな本や音楽を楽しむ、心置きなく睡眠をとる・・・あたりなら『まぁ健全な趣味』と言えそうですが

中には”酒”や”タバコ”に”薬物”といった中毒性の高いモノだったり、特殊な対人関係や宗教への没入、最近ではネットやゲームへの依存など・・・

疲れた人や自信を失った人を手ぐすね引いて待ち受ける”手っ取り早い快楽”に手を染めてしまう人も、現代では増えているように感じます。


そして、今回の彼の場合は”ゴミを集めること”で満たされないココロの隙間を埋め、一種の安心感を得ているのではなかろうか・・・と。

それが道徳的・住民感情的に望ましいかどうかの議論はあるかと思いますが、それ以外の方法を見出す事も今の彼には難しいのかもしれません。

また、ブログ主の親より上の世代が『モノがあればあるほど豊かで幸せという価値観』の中で育ったことも、多少なりとも影響しているのかな・・・とも。

いずれにせよ、身寄りも知り合いもいない当事者だけで解決できる問題ではもはやなくなっていて、行政なり福祉の介入が不可欠だとは思えました。

『自業自得だ、消えてくれ』と冷たく見放すのも一つの”答え”ですが、それが”正解”だという世間の空気になって欲しくはないのが正直な想いです。


人口減少と高齢化そして”孤立化”が進むであろうこれからの日本では、自分だけはこの男性のようにならないという保証はどこにもないのですから。

頑張っても自分ひとりで立てなくなったとき(身体的か経済的か、あるいは社会的にか)、支えてくれる存在がいつでも側にいるとも限らないのですから。

自分の中に芽生えている”満たされない気持ち”にフタをせず、向き合って、埋め合わせる方法はよく考えて。 

外から差し伸べられる手を振り払わずに。 そして、いつかは自分が誰かに手を差し伸べられる存在になることを夢見て。


・・・仕事もしてないのに何カッコつけてんだ、と自分でも思いますが。  久々の【人生(仮)】ネタということで、許してくださいませ。

ではー。

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【人生(仮)】失敗したのは自分のせい? そうじゃなければ誰のせい??
こんばんは。

このカテゴリーで記事を書くのも、本当に久しぶりです。

父の入院をきっかけに、色々と考えるところはあったのですが

記事にするほどでは無い、と書かずにいたら忘れてしまうことが多々。

それではもったいないと思い、メモ書き程度に書いておこうかと。

読んでもあまり得はしないと思いますが、よろしければお付き合いを。


今までの人生で『失敗』したことって、ありますか?

『全くない』と言い切れる人は、いないんじゃないかと思います。

もちろん何をもって失敗と判断するか、その基準は人によりけりではありますが。


例えば『待ち合わせの時間に5分遅れた』ことを失敗と考えるなら

『1秒でも遅れたらダメ』な場合と、逆に『5分くらいは遅れてもセーフ』な場合とでは

相手の受け取り方も変わってくるので、特に後者では何とも思わない人もいそうです。

『相手に怒られたら自分の失敗』というのも、定義としては曖昧ですけど。


あわせて、その失敗の原因がどこにあるのかも問題になりがちです。

先の例なら『寝坊した』だと"自分自身に落ち度があった"になりそうですが

『電車が遅れて間に合わなかった』なら"まぁ仕方ないか"になるかもしれない。

それでもなお『一本前の電車に乗るべきだった』と自分を責める人も(ブログ主も含め)いれば

『こんな時に止まるなんて、ふざけてる』と憤りを何かにぶつけずにはいられない人もいそうですが。


世の中には『自分ではどうにもならない失敗まで"自分のせい"と抱え込む』人もいれば

『自分次第で回避できた失敗も"自分以外の何かのせい"と不満を口にする』人もいるようで。

どちらが良い悪いというより、考え方が偏りすぎなのかなぁ、と最近になって思います。


『人生は努力次第で変えられる』というメッセージが世の中にあふれる裏には

『失敗したヤツは努力が足りない、自己責任』と言いたい人が多いのだろうか、と怖くなることもあり。

確かに、自分にできる範囲のことをやる『自助努力』は誰にとっても重要ですけど

本人が家庭や健康に問題を抱えている状況では、それすらままならない場合もあります。

そうなると誰かの助けを借りる必要がありますが、当たり前に自助努力ができている人がそれを見て

『アイツは努力が足りない、怠けているだけ』とか
『(税金で)助けてもらうなんて、けしからん』と

相手の抱えている困難を見ようとせずに、一方的に非難することができるものなのだろうか、と。

それをご近所さんだけでなく、ネット経由で顔も名前も知らない相手にまでやっているとしたら・・・


話がブレ過ぎたので、いつも通り強引にまとめに入ると。

自分の思い通りにいかなかったことを『失敗した』と言うなら

『なぜ失敗したのか』とか『何が悪かったのか』と"犯人探し"をするのは得策ではないらしい、と。

反省するのと自分を責めるのは、似ているようで違うみたいですし。

取り返す機会があるのなら、同じ失敗をしないための準備をした方が建設的ですし

もう取り返しがつかないなら、現実を受け止めて次の一手を考える時間と冷静さが必要です。

どれだけ周りから『お前はダメだ』とか『使えない』と言われても、自分まで一緒になって責めることは避けたい。

それが自分自身に向かうにせよ自分以外に向かうにせよ、後に残るのは虚しさだけと知ったので。

失敗は成功の母。 敵ではなく味方だと思って、受け入れる度量が欲しいです。


明日からの9月2度目の三連休も、心穏やかでありますよう。

そんでは。

【人生(仮)】心はいつからでも育てられる? 過去の自分に負けてられない。

こんばんは。

今日は予定通り実家で畑仕事をし、先ほどまで車を運転しておりました。

大相撲夏場所もちょうど千秋楽ということで、カーラジオでその様子を聴いておりましたが

横綱・鶴竜(かくりゅう)関が14勝1敗の成績で、2場所連続5回目の優勝を果たしました。

途中までトップを走っていた関脇・栃ノ心(とちのしん)関は、今日勝ったものの3場所ぶりの優勝はならず。

それでも13勝2敗の好成績を残し、敢闘賞と技能賞を獲得。 そして来場所での大関昇進を確実なものとしました。

あとは・・・今日明日のスポーツニュースで報じられるはずなのでそちらをご覧ください(←いつもの逃げ)。

山陰出身の2人の関取は今場所もパッとしなかったしなぁ・・・ 来場所こそは奮起してくれると信じています。


ところで・・・全ての取り組みが終わった後、鶴竜関と栃ノ心関のインタビューが放送されたのですが

2人のコメントに共通していたと思ったのが、勝負に向かう時の『心』の持ち方を考えているなぁ、ということ。

鶴竜関は横綱に昇進して以降、ケガや不調でなかなか横綱として求められる結果が出せない時期もありました。

その苦しい時期を乗り越え、こうして2場所連続優勝という結果を出せたことについて鶴竜関は

「周りからの応援や期待もあったが、まずは自分が『どんな相撲で勝ちたいのか』に集中して稽古をした」と言っていました。

相撲は1対1の勝負ですから、とうぜん対戦相手の特徴や攻め方を研究する部分も必要ですが

それ以上に『自分はこの体勢になったら、簡単には負けない』という、いわゆる”型”を持っている力士は強いといいます。

そして、日々の稽古や生活を積み上げ、自分なりの”型”を磨き上げていくことで

本場所の取り組みで力を発揮することができ、自信が生まれてくるのだと思います。


栃ノ心関は、終盤に連敗して結果的に優勝を逃したことは「悔しい」としながらも

「とにかく『一日一番』、過去や明日の事は考えずに、その日の取り組みに集中することができた」と振り返っていました。

おそらく、大関昇進が懸かっていることで「結果を出さなければいけない」という思いが、本人にはあったと思います。

それでも、先のことは置いておいて、昨日負けたことを引きずらず、その日にやるべき事に集中して臨む。

スポーツマンに限らず、こうした心がけを持っている人は多くても、実践するのは簡単なことではないのでしょう。

かく言う私も過去は思いっきり引きずり、未来をあれこれ不安に思って踏み出せない、正反対のタイプですから。


でもね。

2人のインタビューを聴いていて、ほんの少しですが自分にも光明はありそうな気がしました。

鶴竜関は現在32歳、栃ノ心関は30歳。 相撲界の第一人者・白鵬(はくほう)関にしても33歳。

みなブログ主よりは若いのですが、大相撲の世界ではすでに『ベテラン』と呼べる年齢です。

同い年ということになると、36歳の嘉風(よしかぜ)関が今場所勝ち越していました。 

腕力や瞬発力では20代前半から半ばあたり、伸び盛りの『若手』と呼ばれる有望力士に分があるところですが

相撲界での長い経験の中で、なにより『心』を育て続けていることが、ベテランとして活躍する『カギ』なのではないかと。


自分の『強み』や『課題』は何か。 自分が求める『道』はどこにあるのか。 そして『いま本当に必要なもの』は何なのか。

そういった事を自分に問い続け、周りからの指導や助言も受け入れつつ、自分にできることを課していく。

その積み重ねが、他人がどうだとか社会がどうだとかを心の中から退けて、自分の心に『自信』を育てるプロセスなのかもしれません。


仕事をしていない今は、そういう外からの『雑念』が入りにくいという意味では良い環境なのかもしれない。

(自分からネットの海に飛び込んで、あれこれ不要な情報を拾い集めて疲弊していたら意味がないが)

さんざん傷ついてきた過去の自分は捨てきれないけど、いつまでもそこにすがって生きてはいけないことも分かっているから。

とりとめのない話になりましたが、この歳になるまでずっと見て見ぬふりしてきた『宿題』だと思って

時間がかかっても自分の『心』と向き合い、正面から受け止め、そして育てることに取り組んでいきたいと思います。


それでは、今日はこれで。

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【人生(仮)】世の中にあふれる”普通”や”常識”って、何を基準にしたものだろう?

こんばんは。

今日は朝から降りそうな雰囲気があって、昼前からは結構激しい雨音が室内でも聞こえてましたが

これを書いている夕方になるとすっかり止んで、窓の外には青空と夕焼けも見えています。

日没までに書き終わったら、ちょっと散歩に行こうかしら・・・? (少しお酒入ってますが)


さて・・・仕事をしていない日中、しかも家の中ですることはある程度パターン化されてきます。

決まった時間に起きて、飯食って、ゲームにログインして、少し身体鍛えて、ブログ書いて、ツイッター見て。

ツイッター・・・ これは時間を決めて、というより時間があったら見てしまう、といった方が正しいですが(汗)

一つひとつのツイートをにじっくり目を通すことは少ないものの、たまに『これは!?』と考えさせられるものがあります。

今日の話題は、そういった”あるツイート”から広げていこうと思います。


最近フォローした”ある方”が、このような事をツイートしていました。

「今の社会が求める『普通』や『まとも』の基準が高すぎて、それを真に受けて苦しむ人が多くいる」

一種の”お悩み相談”的なつぶやきに対するツイートだったのですが、私にも心当たりがありまして。

「将来の夢・・・? とりあえず普通に大学に入って、普通に学校の先生になって、普通に結婚して、普通に子ども育てて・・・」

高校生の頃にはこんな事を考えていたような。 ”学校の先生”を”良い会社”に置き換えたら、より一般論になるかも。

でも36歳になった私は、大学は出て一時は学校にも勤めたけれど、結婚も子育てもしてないわけで。

当時の私に言わせたら、明らかに『普通じゃない』人生ですよね。 ただ、そんな自分が不幸だとは思わないんです。


もちろん、好意を持った異性とお付き合いして、家庭を築ける関係になることは、人生において有意義なものになるでしょう。

そして子どもが生まれて、育てる中で得るものも大変に多いでしょうし、それは人類が受け継いてきた”営み”ともいえるもの。

ただ、現代では「未婚化・晩婚化」や「所得の伸び悩み」などを背景に、誰しもが必ず通る道ではなくなってきているのも事実。

ある程度の所得があって、交際を続ける時間もあって、何より”この人なら!”と思える出会いを得る機会があるかどうか。

非正規の職で昼夜問わず働き、自分ひとりの生活を維持するだけで精一杯。 そういう人に『普通は・・・』なんて言っても、虚しいところです。


そう考えると「結婚するのが『普通』」とか「子どもを育てるのが『普通』」というのは、いつ誰から教わった価値観だったのだろう?

周りが「そうした方がアナタのためだよ」と言ってくれるから? 逆に「そうしないなんて、アイツはおかしいヤツだ」と後ろ指をさされないため?

”自分(または親や子ども、親しい相手)が周りから『おかしいヤツ』と笑われないため”に、理想の姿を『普通』の2文字に落とし込んではいなかったか?

そして、昔の自分が(無意識のうちに)納得していた『普通』は、何十年も経った現在でも『普通』なのか??


・・・うーん、酒の影響か普段のウップン晴らしか、ちょっと思考の迷路に入り込んでしまった。 冷静になりますね。

何が言いたいかと聞かれれば、他人の言う”普通”とか”常識”って、その人自身の知識や価値観による線引きに過ぎないのでは、と。

例えば「これくらい『普通は』知ってるだろ、『常識』だろ」という時、「自分が(たまたま)その知識を持っていた」という事実を基準にしゃべっています。

私もたまにあるのですが、「相手が知らない情報を知っている自分は、相手より優れている」という錯覚に陥ることがあってですね。

もちろん逆に「自分が知らなくて相手は知っている」情報だって無数にあるはずなのに、”とにかく相手より優位に立ちたい”という心理があると

「こんな事も知らないのか」とか「だからお前はダメなんだ」みたいに、相手の全てを否定してしまう物言いになってしまう恐れもあって。

一対一の会話でも怖いのに、ネットやSNSを通じて”顔も知らない不特定多数の相手に対して”やっている人の何と多いことか・・・ 

「勘違いしている人が多いですが・・・」なんて書き出しで始まる文章を読むと、こっちがヒヤヒヤしてしまうのですよ。

「自分が知っていることだけが真実、後はすべて間違い!」と言うと、聞く(読む)人をひきつけますがリスクも大きいですから。

どんなに自分がある分野に詳しいと思っていても、知らない事は必ずありますし自分より詳しい他者は必ずいるものです。

(ついでに、そういう人に限って自分の知らないことに言及されると「そんな事、フツーは知らないし!」で逃げたりする。)


またグダグダになってきたのでまとめると、”世の中の『普通』や『常識』って、絶対に守らなきゃいけないものでもない”と。

極めて当たり前の結論なのですが、特に日本人は”出る杭は打たれる”というか”周りから外れてはいけない”と思い込むばかり

誰かが決めた”基準”に自分をはめ込むことが当たり前になっていて、その”基準”自体も時代の変化に即していないのでは、なんて。

別の例えをすると、昔から「大学出ていい会社に入って、定年まで働くのが『普通』」なんて言うけど、今の新社会人はどう思っているだろう。

有名な大企業でも一つの不祥事で経営難に陥ったり、海外の大企業に買収・統合されたりするのが当たり前の時代。

入った会社が30~40年後までそのまま生き残っている保障なんてないし、転職や副業に寛容な見方も広がりつつある。

そんな社会の変化の中で「何が何でも新卒で入った会社にかじりつけ、それが『常識』だ!」と言い切るのは、ちょっと乱暴なのかも。

まして私自身も離職⇒転職を何度も経験して、今もって無職なわけですから、そんな『常識』で飯は食えねぇ!と今なら言えるのですが。

特にこれから社会人になる人は、学校を出るまでは「親や先生の言う事を聞く」でいいのかもしれませんが

その合間を見て「自分の価値観で自分を動かす」練習をした方がいいのかもしれません。 

大事なことは自分で動いて覚えていかないと、誰も教えてくれませんから・・・


あー、久々にいろいろ吐き出したらなんかスッキリした(笑)

人間、勉強や取材といった”インプット”も大事ですけど、時には思い切って”アウトプット”することも必要ですね。

頭に詰め込んで考えているだけだとどうしても煮詰まってしまうし、何より外に出すと他者との接点ができる可能性がある。

リアルで他者と接する機会が激減している今の自分にとっては、精神衛生上も良いことだと思います(仕事は探せよ)。

場合によっては相手に”突き刺さってしまう”場合もありそうですが、表現等は極力気を付けるようにするのでどうかご容赦を。


そんなところで、外はだいぶ暗くなってきました(日は長くなってます)。

明日はスッキリ晴れるといいけどなぁ。 ではまた。

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【人生(仮)】他人と比べて自信を失う”クセ”をどうにかするための、ブログ主なりの考察。

こんばんは。

2日前の金曜日の記事で言っていた”練り上げ待ち”の内容で、今日は書いてみます(忘れてなかった!)

テーマはタイトルの通り【他人と比べて落ち込む”クセ”を、どう克服すればいい??】です。


これを考えたきっかけはもちろん、ブログ主自身がその”クセ”を強く持っているからです。

いつから始まったかはもはや定かではありませんが、最近の例をあげると。

「あの同僚は自分より仕事が早いし、上司からも褒められている。 それに比べて自分は・・・」

「あのブログは大した事を書いている訳でもないのに(失礼)、自分のブログよりも読者が多い・・・」

「(ツイッターで)あの人は『おはよう』とつぶやいただけで何十人からいいねされるのに、自分がやっても無反応・・・」


とにかく、自分と他人を比べる材料があると、反射的に比べてしまうんですね。

そして大抵の場合はその観点において自分より優れているので、『自分なんて・・・』と自信を失ってしまうんですね。

まぁ、それだけならいつもの事だからブログに書こうとも思わないのですが、問題は別の視点にあって。


例えば、メンタル関係のお医者さんが書いた本とか、メンタル関連の症状をある程度自力で克服した人のブログ、

あるいは「自分に自信が持てない、自分はダメな人間・・・」と落ち込んだ人が検索するであろうネット上の記事などでは

決まって「他人と比べるのをやめたら、自信が湧いてくるよ!」という内容のアドバイスが。

多くの方がそろって口にするくらいですから、その見立ては確かに正しいのかもしれませんけど

当事者としては「それが出来るのならとっくにやってるし、こんなに苦しんでいないんだよぅ・・・」が本音だったりするわけで。

そう。 わかっちゃいるけど、やめられないんです。 わかっちゃいるけど、やめられない。 大事なことなので2回言いました。


人間というもの、「なくて七癖」とか「三つ子の魂百まで」という通り、一度心身に染みついてしまった習慣や考え方を変えるのは非常に困難。

その理由は、あくまで聞きかじりですが「その習慣や考え方の中に、無意識に利点(メリット)を感じているから」だそうです。

じゃあ『自分を他人と比べる』ことの利点って何だろう・・・と考えていると、思い当たるフシがありました。

「自分より優れている(と思っている)相手と比べて、劣等感を持って落ち込む」のは当たり前だけど

逆に「自分より劣っている(と思い込んだ)相手と比べることで、優越感を得ることができた」からではないか?と。


優越感。

思い返せば、これは限りなく”自信”と似ています。

「私は、アイツよりテストの点数が良い」 「私は、アイツより足が速い」 「私は、アイツより友達が多い」・・・

特に子どもの頃なら、比べる相手はだいたい「自分より程度の低い”アイツ”」であることが多かったのでは。

「”アイツ”に勝っている」イコール「自分はこれができる、能力がある」という”自信”に結びつくことは、私の経験上もありました。


ただ、学校を卒業して社会に出てからは、自分が勝てる(はずの)”アイツ”はなかなか見つからなくなるんですよね。

それは、自分の心も成長して「自分より程度の低い(と思っている)相手に勝っても、誇れることじゃない」と思うようになるから。

また、テレビやSNSを通して見聞きする人物は、ほとんどの場合自分より優れているから有名になっている、という事実も。

そして何より、あらゆることが高速化・効率化されつつある現代日本では、「できること」より「できないこと」の方が見えやすくなっている。


「何やってんだ」 「こんな事もできないのか」 「それでもプロ(正社員)か」 「これだから派遣(パート、バイト)は」 などなど・・・


常に「自分より優れている”誰かor何か”」と比べられて、価値観として刷り込まれてしまう面もあるのではないか、なんて。

そう思うと、これは”個人個人のメンタルの強さ”だけで片付けてしまえる問題でもないのでは、と。 

絶えずこうした不安や悩みを抱えた人に『心が弱いからダメなんだ、もっとガンバレ』は禁句とされていますが

他人の心の内面まで完全確実に言い当てるのはおそらく不可能なので、相手を余計に傷つける可能性もあることは確かです。


・・・ちょっと脱線気味ですので、話を戻して。

結局のところ、確実に「他人と比べるのをやめる」ための方法として、現時点で言えるのはただ一つ。

”他人と比べることのメリットを手放す”、つまり”他人と比べて優越感を得ることを諦める”ことになるわけですが。

「それだと”自信を失う”ことはなくなるけど、”自信を得る”こともできなくなるじゃん!」 心の中から、そんな声が聞こえてきますよ。

そうですよね。 ホントそうですよね。 大事なことなので(以下略)



ですが、ここで重要な気づきを与えてくれたのは、このブログでも以前に何度か紹介・引用している

北海道で工場経営と宇宙ロケット開発をしながら、全国の学校などで講演活動を行っている植松勉さんです。

植松さんもブログを公開していて、私も主にツイッター経由で更新された記事を読む事があるのですが

その中で何度かおっしゃっていたのが『”優越感”は”自信”とは違うものである』ということでした。


”優越感”は自分より低い相手と比べれば簡単に手に入るけど、自分より優れた相手に出会えば簡単に”劣等感”に変わってしまう。

そんなものは”本当の自信”ではない。

”本当の自信”は、過去の自分にできなかったことができるようになったとき、”自分が成長した実感”とともに得られるものである
、と。


これも、聞く人にとっては「そんなの分かってるし、できないから困ってるんだよ」となってしまうかもしれません。

ですが、今の自分にとって居心地が良くない場所に留まっていても、状況が自然に良くなることはほとんどない、とも感じます。

そして、自分で一歩も前に進まないまま”自信”を得られたとしても、それは単に”優越感”の基準が下がっただけに過ぎない、とも。

だとすれば、このまま(頼りない優越感にすがりつつ)劣等感を抱えて生きていくしかないんだ、と開き直るのも一つの方法だし

それに納得できないなら、自分の中に残った力を振り絞って、できなかったことをやって”本当の自信”をつかみに行くか。

あるいは「一人では何もできないから助けて」と、周囲の人や機関に向けて声を上げるか。
 

自分自身の問題として考えた時に、今思いつく解決策はこれくらいです。 傷つき、恥をかき、後ろ指をさされる恐れはあるけれども。


究極、「他人と比べること自体が無意味」という、”悟り”に近い開き直りもアリかもしれません。

「人間誰だって、最期は骨と灰になるんだ。 そこに優劣なんてない」 数日前、ブログ主が実際に思ったことです。 ・・・病んでますかね、私。


まぁそれは究極過ぎるにしても『自分のメンタルに対して強すぎる”劣等感”は自分を傷つけるだけ』と絶えず自覚すること

頼りない”優越感”を”本当の自信”に置き換えていけるように行動を起こしていくこと、この2点はやってみようと思います。


キーボードを打つ手にちょっと気合いが入りすぎて、長くなってしまいました。

明日はその反動で、あっさり味の記事になるかもしれません。 その時はご容赦を。

ではー。

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