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【戦国時代】シリーズ「落日」幕間 御家騒動多発の背景 

こんにちは。

今日は土曜日ということで、例のシリーズ企画を進めます。

戦国時代の室町幕府について見ていくシリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」ですが、

前回で第1章のキリが良いところまで来たので、今日は番外編的なお話しを一つしたいと思います。


第1章でお話しした「応仁(・文明)の乱」というのは、

つまるところ「将軍家や守護大名(管領)家の跡継ぎ争い」が至る所に引火して起こったものでした。

将軍や大名の跡継ぎの座を巡って、子ども(養子含む)同士が家を二分して争う「御家騒動」は、その後の戦国時代でも数多く発生しています。

この背景には『相続に関する慣習の変化』があったのではないか、というお話です。


まずはこちらの図をご覧ください。


武家の相続方法の変化


簡単に言いますと、鎌倉時代までと室町時代以降で相続の方法が大きく変わったという内容です。

まず鎌倉時代まで一般的だったのは『分割相続』といって、

一族の当主が亡くなった後に、その子どもたちに均等に遺産(領地など)を配分するという方法です。

家そのものを継ぐのは『惣領』と呼ばれる長男で、次男以下(庶子)との待遇の違いはありましたが

子どもたち皆が自分の財産を持てるので、不公平感が出にくい相続方法でした。

この方法で鎌倉時代の武士たちは一族の結束を高め、いざという時には力を合わせて戦ったのでした。


しかし、鎌倉時代の終わり頃になると、この方法の弱点が見えてきます。

それは『代が下るほど、分け前が少なくなってしまう』という点です。

例えば、ある武将が2人の息子に遺産を分けると、一人の取り分は最初の半分になります。

次の代でそれをまた2人の息子に分けると4分の1、さらに2人に分けると8分の1というように

何らかの形で資産が増えない限り、分ければ分けるほど細分化され、1人の取り分は少なくなってしまうのです。

鎌倉時代末期には、こうした理由で困窮した武家が多く発生したともいわれ

さらに元寇(モンゴル軍の来襲)による出費も重なり、鎌倉幕府を倒そうとする動きへとつながったとも考えられています。


こうした失敗を踏まえ、室町時代に入ると新たな相続方法が主流になっていきます。

それが『単独相続』で、一人の子ども(多くは長男)に財産と権力をすべて相続させるという方法です。

こうすることで財産が分散することがなくなり、家としての力も落ちることがなくなるという利点があります。

ところが、この方法にも問題がありました。 『財産をもらえない子どもはどうなるか』です。


一人だけが財産を全て相続するということは、それ以外の子どもには分け前が全くありません。

その家の新たな当主となった兄からわずかな領地を与えられ、それで家族を養うという形になる事が多かったようです。

あるいは近隣の大名家へ養子に出されたり、また名門の家に生まれた子どもであれば寺に入れられお坊さんになるなど

生まれ育った家を継げるか継げないかというのは、本人にとって『天国か地獄か』くらいの違いがあったのです。


そうなると、家を継げず『ただの人』になるのは嫌だという子どもも出てくるわけで、それが争いの種になります。

多くの場合、家を継げないことになっている子どもにも彼に仕えたり世話をしていたりする人間が家中にはいるので

そういう『自分の味方になってくれそうな人間』を集め、跡継ぎになる予定の本人やその父親(存命なら)にプレッシャーをかけるのです。

これがエスカレートすると、それぞれが自分に従う軍勢を動かしてぶつかり合うなんてことにもなりました(応仁の乱の畠山家がまさにそうです)。

こうした家中の争いが長引けば大名家は機能しなくなりますし、戦国時代においては他の大名家が攻めるチャンスにもなりました。

それでも、権力と財産が欲しい人間たちが引き起こす御家騒動は、応仁の乱の頃を皮切りに全国各地で起こるようになっていったのです。


最後に・・・御家騒動には様々なバリエーションがあります。

跡継ぎの座を争う子どもの母親が異なる(正室か側室か)とか、

母親が長男より次男のほうをかわいがり、そちらを跡継ぎにしようとしたとか、

長い間実子が生まれなくて、仕方なく他家から養子をもらったとか、

その養子をもらった直後に、実の子どもが生まれたとか・・・ どれもドロドロの権力闘争になること請け合いです(なんだそりゃ)。

織田信長や上杉謙信、伊達政宗など有名な武将にもそういったエピソードがありますので、興味のある方は調べてみてはどうでしょうか。


以上、『戦国時代と御家騒動』について1記事書いてみました。

次回の「落日」第2章『流浪する将軍』のスタートです。 細川政元が暗躍する「明応の政変」について書きます。

それでは、また。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・終 義尚の治世と、世襲問題再び

こんばんは。


さて、前回は金曜日更新となった連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」でしたが、今週は本来の土曜日に更新です。

畠山一族どうしの争いに端を発し、将軍家の跡継ぎ争いも深く絡む形で足掛け11年続いた「応仁の乱」が終息し、

今日の記事の主役は、8代将軍・足利義政から9代目の将軍に指名された、義政の子・足利義尚(よしひさ)となります。

果たして義尚は、応仁の乱で傷ついた室町幕府と足利家の威信を取り戻すことができたのでしょうか? 早速みていきましょう。


前回の記事でもご紹介した通り、義尚は応仁の乱において義政の弟・足利義視(よしみ)と次期将軍の座を争うことになりました。

1473年12月、義政が「次の将軍は義尚にする」と声明を出した時点で義尚陣営の勝利が決定的となったのですが、

当の義尚はわずか9歳(満8歳)であり、将軍になる意味や行使できる権力について、全くといっていいほど理解していなかったと思われます。

そのため、しばらくは義政やその妻・日野富子、そして富子の兄で幕府重臣の日野勝光(かつてる)らが幕政を動かしました。


それから数年経って応仁の乱がひとまず終息し、義尚も青年といえる年齢に成長したことで、幕府も落ち着きを取り戻しはじめます。

1479年、義政は義尚に将軍の本業を任せられる状態になったと判断し、義尚の「判始(はんはじめ)」の儀式を行います。

これは、将軍の後継者が自分の花押(かおう、今で言う署名代わりの印)を、幕府が発行する公文書に初めて添えることを言ったもので

後継者の「将軍としての独り立ち」を意味する、室町幕府が代々慣例として行っていた儀式のようです。

長いこと政治の世界から離れたいと思っていた義政も、ようやく政界から完全引退・・・とはなりませんでした。


なんと義政は、義尚が正式に将軍になった直後から、政治の進め方にあれこれ口出しをし始めたのです。

経験の浅い義尚を助けたいという思いからか、あるいは憧れの存在である祖父・義満のように裏舞台から政治を動かす『大御所』を演じたかったのか

その真意はわかりませんが、現役の頃はあれだけ『政治の世界から離れたい』と思っていたはずなのに

後進に道を譲って周囲からのプレッシャーがなくなった途端に介入したがるなんて、なんとも現金な話です。

これには義尚もありがた迷惑といった具合で、親子仲はあまり良くないものだったようです。

義政と義尚が同じ女性に惚れてしまい、その取り合いで親子ゲンカになったというエピソードも残っている)


幕府内での不協和音だけでなく、日本国内でも応仁の乱を引きずる形で世の乱れがくすぶっていました。

京にほど近い山城国(現在の京都府南部)のとある地域では、まだ決着していなかった畠山一族の争いに嫌気が差した住民が

大規模な国一揆(くにいっき)を起こし、畠山政長・義就の両陣営の国外退去と国人による自治を求めて立ち上がりました。

また、京から離れた加賀国(現在の石川県南部)では、浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)の教えを守る本願寺の門徒たちが結束し

「一向一揆(いっこういっき)」と呼ばれる軍勢を結成、守護の富樫(とがし)氏を攻め倒すという事件も起きました。

世の安定を取り戻したい幕府をあざ笑うかのように、世相は混乱を深めるばかりの状況となっていました。


そんな中、将軍としての指導力を見せたい義尚はある行動に出ます。

それは『将軍自らが軍勢を率い、幕府に反抗する勢力を倒して威光を取り戻す』というものです。

そのターゲットは、近江国(現在の滋賀県)南部を支配する守護大名・六角氏に決まりました。

六角家は勢力増強のために領内にある寺社や公家の荘園を横領し、幕府による返還命令も無視し続けた、というのがその理由です。

約2万の幕府軍を率いて京を出陣する義尚の武者姿を一目見ようと、京の住民が沿道にごった返したともいわれています。


しかし、近江での戦いは一進一退の戦況となり、幕府軍の遠征は1年以上も続きました。

幕府軍の士気も下がり始めた1489年、まさかの事態が発生してしまいます。 それは・・・


義尚、陣中で病に倒れ急死(享年25)。


大将を失った幕府軍はどうにか京へと撤退しましたが、それより問題なのが『次の将軍をどうするか?』です。

まだ若かった義尚には跡継ぎになる子がおらず、例によって足利家の親族の中から適任者を見つけることになりました。

そして、次の将軍候補として名前が挙がったのは2人。

一人目は、義政の弟・義視の子で、父とともに美濃に滞在していた足利義材(よしき)

もう一人は、これも義政の弟・足利政知(まさとも)の子で、京の天竜寺に入れられ僧侶となっていた清晃(せいこう)

ちなみに、ここで初めて出てきた足利政知という人物は、義政の命令により関東地方に出張中。

後に『戦国大名の元祖』とも言われる北条早雲の出世物語にも関わる人なのですが、ここでは説明を省きます。


もちろんここも、将軍候補者本人たちの意思ではなく周囲の大人たちの目論みがものを言う場面です。

義尚の両親だった義政・富子夫妻は、義材を支持。 管領を長く務めた幕府の重鎮・畠山政長も、義材を支持しました。

出家している人物をわざわざ還俗させるより、幕府のことをよく知っている義視を父に持つ義材が有利であるのは確かです。

一方、清晃を支持したのは細川勝元の子で、若くして管領職を務めた経験もある細川政元でした。

応仁の乱で東軍の大将だった勝元を父にもつ政元は、西軍の中心人物だった義視の子どもが将軍になることに反対でした。

また、細川家と同じ『三管領家』の一つである畠山家の家長・政長が、これ以上発言力を持つのも面白くないと考えたようです。


結局、次の将軍は義材と決まり、義視と義材の親子は美濃から京へ戻ってくることになります。

ところが、この時期になって足利家に不幸が重なります。

まず1490年1月に、8代将軍・義政が死去。 同じ年の10月には、義材の母で富子の妹・日野良子が亡くなり、

翌1491年1月には義材の父である義視もこの世を去ります。 4月には清晃の父・足利政知も亡くなりました。

(余談ですが、しつこく畠山政長の首を狙っていた畠山義就も、1490年12月にひっそりと世を去っています)


足利家の中核を担ってきた要人が次々といなくなり、第10代将軍に就任して間もなく孤立する形となった足利義材。

そして、この時を狙っていたかのように、細川政元の前代未聞のたくらみが着々と動き始めていたのでした。

そして、室町幕府が存亡の危機に立たされる「明応の政変」へと進んでいくのです・・・。


というあたりで、本シリーズの第1章「滅びゆく権威」は結びとします。

第2章は「流浪する将軍」というタイトルで、戦国時代の荒波に翻弄され続ける将軍家の苦闘ぶりを見ていきたいと思います。

なお、次回の記事は章の変わり目の小休止として、「室町・戦国時代のお家騒動」をテーマに記事を書く予定です。

この後もどうぞご期待ください。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・5 応仁の乱!の後始末

こんばんは。

いつもの連載企画、今回は金曜日の公開となりました。

「落日 ~室町幕府、終焉への道~」応仁の乱編、今回が最後のつもりです。

足掛け11年にわたって続いた大乱の終息と、そこで行われた後始末の様子を見ていきます。

前回の反省を踏まえ、コンパクトにまとめていきたいと思いますが、果たして?

それでは、今回もしばしお付き合いください。


室町幕府における政治の主導権争いと、将軍家や守護大名家の跡継ぎ争いが積もり積もって勃発した応仁の乱

前回の記事では、将軍・足利義政の弟で、「後継者にする」という約束を反故にされたと思い込み

東軍から西軍に鞍替えしてしまった足利義視(よしみ)の動向を中心に、応仁の乱のグダグダぶりを紹介しました。

この間も京の市街地だけでなく全国各地で両陣営による小競り合いが発生し、国内は荒れていく一方でした。

そもそも「何がどうなったら勝ち」という明確な勝利条件が見えないため、とりあえず目の前の敵を叩くという状況が続いていたのです。

現地で戦う兵士や武将だけでなく、両軍の指揮官すらもこの戦いの意義を見出せなくなってきていました。


応仁の乱 対立軸まとめ2


乱の勃発から6年目となる1472年、西軍を率いる山名宗全は、東軍のリーダーである細川勝元に対し

「日本全体が疲弊しているし、そろそろ戦いも終わりにして仲直りしないか?」と和睦を提案しました。

以前は義視を将軍として第二の幕府を立ち上げ、西軍の正当性を主張してきた宗全でしたが

戦いに終わりが見えず、また自身も70歳という高齢だったため、生きているうちに一応の整理をつけたかったようです。

勝元にしても、東軍が優勢な状況での和睦であれば異論はなく、「乱を終わらせたい」という思いは宗全と同じでした。


しかし、トップの二人が合意しても実際に戦っている大名や武将たちが首を縦に振らなければ、戦いは終わりません。

実際、東軍では赤松政則(山名氏に領地を奪われた)、西軍では大内政弘や畠山義就が和睦に反対したとされています。

そうこうしているうちに、翌1473年3月に宗全が没し、その2か月後には勝元も世を去ってしまいました。

応仁の乱における両陣営を主導してきた2人の死で、ますますこの戦いの意義は薄れていきます。

両者の死から1年後の1474年、細川氏と山名氏は正式に和睦を果たし、ここに両者の対立は解消されました。

細川氏の代表者は勝元の子の細川聡明丸(後の政元)、山名氏の代表者は宗全の孫・山名政豊でした。


これと前後して、応仁の乱の重要な争点となっていた「将軍家の跡継ぎ争い」にも、大きな動きがありました。

1473年の12月、将軍・足利義政は自分の実子である足利義尚(よしひさ)に将軍職を譲ることを表明したのです。

「義視か義尚か」で東西両軍の主張が分かれた論争にも、一応の決着がついた形です。

細川氏と山名氏が和解し、将軍家の跡継ぎ争いも決着したなると、東西両軍が争う理由はもう無いようにも見えますが、

それでも応仁の乱が終わらなかったのは、戦いをやめたくてもやめられない事情を抱えた人間が(主に西軍に)いたからです。


まずは、義政の跡継ぎ争いに敗れる形になった足利義視

義政の側近・伊勢貞親が流した噂のせいで幕府にいづらくなった(前回参照)という事情はあったものの、

勝手に義政のもとを離れ、あまつさえ本家の幕府に敵対することになってしまった自分は、今さら兄に許してもらえるのか。

とりあえず、「すべては貞親の流した噂が始まりだったんだ・・・」という趣旨の釈明の手紙を兄に送ることにした義視。

それを見た義政も、すでに貞親が亡くなっていたこともあり、義視本人にも悪気があったわけではないと判断し、許すことにしたようです。

(兄弟ふたりが会談し、義視の罪を問わないことを正式に約束したのは1478年のことだそうですが。)

とはいえ西軍の諸将に持ち上げられている状態の義視は、すぐに東軍を支持する幕府に帰ることもできません。

乱の末期、義視は西軍支持者で義視の処遇にも同情的だった、美濃の土岐氏を頼って京を離れていったのでした。


続いて、山名宗全の"切り札"として大軍を擁して西軍に参加していた大内政弘

自分の軍勢が打ち破られた訳でもないのに、東軍に降伏しなければならないことに納得ができませんでした。

しかも、今の西軍は大義名分のない”賊軍”ですから、このまま戦いが終われば守護大名としての自分の立場も危うい。

そこで、政弘がとった手段は「大内氏の財力による幕府への献金作戦」でした。


瀬戸内海や関門海峡などに多数の港を支配する大内氏は、明(中国)との独自の貿易ルートを確立していました。

そこから得られる金銭や貴重品の数々は、大内氏の経済力と軍事力を支える要因となっていたのです。

これに対し、室町幕府は長引く戦乱の影響で収入源と支出増が重なり、財政難に陥っていました。

『義政の妻・日野富子が蓄財や金貸し事業に積極的だった』という通説も、実は幕府の財政を立て直すためだったともいわれる)


政弘は降伏への支度金として幕府に多額の献金を行う見返りに、大内氏への処分が寛大なものになるよう交渉しました。

その結果、大内氏の領地や守護の地位はそのまま維持され、政弘自身も一切責任を問われないことになりました。

この条件に納得した政弘は京から軍勢を引き上げ、本国へと帰っていきました。 1477年11月のことです。

教科書などでは、この大内軍の撤収をもって応仁の乱の終わりとされることが多いです。


そして、一番この戦いに積極的に関与したと思われる畠山義就の場合。

彼のモチベーションは畠山政長を倒して畠山一族の主になる!」というものだったため

細川と山名が和睦しようが、将軍家の跡継ぎが決まろうが、それらは戦いをやめる理由にはなりませんでした。

それどころか、彼の宿敵である政長が義政から「義尚はまだ子供だから、管領になって面倒見てね」と頼まれたことで

義就の政長への敵対心は一気にヒートアップし、もはや応仁の乱すら関係なくなってしまいました。


義就が政長の城を攻めるために京から離れたすきに、大内軍などが京から撤退して応仁の乱が終結。

つまり、応仁の乱の一因になったはずの畠山氏の跡継ぎ争いは、決着するどころかますますこじれて

応仁の乱が終わった後も『場外乱闘』のような形で続いていくという、なんとも不毛な結果となったのでした。

この10年ほど後に起こる『山城の国一揆』も、この両者の争いがからんでいるんですよね・・・ どこまで根に持つ男なんだ、義就。


というわけで、長かった応仁の乱の解説も、どうにかこれで終わります。

次回はようやく本題の室町幕府に戻って、9代将軍となった足利義尚の治世を見ていきます。

第1章「滅びゆく権威」の最終回にするかもしれません。 次週もお楽しみに。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・4 応仁の乱! グダグダ編

こんばんは。

毎週土曜日は、当ブログ渾身(こんしん)の連載企画「落日」をお送りしております。

『応仁(・文明)の乱』から始まる(とされる)戦国時代に翻弄された、室町幕府の足取りを見ていこうという企画ですが

何しろその応仁の乱がややこし・・・いやいや興味深すぎて、なかなか次の話へ進めません。

去年あたりから雑誌やテレビで『今、応仁の乱が熱い!』などと言っていましたが、調べ始めると確かに面白いですね(人間関係や利害関係の複雑さ、とか)。

加えて、それをいかに”歴史に興味が無い”人にも伝えるか、というテーマとも向き合いつつ頭をひねる日々です。

そういうわけで、毎回それなりに”難産”なブログ記事を、今週も無事にお届けできます。

今回は、前回の予告で紹介した「東軍と西軍が入れ替わっちゃった事件」の主役でありながら

世間一般における知名度は非常に低い、そんな男にスポットを当てます。


今回の記事の主役は、8代将軍・足利義政(よしまさ)の弟で、元・お坊さんの足利義視(よしみ)

足利将軍家では、跡継ぎ(基本は長男)以外の男の子は小さいうちに寺に預けてお坊さんにする、というしきたりがあり

義勝や義政という兄がいた義視も、幕府に何もトラブルがなければ立派なお坊さんとして一生を全うしたのでしょう。

しかし、運命のイタズラなのかどうなのか、彼が生きた時代に応仁の乱が起こったことで、波乱の人生となってしまうのです。

今回のお話は、義視が還俗(げんぞく、お坊さんが寺を出て一般人になること)して足利家に戻ってきたところから始まります。


義視の兄で現職の将軍である義政は、何度も言うように政治への興味関心を失い、隠居を考えていました。

しかし跡を継がせる男の子がいない義政は、お坊さんになっていた弟の義視を何とか説得し、自分の跡継ぎと決めました。

ところが、その翌年に義政とその妻・日野富子との間に元気な男の子(後の足利義尚)が誕生。

義視には「必ず次の将軍にするから!」と約束した一方、妻からの「我が子を将軍に!」というプレッシャー(※)も心配な義政。

ここまでは前回の記事でも書いた通りですが、事態はここからさらに複雑になります。

(※)ベストセラーとなった『応仁の乱』著者の呉座勇一先生によれば、
   「義視の妻は富子の妹であり、『富子は義視を敵視していた』という一般的な説明は成り立たない」とのこと



応仁の乱 足利義視のグダグダ人生


事件が起こったのは、1466年。 応仁の乱が始まる前の年、幕府内に不穏なウワサが流れたのです。

「義視は早く将軍になりたくて、義政に謀反を起こそうとしているらしい・・・」

そのウワサは当然義政や義視の耳にも届き、これにはさすがの義政も激怒。 もし事実ならば義視を討つ、とまで言い出します。

一方、身の危険を感じた義視は細川勝元の屋敷へ逃げ込み、兄の怒りが収まるのを待ちました。


その後、義政や細川勝元らがウワサの出所を調べた結果、首謀者は義政の側近であった伊勢貞親(いせさだちか)だったことが分かります。

実は貞親はまだ幼い義尚の養育係を務めていて、義尚を将軍にして自分が権力を握るため、義視の存在が邪魔だったのではないか、と言われています(諸説あり)。

これには勝元だけでなく、そのライバルだった山名宗全も「さすがにやり過ぎだ」と憤りを覚え、二人で義政に貞親の処分を要求。

有力者二人に迫られては義政もうなずくしかなく、貞親は京から追放されることとなりました。

これが「文正の政変」と呼ばれる事件ですが、後に義視の運命を再び左右することになろうとは・・・


さて、どうにか義政と和解した義視でしたが、翌1467年には応仁の乱が幕を開けます。

義視は細川勝元と親密な関係にあり、とうぜん勝元がリーダーを務める東軍を支持する立場をとりました。

一方の勝元も、1月に起こった畠山軍どうしの戦いで宗全に遅れをとった(前回の記事参照)分を挽回すべく、

どうにかして室町幕府に東軍の後ろ盾になってもらい、「官軍」として大義名分を得たいと考え、様々な工作を行ったようです。

それが功を奏したのか、6月には将軍・義政から幕府軍が用いる「旗」を受け取り、一応「官軍」となることに成功します。

これと前後して、次期将軍として義視を推す態度も明確にし、義視を西軍討伐の総大将として擁立することも決めました。


勝元という有力者がバックについているからとはいえ、義視もさぞかし張り切ったことと思われます。

この時期の義視は幕府内で西軍寄りと思われる武将や役人を追放、あるいは処断するなどしており、

「自分こそが次の将軍である!」という権威や影響力を確立させたかったのだと考えられています。

(ただし、義視みずからが戦場に赴いて指揮をとったり敵の兵と戦ったりしたことはないようです。)


ところがどっこい、そう簡単に事が収まらないのが「応仁の乱」のややこしいところ。

幕府から「賊軍」と見なされ、劣勢に立たされていた西軍の大将・山名宗全にも奥の手がありました。

それは、開戦時から助力を頼んでいた守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)の存在です。


戦国時代の大内氏といえば、公家文化に没頭して家臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれた

大内義隆(よしたか)のイメージから、大したことないと思う方も多いかもしれませんが

室町時代の大内氏は、周防・長門(現在の山口県)を中心に中国・四国・九州北部にまたがる大勢力を誇り

幕府の政治にもたびたび影響をおよぼした、日本でも指折りの有力守護大名だったのです。

1467年8月、その大内氏が西軍に加勢し、3万という大軍を率いて上洛(京に入ること)したという情報が流れると

大内氏の威信を恐れた東軍や幕府内の武将の中からも、西軍に鞍替えしようとする者が次々と現れました。

そんな中、義視がとった行動とは・・・


「東軍総大将の地位を捨てて、逃げる。」


という、何とも無責任なものでした。 これには勝元も呆れていたかもしれません。

義視は京を脱出すると、伊勢(現在の三重県)でいくつかの城を転々とし、京での合戦が一段落するのを待ちました。

業を煮やした義政の説得によって義視が京へと戻ってきたのは、1468年9月のことです。

合戦が長期化し、将軍家の跡継ぎ問題もウヤムヤになりかけていたので、一度話を整理する必要もあったのでしょう。


ところが(もう何回目だこれ)、義視にとってどうしても許せないことが起こります。

それは、以前「義視が謀反を起こす!」というウワサを流して追放されていたはずの伊勢貞親が、

いつの間にか義政の側近として復職していたことでした。

どうやら、政治家として有能だった貞親を、義政が許して復帰させたらしいのです。


貞親が兄の近くにいたら、またいつ自分があらぬ疑いをかけられるかもしれない。

それに、そんな奴を近くに起きたがる兄貴も兄貴だ・・・!



「お前を絶対次の将軍にする!」という義政の約束も、今の義視にはもうどうでも良くなっていました。

再度の家出を決意した義視は、京を脱出して比叡山へと身を隠します。

しかし、その10日ほど後、彼は山名宗全と共に西軍の陣地の中にいました。

どうやら義視の家出を聞きつけた宗全が、義視に西軍入りを説得していたようなのです。


というのも、前述のとおり「賊軍」のレッテルを貼られた西軍が「官軍」の東軍と互角に戦うには

兵力の面もさることながら、東軍に匹敵する大義名分が必要だと宗全は考えていました。

そこで、疎んじられたとはいえ将軍候補だった義視を抱き込み、自分たちの幕府を作ってしまえばいい、と。


こうして、義視は”西軍を正当と認める幕府”の将軍に祭り上げられ、本家の室町幕府と同じ政治機構を備えた”第二の幕府”が出現することになったのです。

もちろんこれを認めるわけにはいかない義政は、義視と西軍の幕府を『朝敵(朝廷、つまり日本にとっての敵)』とし、ここに義政と義視の関係は完全に決裂。

跡取りについても義政は手元に残った義尚を推す形になり、開戦以来の対立の構図が覆されることになったのです。


・・・自分で書いてて言うのもどうかと思うけど、長すぎましたね今回。

2回に分けても良かったのかなぁとも思いましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。

次回はもうちょっとコンパクトにまとめたい、応仁の乱終息に向けた流れを見ていく予定です。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・3 応仁の乱! 本番

こんばんは。

土曜日恒例の連載記事「落日 ~室町幕府、終焉への道~」 今週もはじまります。

前回の記事では、『戦国時代の始まり』と評されることもある応仁(・文明)の乱について、

その開戦に関わったを思われる人物の対立関係を紹介してみました。

今日はその続きで、応仁の乱における一番の"争点"ともいえる『足利将軍家の跡継ぎ争い』の模様と

開戦1年目、1467年(応仁元年)に何が起こっていたのかを中心に書いていきたいと思います。


まず、前回のラストで紹介した主要人物の対立関係図をもう一度ご覧ください。

応仁の乱 対立軸まとめ1

応仁の乱では、幕府の管領(政権の補佐役)を長年務めた細川勝元をリーダーとする東軍

中国地方東部を中心に8か国の守護として勢力を誇った山名宗全率いる西軍が争うことになりました。

そして、足利将軍家の跡継ぎ争いも、この両者がそれぞれの主張をぶつけ合うための材料として持ち上げられたのです。


以前の記事でも書いた通り、8代将軍・足利義政は政治への意欲を失っていました。

「将軍なんて早く引退して、悠々自適に過ごしたい」と思った義政でしたが、彼には跡継ぎにできる男の子どもがいません。

そこで義政は、幼い頃に寺に預けられ僧となっていた弟の存在に目をつけ、彼に自分の跡継ぎになるよう説得します。

最初は戸惑い断った義政の弟でしたが、義政の度重なる説得に折れ、還俗(げんぞく)して「足利義視(よしみ)」と名乗り、次期将軍に内定しました。 

ようやく念願の跡継ぎと趣味ざんまいの余生が手に入り、義政もご満悦だったことでしょう。

応仁の乱が始まる3年前、1464年のことです。


ところが・・・ 翌1465年、義政の夢は水の泡と帰してしまうことになります。

義政とその正室・日野富子との間に、待望(?)の男の子(のちの足利義尚)が生まれたのです。

義視を説得したときには「もし後で男児が生まれても、必ず義視を将軍にするから!」と約束していた義政でしたが

政治にもたびたび口出ししていた富子から「あなた、もちろんこの子を次の将軍にするわよね?」と迫られ、困ってしまいます。

決断を下せない義政を見て、富子は山名宗全に子どもの後見を頼み、宗全もこれを承諾します。

実は義視にはすでに細川勝元が後見人としてついており、宗全は勝元への対抗心からこの申し出に承諾したとも考えられています。

この時点で応仁の乱に至る対立関係はほぼ完成し、「勝元+義視+畠山政長」を主要メンバーとする東軍と

「宗全+義尚(+富子)+畠山義就」を主要メンバーとする西軍の対立は、避けられないものとなっていったのです。

なお、義政は義視を推していた意味では東軍寄りですが、本来は将軍として両者の仲裁をするべき立場なので、ここでは除外しています。


そして迎えた1467年、事態はいよいよ風雲急を告げます。

最初に動いたのは、かつて義政から謹慎を命じられた畠山義就です。

前年の暮れに宗全の誘いを受けた義就は、本拠地の河内(かわち、現在の大阪府南東部)から軍勢を率いて京に入っていました。

これに驚いたのか、義政は年始に毎年行っていた当時の管領・畠山政長宅への訪問をキャンセルし

宗全の屋敷に滞在していた義就に年始のあいさつを行います。 

さらに、義政は管領の職を政長から義就に交代する人事を発表、政長には自宅も義就に引き渡すように命令します。

一度は「政長が畠山家の当主だ」と認めたはずなのに、義政のブレまくりな態度はこの後も混乱のもとに・・・


あまりにひどい仕打ちを受けた政長は、1月17日の夜中に自宅を焼き払うと、18日には京の北にある上御霊社に陣を構え

義政に抗議するとともに、事によっては義就と一戦交えようという態度を見せました。

対する義就も、政長が陣を張ったという知らせを受け上御霊社へ進軍、これが「応仁の乱」最初の戦闘となりました。

上御霊社は将軍の住む御所のすぐ近くにあり、戦闘による被害が御所に及ぶのを恐れた義政は

「この戦は畠山家の内輪の争いだから、他の大名は手出ししてはならない」という命令を出しました。

命令を守り政長に加勢しなかった勝元に対し、宗全は命令を無視して義就とともに政長の陣を攻めました。

合戦は宗全の加勢を得た義就軍の勝利に終わり、敗れた政長は勝元の屋敷に保護されることになります。

そして、命令を守ったのに「政長を見捨てた臆病者」という悪評を背負ってしまった勝元の心にも、「宗全許すまじ」という怒りの火がついてしまいました。


それから約4か月にわたり、勝元・宗全の両者は各国の守護大名たちに兵の動員を呼びかけました。

互いに自分に味方する軍勢の兵を京に集め、将軍・義政に自分の正当性をアピールする目的だったとも言われます。

5月の終わりの段階で、東軍の軍勢はおよそ15万西軍の方は約9万まで膨れ上がったとされています(もちろん諸説あり)。

当時の京の人口が20万~22万だったというデータもあり、まさに一触即発という雰囲気が漂っていたといえます。


そして、5月26日には東軍と西軍の一部が小競り合いを始めたことをきっかけに戦線が徐々に拡大、

5月28日に一応の終息を迎えるまでに多くの寺社や民家が焼け落ちるという被害が出ました。

さらに、10月には応仁の乱最大の激戦ともいわれる「相国寺の合戦」が発生し、多数の死傷者が出ました。

それでも、両軍ともに決定的な勝利を得ることはできず、次第に兵力や補給の不安も出てくるようになります。

頼みの将軍・義政は一応の正当性を東軍に認めてはいるものの、その実効性はほとんど無く、跡継ぎの結論も出ていません。

そして、この後10年にわたってドロ沼の争いが繰り広げられることになっていくのです・・・。


次回は、「応仁の乱」がとにかく説明しづらいとされる原因の一つと思われる

「東軍と西軍が入れ替わっちゃった事件」について、見ていきたいと思います。

私もしっかり予習をして記事作成に挑みますので、来週もどうぞよろしくお付き合いください。


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