そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・8 高国vs晴元、ようやく決着! 天王寺に散るのは、どっちだ?

こんばんは。

毎週土曜日のこの時間は、連載シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りしています。

応仁(・文明)の乱に端を発し、幕府の中枢を揺るがし続けた権力争いにも、今回ようやく一つの決着がつきます。

互いに(自身の言いなりになる)将軍候補者を擁立して、その裏で権力を握ろうとした細川高国細川晴元

果たして、相手を政界から葬り去って最後に笑ったのはどちらなのでしょうか? さっそく見ていくことにしましょう。


前回の記事が終わった時点で、権力の中枢により近い位置にいたのは、高国の方でした。

高国は10代将軍・足利義稙(よしたね)に逃げられた後、その替わりとして足利義晴(よしはる)を12代将軍に立てて政権を維持していました。

一方、高国の追い落としを図る細川晴元は、父・澄元(すみもと)の実家がある阿波(徳島県)で再起の時をうかがっていました。

晴元にとって心強い味方は、重臣の三好元長(みよしもとなが)と、義晴の生き別れのきょうだい・足利義維(よしつな)です。

高国と義晴の政権に何か不祥事が起これば、その機に乗じて京へと攻め込み、義維を将軍につけようと画策していたのでした。

歴史は繰り返すといいましょうか、かつての『応仁(・文明)の乱』を思い起こさせる一大決戦の時が迫っていました。


そして、今日の『その時』は突然訪れます(←昔の歴史番組のパクリじゃねーか)

1526年、京にほど近いある国の守護を務める高国のいとこが、自分の重臣に言いがかりをつけて自害させる事件が発生します。

処刑された重臣の兄弟らがこれに怒り、高国陣営からの離反を表明すると、その国内はおろか京にも動揺が走りました。

高国の一族が支配する領地では、国人(こくじん、中小の領地を持つ武将たちの勢力)たちが高国の退陣を求めて次々と挙兵

この時を待っていた晴元と元長も、即座に阿波から兵を率いて海を渡り、近畿へと進軍します。

これに各国の反高国派も続々と合流し、1527年に起こった「桂川の戦い」で晴元率いる反高国連合軍は高国軍の主力部隊を撃破。

窮地におちいった高国は義晴を連れて京を脱出、近江へと落ちていきました。


京に入った晴元は当初の目論見通り、義維を新たな将軍にするよう朝廷に働きかけました。

ところが、朝廷もたびたび将軍が入れ替わる事態に頭を痛めていたのか、はたまた高国への遠慮があったためなのか

義維をすぐに次の将軍とは認めず、代わりに歴代の将軍が若い頃に任命された「左馬頭(さまのかみ)」の官位を与えただけでした。

とはいえ、高国・義晴が京にいない今、政治を動かせる立場にあるのが晴元と義維であることに変わりはありません。

義維も「近い将来、将軍になれるならいいか」と納得し、晴元らとともに畿内上陸後の拠点とした堺(現在の大阪府堺市)に戻りました。

これ以降、晴元らは京ではなくこの堺を本拠地として畿内の政治に参加したため、義維を「堺公方(さかいくぼう)」と呼ぶこともあります。


これで立場が逆転した晴元と高国ですが、高国も当然諦めた訳ではなく、相変わらず両者のにらみ合いは続きました。

そして再び、歴史が大きく動く『今日のその時』が・・・(←だからやめろって)


晴元が上洛し、義維が「堺公方」となってから4年後の、1531年。

逆襲の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた高国が、ついに動き出しました。

憎き晴元から京を奪回するため、高国が今回協力をもちかけた相手は、備前守護代の浦上(うらがみ)氏でした。

前回も登場した浦上氏は、義晴がまだ「亀王丸」と名乗っていた時代にその身柄を保護していた家です。

浦上氏の当主・浦上村宗(むらむね)も、かつて世話をした義晴が政権に復帰すれば優遇してもらえると思ったのか、これを受け入れます。

また、晴元の重臣・三好元長が政治の進め方を巡って晴元と険悪な関係になり、阿波へ帰っていたことも高国には良い材料でした。


こうして、高国軍は東から、そして浦上軍は西から、それぞれ堺と晴元の首を目指して進軍を開始します。

軍団の”かなめ”である元長がおらず、兵力も少ない中で2方面から攻められた晴元は苦戦を強いられます。

さしたる抵抗もなく摂津国(現在の大阪府北部)・天王寺まで進出していた高国軍の勝利は、時間の問題かと思われました。


ところが・・・勝ちを確信した高国に、2つの誤算が襲い掛かります。

1つは、晴元の危機を知った三好元長が、すぐに阿波から堺へと戻ってきてしまったこと。

そしてもう1つは、共同戦線を張る浦上軍に裏切りが発生し、戦線が崩壊してしまったことです。


浦上軍を裏切ったのは、赤松晴政(あかまつはるまさ)という武将でした。

赤松氏はもともと備前・播磨などの守護を勤め、浦上氏を家臣として従えていた名門ですが

晴政の父・赤松義村(よしむら)は浦上氏に下剋上を起こされ、最後には命まで奪われてしまいます。

その跡を継いだ晴政の時代には、赤松氏は完全に浦上氏の支配下に置かれてしまっていたのでした。


『父の仇である村宗に、なんとか一矢報いたい』という想いを知ってか知らずか、晴政に裏切りを持ちかけた晴元。

もちろん晴政はこれにすぐさま応じ、晴元軍と対峙する高国・浦上軍の主力の背後を衝いて、大混乱に陥れます。

これで息を吹き返した晴元・元長の主力部隊も攻勢に転じ、戦況は一気に逆転しました。

1531年6月4日、播磨・大物(だいもつ、現在の兵庫県尼崎市)で決戦となり、高国・浦上連合軍は無残に壊滅。 晴元陣営の大勝利となったのでした。

浦上村宗は乱戦の中で討ち死に。 高国も数日後に捕まり(※)晴元の前に引き出され、切腹となりました(享年48)。

※戦場から落ち延びた高国は、尼崎の町の藍染屋の”かめ”に身を隠していたところを発見された、という逸話がある


こうして・・・細川政元の死から20年余りにわたって続いた跡継ぎ争いにも、ようやく終止符が打たれました。

しかし、この争いに生き残った細川晴元には、さらに大きな"難題"が待ち構えていることを忘れてはいけません。

自身が擁立した足利義維と、高国を失ったとはいえ(一応)正式な将軍である足利義晴との関係はどうなるのか。

また、頼れる重臣・三好元長も、一度は晴元の命令に背いて阿波へ帰ってしまっており、晴元に忠誠を誓っているとはいえない様子。

さらには、これから訪れる"戦国時代"に名を馳せることになる、勇将・智将たちが次々と生まれていることも・・・。

(1521年、武田信玄誕生。 1530年、上杉謙信誕生。 そして1534年、織田信長誕生。)


というところで、この連載の第2章「流転する将軍」も次回がいよいよ結びとなります。

室町幕府12代将軍・足利義晴は、細川晴元・三好元長とどのように付き合っていくのでしょうか。

そして、時代は着々と戦国の世へと進んでいきます・・・  室町幕府滅亡まで、あと40年余り(←これも昔あったよなー)

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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・7 ついに戦国時代の本番? 12代将軍・足利義晴の数奇な運命

こんばんは。

土曜日ということで、今度こそ本当に(汗)シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りします。

第2章に入ってからは室町幕府とその将軍の動きよりも、それを影で操りたい細川家一門内での争いがメインになっていましたが

今回紹介するのは、室町幕府の将軍としては久々に(?)その存在感を発揮することになる、12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の前半生です。

それではさっそく、前回の復習も兼ねて彼がこの世に生を受けたところから見ていくことにしましょう。


足利義晴は1511年に、11代将軍・足利義澄(よしずみ)の子として生まれました。

幼名(成人する前の名前)は『亀王丸(かめおうまる)』と名付けられ、この記事でもしばらくはこの名前を使用します。

義晴には後に紹介する足利義維(よしつな)という兄弟がいますが、どちらが兄だったのか専門家の間でも意見が分かれています。 

ここでは詳しい説明は割愛しますが、この義維も後に義晴の人生を大きく左右することになるので、その名前を憶えておいてください。


さて、亀王丸(義晴)が生まれた当時、義澄は前の将軍・足利義尹(義稙)細川高国に将軍の地位を追われ、京から近江に落ち延びていました。

それでも義澄は将軍返り咲きを狙い、自分を支持して高国と対立した細川澄元と連携をとり、京と将軍位を奪回するため挙兵します。

ところが・・・以前の記事で紹介した通り高国軍との決戦を前に義澄自身が急死したうえ、

その直後に行われた『船岡山の合戦』でも義澄・澄元軍は高国軍に惨敗を喫してしまいます。

その後、亀王丸も高国に捕まったものの、まだ生まれて間もない幼子のため命は取られず、

播磨(現在の兵庫県)・備前(岡山県)などを治める守護大名・赤松氏に身柄を預けられることになりました。


しかし、将軍家との深い縁から亀王丸の命をつないでくれた赤松氏も、その後思いがけない不運(?)に見舞われてしまいます。

赤松氏の家臣でありながら、備前で力をつけた守護代(守護の配下でその地域の責任者)・浦上(うらがみ)氏が

主家の赤松氏に反旗をひるがえし、合戦になった挙句、赤松軍は家柄では格下の浦上軍にまさかの敗北。 これぞ下剋上

その戦のどさくさで、亀王丸も赤松氏の城から追い出され、浦上氏に連れ去られてしまったのです。 なんと過酷な運命でしょう・・・


一方その頃、京では室町幕府における権力を独占したはずの細川高国も、人に言えない悩みに頭を抱えていました。

その動機は、(お飾りの)将軍として奉じていた足利義稙(よしたね)「アンタとはもうやってられん」将軍職を投げ出し、京から逃げ出してしまったことでした。

しかもその出奔(しゅっぽん、逃げ出すこと)の時期が、新しい天皇の即位式が行われる直前という最悪のタイミング・・・

代々、天皇即位の式典は室町幕府将軍が取り仕切る決まりになっていたのですが、それをすっぽかしての脱走劇に天皇は激怒。

天皇に詰め寄られ、困った高国がどうにか代役を務めて天皇の機嫌を取った、という逸話もあるほどです。

ちなみに義稙の父親は、応仁の乱で東軍の総大将を投げ出し西軍に担がれた足利義視・・・ 歴史は繰り返すというか、血は争えないというか。

逃げ出した義稙は、あろうことか高国の宿敵だった澄元(すでに死去)の子・細川晴元に救いを求めたものの、その2年後に死去しました。


高国が一番困ったのは『将軍がいないと、自分の権力も危うくなる』という点でした。

そもそも管領職の権威は室町幕府と将軍あってのもので、将軍が京にいないのをいいことに

自分が好き勝手に政治を動かそうとしても、他の守護大名達が黙っていないだろうというのが、目に見えていたからです。

将軍家の血を引き、なおかつ自分に逆らおうとしない人物。 高国が求めた、そんな都合のいい人物が・・・いました。

高国が目を付けたのは、そう。 かつて自分が(間接的に)死に追いやった足利義澄の子・亀王丸その人でした。

『亀王丸はまだ子どもだし、適当に機嫌をとっておけば、自分に逆らおうなどとは考えないはず・・・』 高国の目が光りました。

こうして1521年、浦上氏のもとで肩身の狭い思いをしていた亀王丸は、高国に丁重に迎えられ上洛を果たします。

そして、その年のうちに元服(成人になる儀式)をして「足利義晴」と名乗り、11歳で室町幕府第12代将軍に就任しました。

こうして、自身の政権を延命させたい高国がかつての宿敵の子を将軍として奉ずるという、奇妙な主従関係が出来上がったのでした。


再び舞台は変わって、高国軍に敗れて配下の勇将・三好之長(ゆきなが)を失った阿波細川家出身の細川澄元陣営では

澄元の遺児・細川晴元(はるもと)と之長の遺児・三好元長(もとなが)が中心となり、打倒高国への執念をくすぶらせ続けていました。

実は彼らには、高国に替わって政治の主導権を握るための『奥の手』があったのです。

それこそが義晴と血を分けた兄弟であり、船岡山の合戦の後に義晴と生き別れて阿波細川家に預けられた足利義維の存在でした。

晴元と元長は、もし京で権威を振りかざす高国の足元が揺らぐことがあれば、すぐさま阿波から軍勢を率いて上洛し

あわよくば高国を追放して義維を将軍に擁立、つまり自分たちが政治の中心に舞い戻ることを企んでいたのでした。


・・・この状況って、何となく『応仁(・文明)の乱』に似ていると思いませんか?

政治の主導権を巡って対立する二つの勢力が、互いに将軍候補を擁立して軍勢をぶつけ合う機会を伺っているという・・・。

しかも今回の動乱で対立しているのは、応仁の乱では(一応)一枚岩だった細川氏の一族。

中央の政治がこんな体たらくですから、各地の守護や守護代、さらに在地の領主までが好き勝手しても止める者もなく・・・。

世はまさに"戦国乱世待ったなし"というところまで煮詰まってきていたのです・・・。


今回の記事はここまでといたします。

次回、ついに高国・義晴陣営晴元・義維陣営の対立が、京の街を巻き込む全面戦争に発展・・・か?(←どこぞのスポーツ新聞かよ)

来週もどうぞお楽しみに。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・6 三好之長という男 ~知られざる三好氏暗躍への苦闘~

こんばんは。

毎週土曜日は、ブログでつかの間の歴史トリップ。 「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りします。

今回の主役は、家督相続を巡る争いを続ける細川政元の養子たち・・・ではありません。

ようやくといいますか、私たちがよく知っている戦国時代に活躍した、ある重要な武将につながる人物が登場します。

その人物とは・・・といっても、タイトルですでにバレてますよね。 とっととご登場願いましょうか。


さて・・・後に戦国大名として、一時期京を支配するほどの勢力を誇ることになる三好長慶(みよしながよし)という武将がいます。

以前、このブログでもこんな記事を書いて紹介していたのですが、憶えている方がいたらスゴイ。

その三好長慶を輩出する三好氏は、阿波国(現在の徳島県)三好郡を本拠とし、室町幕府管領・細川家の分家の一つ(阿波細川家)に仕えた一族です。

そんな三好氏が歴史の表舞台に現れるのは、長慶の祖父(または曾祖父)とされる三好之長(みよしゆきなが)の時代にさかのぼります。 そう、彼こそが今回の主人公です。


細川家という名家に仕えるとはいえ、阿波の片田舎(地元の方スミマセン)の領主に過ぎなかった、三好氏の戦国大名への躍進。

そのきっかけは、管領・細川政元が室町幕府の実権を掌握しながらも、自身の跡継ぎ争いがドロ沼化したことに始まります。

諸々の事情で実子がいなかった政元の養子の一人・細川澄元が阿波細川家の出身だったことが縁で、

之長は澄元に従って政元の近くで仕事をするようになり、政治の中心地だった京に近い地域で過ごしたとみられます。


1507年に政元が暗殺された後、澄元は同じく政元の養子だった細川高国と細川氏当主の座を巡って争うことになります。

阿波細川家の家臣である之長も、主家を実家とする澄元に従って高国軍を相手に奮戦しましたが、

1511年の船岡山の戦いで澄元軍は大敗を喫し、之長は澄元とともに行方をくらまし、再起のチャンスをうかがうことになります。


その好機が巡ってきたのは、船岡山での敗戦から7年後の、1518年。

高国が自身の政権を維持するにあたって全面的に頼りにしていた中国地方の大大名・大内義興

出雲国(現在の島根県東部)で独立した大名・尼子(あまご)氏の脅威から自国を守るため、軍勢を引き連れて京を離れることになったのです。

大内軍が京を離れ、高国軍が弱体化すると読んだ之長は、澄元に対し「今こそ京を奪回するべき」と進言し、澄元軍は反撃を開始します。


澄元軍が挙兵すると、これまで大内軍を恐れて動けなかった澄元派の諸勢力も、相次いでこれに合流。

追い風を受ける形となった澄元・之長の軍勢は、高国派の武将が守る京周辺の城を次々と攻略していきます。

劣勢に立たされた高国は、室町幕府将軍・足利義稙(よしたね)を京に残したまま、近江(現在の滋賀県)に逃げてしまいました。

※この頃、義稙は高国と険悪な関係になっていて、むしろ澄元の挙兵を歓迎すらしていたという

1521年、之長は澄元とともに京に入り、義稙の公認を得て澄元を正式な細川家当主の座に就けることができました。

このまま足利義稙・細川澄元による体制が長く続けば、之長も細川家の忠臣として世に語り継がれたことでしょう。


ところが・・・ ぶざまに京から逃げ出した高国も、決して権力の座を諦めた訳ではありませんでした。

近江に逃げてからわずか3か月後、高国は近江の六角氏や越前(福井県)の朝倉氏、美濃(岐阜県)の土岐(とき)氏など

近隣諸国の有力大名に『澄元討伐』を呼び掛け、数万(2万から5万まで、諸説あり)の大軍を集めて京の奪回に乗り出したのです。

高国のあまりに早く、そして予想だにしなかった大軍勢での反撃に澄元陣営の兵は思うように集まらず、

それでも之長は澄元軍の"かなめ"として、わずか5千の兵でこの大軍を迎え撃ちましたが、兵力の差は覆しがたく

奮闘むなしく敗走を余儀なくされ、落ち延びる最中に捕らえられて処刑されてしまったのでした。

おまけに、どうにか京から阿波へと逃れた澄元も『之長戦死』の知らせに気落ちしたのか、之長が死んだ翌月に病死。

これでライバルをすべて蹴落とした高国が細川家の当主となることが確定し、ついに天下にも平安が訪れるかと思われたが・・・!


何度も言ってますように、これで天下が収まったら戦国時代にはなっていないんですよねぇ・・・。


三好氏の、そして足利将軍家の本当の戦いはこれからだ!


という感じで、少年向けの連載マンガの(打ち切りによる)最終回にありがちなフラグを立てつつ・・・

まこな。先生の次回の記事にご期待ください(←だからやめろって)

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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・5 船岡山は燃えているか? ~ショーグン・ウォーズ~

皆さま、こんばんは。

土曜日のこのブログといえば、そうですシリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」

第2章に入ってから、1回の記事で多くても4~5年くらいしか進んでいない気がしていて

私自身あと何回続ければ終わるのか見当もつかない感じになってきていますが、幕府滅亡まではいきたいと思います。


今日のお話は、「船岡山(ふなおかやま)の戦い」と呼ばれる室町幕府の将軍経験者どうしによる戦いがメインです。

もちろん、足利将軍家での内紛というよりは、それを裏から操って権力を握ろうとする細川氏を中心とした争いになります。

前回までの内容も踏まえつつ、1511年に起こった「船岡山の戦い」までを振り返ってみましょう。


室町幕府の主であった足利将軍家は、管領・細川政元(ほそかわまさもと)によって政治を動かす力をほとんど失いました。

そして、自身の養子たちによる家督争いに巻き込まれて政元が命を落とした後も、その状況は変わりませんでした。


政元が生前に家督を譲る意向を示していたという細川澄元(すみもと)は、

政元が擁立していた現職の将軍・足利義澄(よしずみ)を続けて支持し、家督争いで優位に立ちます。

一方、同じく政元の養子で、澄元に遅れをとった細川高国(たかくに)は、

中国地方の有力守護大名・大内氏に保護されていた前将軍・足利義尹(よしただ)に接近。

やがて、大内氏が大軍を率いて上洛すると、澄元と義澄の軍勢は敗れ、京から近江へと逃げていきました。


これにより、一度は『明応の政変(過去記事)』で京を追われた義尹(当時の名は義材)が再び将軍の座に返り咲き、高国は管領となりました。

もちろんその権力の後ろ盾として、大内氏の大軍がにらみを利かせていたのは言うまでもありません。

義澄と澄元も近江で黙っていた訳ではなく、何度も京奪還のための兵を進めましたが、いずれも大内軍に追い返されました。

さらに1509年には、義澄の命を受けた(諸説あり)刺客が義尹の寝床を襲い、義尹が辛くも撃退するという事件が起きています。

その間に澄元は、政元の養子に入る前の実家がある四国・阿波(現在の徳島県)へと戻り、高国打倒のための兵力を養うなど

室町幕府の主導権を巡るつばぜり合いは、義尹の将軍復帰で収まるどころか、ますます過熱していったわけです。


そして1511年。 両者の運命を大きく分ける「船岡山の戦い」へと突入します。

この頃になると、政治の主導権を巡る義尹と大内義興(よしおき)の対立が表面化し、大内軍を主力とする幕府軍にもほころびが見え始めました。

これを察知した義澄は近江から、また澄元は阿波から、それぞれ軍勢を率いて京を目指します。

二方面からの攻撃を受けた幕府軍は次第に押され、これを見た近畿各地の勢力も義澄・澄元の軍勢に次々と合流。

不利を悟った高国と義興は、義尹とともに京を脱出し、西の丹波(たんば、現在の京都府と兵庫県の一部)へと軍を退くことになりました。

意気上がる義澄・澄元陣営でしたが・・・『好事魔多し』と申しましょうか、まさかの事態が起こってしまいます。

これまでのパターンから想像がつく方もいらっしゃるかと思いますが、そうです。


足利義澄、近江にて急死(享年32)


近江に侵攻している最中に急死した9代将軍・足利義尚(よしひさ)過去記事】といい、この義澄といい

足利家の人間は、どうしてこうも大事なところで急に死んでしまうんですかね・・・。 何か因縁めいたものすら感じます。

もちろんインターネットやSNSなど無い時代、この情報が広まるまでにはそれなりの時間があったわけですが

それを鋭く嗅ぎつけた(であろう)細川高国と大内義興は、すぐさま反撃に転じました。


義澄の死からわずか10日後には、大内軍を主力とする高国陣営の兵が、澄元軍が京の守りの『要地』としていた船岡山を急襲。

大将を失ったこともあって士気も上がらない澄元軍はなすすべなく敗走し、高国軍は京を取り戻すことになります。

これで、(元)10代将軍・足利義尹(※)を室町幕府の将軍として戴く高国が、名実ともに政元の後継者の地位を手に入れたのです。
(※)この後『義稙(よしたね)』と改名。 一般的には『10代将軍=足利義稙』で通っている。

とはいえ・・・これで天下が丸く収まったのであれば、戦国時代は到来しないわけで。

まだまだまだまだ、一波乱も二波乱もあるのが室町幕府。 次回、高国の『短い春』が終わりを告げる・・・かも?

この続きは、また来週のお楽しみ。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・4 細川政元亡き後のグダグダ ~ショーグン・リターンズ~

こんばんは。

皆さまお待ちかね(待ってねーよ)、連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」のコーナーです。

前回の記事では、室町幕府10代将軍・足利義材(よしき)を京から追放し、傀儡(かいらい)として足利義澄(よしずみ)を11代将軍に擁立したことで

幕府の実権を完全に掌握して『我が世の春を謳歌(おうか)する』状態を築いた細川政元(ほそかわまさもと)の最期までをお伝えしました。

このとき、西暦1507年。 皆さまご存じの戦国時代の英雄たちが生まれるまでにはもう少し間がありますが

彼らが活躍する背景には、この特集で紹介している室町幕府の衰退と権力争いの構図があるわけですので

もうちょっとだけ、この知らない名前ばかりのゴタゴタ劇にお付き合い頂きたく存じます。


さて、暗殺された細川政元には実の子どもがおらず、3人の養子をとって育てておりました。

このうち、政元の後継者に事実上内定していたのは、細川家の分家から養子に入った細川澄元(すみもと)でした。

それに対し、一番先に政元の養子に迎えられ、一時期は政元の後継者として期待されていた細川澄之(すみゆき)は面白くありません。

以前の記事で紹介した通り、この時代の大名家における親子間の相続は

跡継ぎになれた子とそうでない子で「天国か地獄か」くらいの差を生むものでしたので

澄之本人だけでなく、彼の親族やその家臣たちの中にも「何としても澄之を跡継ぎに!」という思いが高まっていました。

ついには「跡継ぎは澄元」と言い続けて譲らない政元を、澄之の家臣が暗殺するという悲劇が起こってしまったのです。


その後、澄之の家臣たちは澄元本人も亡き者にしようとしましたが、身の危険を察知した澄元は京を脱出。

近江(現在の滋賀県)に逃れた澄元は、「養父を討った謀反人・澄之を討つ」という名分を掲げ、親族や近隣地域の兵を集めました。

さらに、政元の3人目の養子である細川高国(たかくに)も澄元を支持して澄之を討つべきだと主張し、澄之は細川家中で孤立することになります。

結局、政元の死からわずか2か月後には澄之は澄元・高国の連合軍から猛攻撃を受け、あえなく自害。 

養父を亡き者にしてまで家督を狙った澄之の野望は、あっさり潰えてしまいました。


これで澄元の当主就任が決定的になったかというと、そうでもありませんでした。

「澄之を倒すべし」という意見では一致していた高国も、当然のように細川家の当主の座を狙っていたのです。

優勢な澄元に対し、一発逆転を狙った高国が頼った相手というのが・・・ テレビならここでCMに行きそうなもんですが、そのまま続けます。


高国は、応仁の乱でも大きな影響力を発揮した西国の大大名・大内氏の力を借りることにしたのです。

その財力・軍事力もさることながら、大内氏にはもう一つの『武器』がありました。  前将軍・足利義材(この頃は『義尹(よしただ)』と改名)の存在です。

澄元が現将軍・足利義澄を擁している関係上、高国がそれに対抗するためには別の将軍候補を擁立することが重要だったのです。

対する大内氏の当主・大内義興(よしおき)も、政元が倒されて京が混乱している今こそ、大内氏が中央政治に介入する絶好のチャンスだと考え、高国との連携を承諾。

こうして、細川澄元・足利義澄という政元の路線を受け継ぐ勢力と、細川高国・足利義尹+大内義興による対抗勢力がぶつかり合う構図ができあがります。


翌1508年、澄元陣営と高国陣営による戦いが勃発しましたが、高国が味方につけた大内氏の影響力はやはり大きく

大内氏の大軍を恐れた近畿地方の大半の武将が高国に味方したことで、澄元と足利義澄は京を追い出され、近江へ逃げます。

そして大内義興とともに京に入った足利義尹は、この年の7月に将軍の地位に就き、流浪の身から『返り咲き』に成功したのです。


しかし、これは『将軍経験者どうしによるドロ沼の争い』という、前代未聞の動乱の序章に過ぎなかった・・・。

次回、『船岡山(ふなおかやま)は燃えているか!?』にご期待ください(サブタイトルは変更になる場合があります)

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