そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・12 裏切り者にも”義理”はある!? ~信長包囲網・ラウンド1~

こんばんは。

歴史ネタが好きな方もそうでない方も、土曜日は連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をどうぞ。

前回の記事では、天下布武(てんかふぶ)の達成を目指す織田信長の軍事力を頼りに

室町幕府の本拠地・京への帰還を果たし15代将軍となった足利義昭が、いろいろあって信長と微妙な関係になったところまでお話ししました。

そして今回は、両者の対立がヒートアップして・・・とまでは言えませんが(言えないんかい)、信長の軍勢とそれに対抗しようとする勢力との争い、

後世の歴史ファンから『信長包囲網』と呼ばれる、信長に対する大規模な共同戦線が張られるまでの経緯を見ていこうと思います。


まずは前回のラストシーンをおさらいすると・・・

信長の助けもあって将軍になったはいいものの、信長から「俺の許可無しに、勝手に動いちゃダメ!!」と言われてしまった義昭は

「信長が言う事聞かなくて困るの・・・ どうしたらいい?」と、助けを求める文書を(信長の目を盗んで)諸国の大名に送りました。

そのうち、越前(福井県)を治める朝倉義景(以前、将軍になる前の義昭をかくまっていた)が義昭と連絡を取り合っていることを知った信長は

「俺に内緒で何相談してんの? やましい事が無いなら上洛して説明してよ」と伝えましたが、義景は動きませんでした。


この朝倉氏と信長の織田氏は、元をたどればどちらも越前の守護大名・斯波(しば)氏の家臣でした。

越前の他に尾張も領地としていた斯波氏の命令で織田氏は尾張に行き、戦国時代になって信長が尾張を統一したのです。

朝倉氏には『かつて同僚だった織田の成り上がり者に頭を下げるなんて、できるものか』というプライドがあったのでしょうか。

一般的には「義景が○○(自主規制)だったから」と理由づけされることが多い”義景の上洛拒否”ですが、実は先祖代々の因縁も原因だったのかも?


とにかく、義景が上洛しないことを「幕府に対する謀反の兆し」と決めつけた信長は1570年、3万の大軍を率いて越前へ攻め入ります。

突然の敵襲に朝倉軍は浮足立ち、信長軍は連戦連勝。 朝倉氏の本拠・一乗谷への攻撃も時間の問題と思われていました。

ところが、ここで朝倉軍にとっては”天の助け”、そして信長にとっては”天国から地獄”の事態が発生します。

信長の妹・市(いち)と結婚し、織田氏と同盟を結んでいた近江(滋賀県)北部の大名・浅井(あざい)長政の軍勢が

『朝倉軍と協力して織田軍を挟み撃ちにするため、近江から越前に向かっている』という知らせがもたらされたのです。

自分の妹を嫁にもらった長政が、まさか自分を裏切るとは・・・ さすがの信長も「ウソだろそれ!?」と口走ったとか(『信長公記』の超意訳)。

それでも挟み撃ちにされてはひとたまりもないと、信長は越前攻略を諦め撤退を開始。 迅速な判断のおかげで、被害も少なく窮地を脱出しました。

(後に天下人となる木下秀吉が撤退戦で活躍したり、市が信長に”小豆入りの袋”を送ったりした逸話もあるが、説明は割愛)


これも一見すると『嫁の実家を一方的に裏切るなんて、長政はなんてひどいやつだ!』という感想を持たれる方もいるでしょうか。

それでも浅井氏には浅井氏の事情がありまして・・・ 簡単に言えば”浅井氏は信長への義理より、朝倉氏への義理をとった”という話でして。

これも歴史好きには基礎知識かもしれませんが、浅井氏と朝倉氏は戦国時代の隣国同士では珍しく良好な関係を築いていました。

浅井氏が近江南部の六角氏に圧迫されて窮地に陥った時には、朝倉氏が援軍の派遣や資金援助など、様々な助けをしたともいいます。

その恩を忘れていなかった長政(一説には、長政が隠居させた父・久政とその取り巻きたち)は、信長との同盟の条件として

『同盟があるうちは、信長は朝倉氏と事を構えないでほしい』と頼んでいたのですが、信長がそれを反故(ほご)にする形になったのです。

義昭が長政に直接『信長をやっつけてくれ』と頼んだかどうかは分かりませんが、とにかく浅井氏も朝倉氏と共に、信長包囲網の一翼を担う形になりました。


朝倉と浅井、2つの大名家を敵に回すことになった信長ですが、それでも軍事的優位は動きませんでした。

越前から決死の撤退を果たしたおよそ2か月後、織田軍は同盟相手の徳川軍とともに浅井氏の本拠・小谷(おだに)城近くへ侵攻。

浅井軍とその援軍の朝倉軍がこれを迎え撃ち、これも歴史好きには有名な”姉川の合戦(※)”が起こります。

(※)”姉川の戦い”について、実は様々な呼び名が残されていることは、以前この記事で紹介しております。

結果は織田・徳川軍の辛勝、といっておきましょうか。 浅井・朝倉軍を撤退させたものの、織田軍の被害も大きかったようですので。

おまけに、追い詰められた浅井・朝倉の両家は比叡山延暦寺(今とは違い、武装したお坊さんが大勢いた)に助けを求め、信長はさらに敵を増やしてしまいました。


そして。 ここからが”信長包囲網”の本番。

信長に対抗しようとする勢力が出てきたことに勇気づけられた(?)のか、かつて信長に京を追われて四国に避難していた

”三好三人衆(それぞれの名前は思い出せなくても大丈夫)”が、再び京を支配せんと本州へ上陸してきます。

「これはまずい」と思った義昭、あわてて信長を京へ呼び戻し(この時点では両者の関係は破たんしていません)

彼らと長年敵対していて、信長とは仲が良かった大和(奈良県)の松永久秀とともに、三好軍を迎え撃つことに。

三好軍だけなら何の問題もなく勝てるはずの織田軍なのですが、背後の浅井・朝倉・延暦寺の動きも気にしながらで、戦況は一進一退。

そして、信長にとって再び”天国から地獄”となる知らせが・・・ 「そんなんウソやろ・・・!?」信長が激しくうろたえたという、その知らせとは!?


おっと、ここで今日はタイムアップ(ネタ切れともいう)。  続きは次回ということで。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・11 義昭の野望、信長の無謀!? ~幕府再興を懸けた、めくるめく心理戦~

みなさん、こんばんは。


先週は思わぬ事態に見舞われ、連載を休止してしまいすみませんでした。

2週間ぶりとなります連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」は、第3章「最後の煌(きら)めき」も後半戦。

後に”室町幕府最後の将軍”となる足利義昭(あしかがよしあき)が、三好家の一派に支配された京へ戻るべく

美濃(岐阜県)を制圧して『天下布武(てんかふぶ)』のスローガンを掲げた新進気鋭の戦国大名・織田信長を頼る、というところまでを前回の記事でお話ししておりました。

今回は、美濃に移った義昭が信長とともに上洛(じょうらく)、つまり京への進軍(義昭にとっては”帰還”)を目指すところから始まります。


1567年に稲葉山城(現在の岐阜城)を制圧し、本国の尾張(愛知県西部)に加えて美濃を手中に収めた織田信長は

越前(福井県東部)の朝倉氏の下から移ってきた義昭や細川藤孝、明智光秀らの依頼を受け、翌1568年に上洛の軍を興します。

美濃を制圧したことで、織田領から京へ向かうまでに通過しなくてはならない国は近江(滋賀県)のみとなっていました。

このうち、近江の北部を支配していた浅井(あざい)氏は、当主の浅井長政(ながまさ)と信長の妹・市(いち)が夫婦になっており、織田家と同盟関係にありました。

一方、近江南部の六角(ろっかく)氏は、信長の上洛に抵抗する姿勢を見せたため(三好三人衆と通じていた可能性もあり)、合戦となります。

しかし、以前から家中が内部分裂状態でガタガタになっていた六角軍は、なすすべなく織田(+徳川・浅井)軍に敗れ

実質的な当主の六角義賢(よしかた)が本拠の観音寺(かんのんじ)城を捨てて逃げたことで決着。

信長はその勢いのまま、京の近くに陣取っていた三好三人衆の軍勢をも蹴散らし、義昭を京へ送り届けることに成功しました。


なお、しばらく名前が出てこなかった大和(奈良県)の松永久秀(まつながひさひで)は、三好三人衆との抗争真っただ中でしたが

信長が上洛を目指して出陣したことを知ると、いち早く協力を申し出て三好三人衆を追い落とす手助けをしたそうです。

もっとも、義昭にとっては久秀も兄・義輝を討った三好家の一味であり、決して許すことのできない存在だったので

久秀への厳しい処分を信長に要求したものの、久秀を気に入った信長の説得で”おとがめなし”になった、というのも(歴史好きの人には)有名な話です。


そして1568年10月、義昭は信長の推薦を受け、悲願であった将軍職就任を果たします。 室町幕府15代将軍・足利義昭の誕生です。

実はこの直前に、三好三人衆に擁立された14代将軍・足利義栄(よしひで)が病気で亡くなっており、義昭にとっては追い風となりました。

(この義栄、室町幕府の歴代将軍で唯一”生涯で一度も京に入れなかった将軍”と言われております)

義昭は志半ばで倒れた兄・義輝の分まで、室町幕府と将軍を中心とした政治の復活を目指そうと決意したのでしょう。

しかし、それは信長が目指す”天下布武”の完成形と異なっていたのも事実。 その”ズレ”が、両者の関係を微妙なものにしていきます。


形式上とはいえ日本の最高権力者となった義昭は、上洛に協力してくれた信長に最大限の敬意を払い

「室町幕府の『副将軍』(『管領職』とする説もある)の職を与え、その功績に報いたい」と打診しましたが、信長はこれを丁重に辞退しました。

このエピソードは『古い権威や肩書きには一切なびかない信長△(さんカッケー)』と、”信長の英雄像”を強調するものとしてよく引用されますが

あくまで”幕府が主、信長は従”という立場を明確にしたい幕府と義昭の思惑を、信長が見抜いた結果の駆け引きともいえます。


例えて言うなら「もぅ、義昭ちゃんには私がいないとダメなんだから・・・」と、毎朝起こしに来るお隣さんの幼なじみのように(何の話?)

この時の信長には『これからの幕府と日本を引っ張っていくのは自分だ』という自負があったのかもしれません。


その裏付けとなりそうなのが、1569年から70年にかけて信長が義昭に提出した文書『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』の存在です。

合計21箇条からなるこの文書は、それまでの幕府による政治のルールを再確認するために書き起こされた部分も多いのですが

注目されるのが『これから幕府の用事で将軍に面会するときは、事前に信長の許可を得ること』とか。

『将軍の名で諸大名に発行する文書は、必ず内容を信長に見せて許しを得てから送ること』とか。

極めつけは『信長が必要と認めた場合には、幕府や将軍の許可がなくても諸大名への介入ができるものとする』とあります。

前回の記事でも少し触れた通り、室町幕府には”将軍が直接命令して動かせる兵力”というのがほとんどありませんでしたから

強大な軍事力を誇る信長の存在を”幕府から独立した権力機構”として義昭も認めざるを得なかった、ということになろうかと思います。


例えるなら「べ、別にアンタ(義昭)のために上洛したんじゃないんだからねっ!?」と、思わせぶりな態度を見せる”ツンデレ”な同級生の(だから何の話??)


ともあれ。

最初は信長を頼りにしていた義昭も、こうまで”がんじがらめ”にされては「こんなはずじゃなかったのに・・・」と思い始めます。

この頃から義昭は、先の決まり事にあった「信長が目を通す公式文書」とは別に、各地の大名に向けて「非公式文書」を送ったといいます。

特に、かつて世話になった事もある越前の朝倉義景(よしかげ)に対しては、何度も”ラブコール”を送って自身への協力を求めたようです。

しかし、やはりというかこれを見過ごす信長ではなく、すぐに義景のもとに信長からの詰問状が届きます。

『京で”義景殿に挙兵の動きあり”との噂が流れている。 異論があれば上洛して申し開きをせよ、これは将軍命令である』

挙兵うんぬんは上洛させるための口実に過ぎませんが、当の義景は信長を嫌っていたのか、それとも単に面倒くさがりだったからなのか

この上洛要請を完全に無視。 これを受けて信長は「将軍の命令に従わない不届き者を征伐する」として、越前への侵攻を決意します。

これが、戦国時代を代表する見どころの一つ”信長包囲網”への引き金となる事を、この時はまだ誰も知らなかったのです・・・。


というあたりで、今回はここまで。

次回から次々回にかけて、義昭よりも信長に関する記述が(おそらく)多くなります。 前もってご了承ください。

さーて、気合い入れてネタの仕込みをしないと・・・ 続きは次の土曜日に。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・10 ついに登場!織田信長 ~義昭との出会いと、”天下布武”の真意~

こんばんは。

早いもので、1月最後の土曜日となりました。 ついさっき年が明けたと思っていたのに・・・

ともあれ、本ブログの土曜日連載「落日 ~室町幕府、終焉への道~」は今週も平常通りの更新です。

前回の記事では、室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)が三好家の兵によって暗殺され、

その三好家に保護されていた足利の分家の親族・足利義栄(よしひで)が14代目の将軍に収まったところまでご紹介しました。

今回は、義輝の実の弟・足利義昭(よしあき)が15代目の将軍となるまでにたどった苦難の道のりと

その果てに待っていた、戦国時代最大の英雄・織田信長との出会いまでを見ていきたいと思います。


前回のおさらいになりますが、足利義輝が暗殺された時点で、義昭は”覚慶(かくけい)”と名乗るお坊さんでした。

ところが、覚慶が義輝の弟であることを知る三好家の兵が寺院にまで押し寄せ、覚慶は囚われの身となってしまいます。

それでも、足利将軍家と義輝に忠誠を誓った幕府の家臣たちが、監視の目をかいくぐって覚慶を助け出し、そのまま逃亡。

将軍暗殺という”幕府への重大な反逆行為”を働いた三好家に対して、共に立ち向かってくれる大名家の支援を仰ぐことにしたのです。


今さらの話かもしれませんが、室町幕府(足利家)そのものが持つ軍事力は、他の有力大名に比べれば非常に小さいものでした。

代々の室町幕府の将軍は、軍事力が必要な時には配下の守護大名たちの兵力を従え、幕府に敵対する大名などと戦ったのです。

もちろんそれは”応仁・文明の乱”以前の、守護大名が(表面上は)幕府の命令に従って動いていた時代の話で、

彼らが自らの力で領国の支配権を勝ち取った”戦国大名”となってしまってからは、幕府が直接動かせる兵力は無きに等しい状態だったのでした。

(幕府軍の最高司令官である義輝が無防備な状態で討ち取られてしまったのも、この軍備システムの欠陥が一因ともいえる)


そんなわけで、覚慶改め義昭とその家臣一行による”幕府復興スポンサー”探しの旅が始まったのですが、これが一筋縄ではいきませんでした。

最初に頼ったのは、京に近い近江(滋賀県)南部を支配下に置き、幕府とも長年親密な関係にあった六角(ろっかく)氏でした。

しかし、この頃の六角氏は実質的な当主(※)である六角義賢(よしかた)と重臣たちの不和により混乱していただけでなく

かつて従属させていた近江北部の大名・浅井氏からも攻撃を受けており、義昭たちを支援できる状態ではありませんでした。

(※)六角家の当主の座は義賢の子・義治(よしはる)に移っていたが、家中の政治の実権は義賢が握っていたという。


六角氏からの支援を諦めた義昭たちは、続いて若狭(福井県西部)の守護大名・武田(たけだ)氏のもとへ。

若狭武田家の当主・武田義統(よしずみ)の妻が義輝の妹だった縁もあり、力を貸してくれるはずと期待していたのですが

義統とその子・元明(もとあき)の関係が険悪で、家を二分する御家騒動の真っ最中。 『ダメだこりゃ』とばかりに、義昭たちは早々に若狭を去ります。

(なお、義昭が若狭を去ったわずか2年後、若狭武田氏は隣国の越前朝倉氏に侵略され滅亡。 ダメだこりゃ。


そして、義昭一行が次に向かったのは、戦国大名・朝倉(あさくら)氏が本拠を置く、越前(福井県東部)は一乗谷(いちじょうだに)。

朝倉氏は、もとは守護代の身分ながら”応仁・文明の乱”のグダグダを好機として、守護の斯波(しば)氏から越前の支配権を奪取。

その後100年にわたって越前1国を支配し、蓄えられた軍事力も相当なものであると義昭も期待していたのでした。

ところが・・・ 朝倉家の当主・朝倉義景(よしかげ)は、最初こそ喜んで義昭を出迎えたものの、『上洛の兵を出してほしい』という義昭の要請には消極的。

これには様々な原因が唱えられていますが、後に織田信長からの上洛要請(命令?)をも断っていることを考えると

義景本人が中央の政局にほとんど興味を持たず、領内の経営や文化の振興ばかりに関心を向けていた事が一因でしょう。

あるいは単純に「面倒なことに首を突っ込みたくない」という、俗っぽい理由だったかもしれませんが・・・ その行く末はいずれ分かるとして。


そうこうするうちに、義昭のもとに”尾張(愛知県西部)の織田信長が美濃(岐阜県南部)を攻め取った”との知らせが入ります。

”美濃のマムシ”の異名をとった戦国武将・斎藤道三(さいとうどうさん)の孫にあたる斎藤龍興(たつおき)を下して

斎藤氏の本拠・稲葉山(いなばやま)城を制圧した織田信長は、稲葉山の地名を”岐阜(ぎふ)”と改めたうえ

織田家の戦略指針として『天下布武(てんかふぶ)』というスローガンを掲げたことはよく知られています。


この天下布武、現代に生きる私たちにとっては『天下=日本全国』というイメージが定着しているためか

『この時点で、信長は全国統一を志していたのだ!』と説明されることも多いのですが、当然のように異説もあるわけで。

私自身は、そもそも”全国統一を目指す戦国大名像”例の”野望”的な歴史シミュレーションゲームの影響で生まれた”後付けのイメージ”だと考えているのと

昔読んだ何かの本に書いてあった”戦国時代における「天下」とは、室町幕府の支配が及ぶ京と畿内周辺のみを指す”という説を支持しているので

この時点で信長が言いたかったのは、三好氏に対抗して中央政治に介入する意思表示なのではないか、と思っております。 異論は認めます


などとグダグダ語っておりますが、この信長の”天下布武”の意思が次期将軍・足利義昭との縁を結びつけることになります・・・

いつまで経っても兵を出してくれない義景を見て、朝倉家臣(?)・明智光秀が「勢いのある織田殿を頼ってはどうか」と義昭に提案。

義昭もそれを承諾し、美濃出身でもある光秀の仲介で義昭一行は岐阜へ赴き、織田信長と対面することに。

義昭の要請を「あいわかった」とあっさり承諾した信長は、占領したばかりの美濃の経略もそこそこに、上洛戦の準備をはじめます。

こうして”グズグズ義景””テキパキ信長”の違いが、両者の後世における評価にも影響したわけで・・・ 不憫なり義景。


そんなところで、今回はここまで。

次回は、義昭が15代将軍となって兄の無念を・・・ といきたいところですが果たしてどうなるやら。

ではまた来週、この連載でお会いしましょう(残業などなければ、ですが)。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・9 足利”ラスト・ショーグン”義昭 ~兄の遺志を継いだ”流れ公方”の誕生~

こんばんは。

毎週土曜日にお送りしておりました、戦国時代シリーズ連載「落日 ~室町幕府、終焉への道~」

先週、先々週と2度にわたって今回の連載を延期することになってしまい、改めてお詫び申し上げます。

前回の記事からちょっと間が開いてしまったので、復習が必要な方はこちらからどうぞ。 ⇒前回の記事”義輝、死す”


さて、今回からはいよいよこの連載の佳境、歴史上”室町幕府最後の将軍”となった15代・足利義昭(あしかがよしあき)の登場となります。

勘の鋭い方だとここで 『義輝が13代だったのになぜ15代? 14代は??』 という疑問を持たれるかもしれません。

そこで今日のお話は義昭が15代目の将軍となる少し手前、ほとんど世に知られていない14代将軍の話を中心に見てみたいと思います。

例によって幕府周辺の京や畿内は権力闘争でグチャグチャの状況であり、華々しい合戦シーンなどは出てきませんので、あしからず。


1565年、室町幕府13代将軍・足利義輝は、畿内に影響力を広げる戦国大名・三好家の兵に襲われ、志半ばで命を落としました。

この事件の首謀者とされてきた(近年アリバイが見つかり、この説は否定されつつある)三好家の重臣・松永久秀

同じく三好家の政策を左右する3人の重臣(”三好三人衆”)とも距離を置き、大和(やまと、現在の奈良県)を拠点に独自の勢力を築くべく動き出します。

後に三好三人衆の軍勢と衝突し、東大寺の大仏殿を焼失させる(これも出火の原因や責任の所在は諸説あり)など畿内を大いに混乱させますが、それはまだ先の話。


一方、”三好三人衆”の方は義輝を亡き者にしたとはいえ、幕府そのものを滅ぼすつもりはありませんでした。

彼らはあくまで”将軍主導の政治の復活”を目指した義輝が邪魔だっただけで、これまで通り将軍が自分たちの言う通りに動く”お飾り”でいてくれれば、それで良かったのです。

そして、彼らにとって絶好の”お飾り”将軍候補が、すぐ近くにいたのも好都合でした。 それが、室町幕府14代将軍の正体なのです。


もう覚えている方も少ないと思いますが、義輝の父で12代将軍・足利義晴(よしはる)生き別れの兄弟がいたのはすでにお話ししました。(以前の記事

その義晴の兄弟・足利義維(よしつな)はいろいろとあって四国に渡り、長らく三好家のお世話になっていました。

そして彼が病気のため政界を引退すると、その息子の足利義栄(よしひで)が家を継ぎ、同じように三好氏とお付き合いをしていたのです。

そこは腐っても(失礼)将軍家の血を引き、世が世なら将軍になっていてもおかしくなかった義維の息子ですから、三好氏の側でもこの縁を大事にしていました。

そうした折に義輝の死で将軍位が空位になったわけで、中央政治の実権を握りたい三人衆が彼を放っておく手はありません。

その結果、義輝暗殺から3年後の1568年初頭、室町幕府14代将軍に足利義栄が就任することになりました(もちろん紆余曲折はあったのですが)。

しかしその頃の京周辺は、先に述べた三好三人衆と松永久秀らの対立で治安が悪化しており、義栄自身は京に入ることができなかったようです。


一方、本来の主役であるはずの足利義昭はこの頃どうしていたかというと。

義晴の次男、つまり義輝の弟として生まれた義昭は、足利家代々のしきたり(※)で出家してお坊さんになっていました。

(※)『応仁・文明の乱』のきっかけを作った足利義政の弟・義視が、もとはお坊さんだったことを思い出していただきたい。

京を離れて大和国の寺院・一乗院(いちじょういん)『覚慶(かくけい)』と名乗り、修行の日々を送っていた(のちの)義昭。

しかし、兄で現職の将軍だった義輝が暗殺されたことで、平穏な生活も終わりを告げます。

義輝の弟であるということで一乗院にも三好家の追手が迫り、身柄を拘束された覚慶はその監視下に置かれることになりました。

(実は義輝・義昭にはもう一人出家した弟がいたが、こちらは事件後すぐに殺害されている。 結果的に命を取られなかった義昭は幸運だったかも)


このまま不遇の一生を終えるかに思われた覚慶でしたが、そこに救いの手が差し伸べられます。

義輝と足利家に対する忠誠心を持った家臣たちが、『三好家に幕府を潰されてたまるか』と結束して助けに来たのです。

その中心となって動いたのは細川藤孝(ほそかわふじたか、この記事で紹介)と一色藤長(いっしきふじなが)。

はじめ”義藤(よしふじ)”と名乗った義輝から名前の一字を与えられるほど、厚い信頼を置かれていた2人の家臣です。

彼らの働きにより三好家の監視下から抜け出し、兄の無念を晴らすための戦いに身を投じることになる覚慶、のちの義昭。

しかし、その後の人生は当然のことながら苦難に満ちたものとなります。 さらに世の人々からは”流れ公方(流浪の将軍)”と噂されてしまうことに・・・


果たして、彼は奪われた居場所と誇りを取り戻すことができるのか? そして、我らが(?)織田信長の出番はいつ??

気になるところではありますが、ちょうどお時間となりましたので、続きは次回。

今回もご拝読ありがとうございました。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・番外 戦国時代の元号事情

こんばんは。

本日は今年最初の土曜日ということで、いつもより気合いを入れて

シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りしようと意気込んでおったのですが

ネタ集めと文章構成に手間取り、自分で納得できる内容が期日までに書けなかったのと

第3章が当初の予定以上に回数が重なり、前回の『義輝暗殺』で一区切りがついたことから

一度仕切り直しの意味も込めて、また番外編的なお話で”箸休め”をしていただこうと考えた結果、こうなりました。

これが仕事だったら、許されることではないんですけども・・・ 楽しみにしている方には、誠に申し訳ありません。


では、気を取り直して・・・コホン。

今年は西暦2018年、元号(げんごう)で言うと平成30年になります。

平成が始まったのは1989年1月8日、あと2日でちょうど30年の節目を迎えるわけですね。

そして、天皇陛下が来年4月末をもってご退位なされるということで、”平成”に替わる新しい元号の話もちらほら(あぁ、また鬼が笑ってるよ)

で、その元号っていうのはもちろん戦国時代にも存在しておりまして・・・というのが、今日の話題です。


日本の歴史上、最初の元号は何だったか、皆さんはご存じでしょうか?

これは歴史の教科書でもお馴染みの『大化の改新』の”大化(たいか)”だとされています。 西暦645年から始まりました。

その後、天皇が替わった時はもちろんのこと、政治体制に大きな変化があった時、台風・地震などの自然災害があった時、

あるいは疫病の流行や彗星の出現など、今とは比較にならないほど短期間で新しい元号が生まれては消えていきました。

(調べてみても、平安・鎌倉・室町時代あたりの約600年間で10年以上続いた元号は、10個あるかないかしかない)


戦国時代の始まりとされる『応仁の乱』で知られる”応仁(おうにん)”の年号も、実はわずか3年ほどしか使われませんでした。

次の”文明(ぶんめい)”は19年まで続き、その間に一連の騒動が終息したので、最近は『応仁・文明の乱』とも呼ばれますね。

で、少し空いて次の有名な年号は”明応(めいおう)”。 室町幕府管領・細川政元によるクーデター『明応の政変』が起きました。

現在ではこちらを”本当の戦国時代の始まり”と主張する向きも強いですが・・・ 今日の本筋ではないので置いておいて。


そして、皆さんご存じの織田信長や武田信玄、上杉謙信など戦国時代の群雄たちが出揃うのが”天文(てんぶん)”の年間です。

1532年から1555年までの足掛け24年間と、当時としてはかなり長く使われた元号で、その間には色々なことがありました。

こちらの記事でも紹介した、法華宗と一向宗の最初の激突が起こったのが天文元(1532)年。

その4年後の”天文法華の乱”や、奥州の伊達家を中心としておよそ6年続いた政争”(奥州)天文の大乱”など、全国各地で戦乱の機運が高まっていきます。

その一方で、1543(または42)年の”鉄砲伝来”や1549年の”キリスト教伝来”など、海の向こうから”刺激”がもたらされたのも天文年間のことでした。

私たちがよく知っている戦国時代の基本イメージは、この天文年間に出来上がっていったと考えることができるでしょうか。


その後は”弘治”(こうじ、1555~1558)⇒”永禄”(えいろく、1558~1570)⇒”元亀”(げんき、1570~1573)と続き、

本連載の一応のゴールとなる『(事実上の)室町幕府滅亡』を契機として生まれた元号が”天正(てんしょう)”

この改元には織田信長が関与したとする説もあり、その信長が討たれた『本能寺の変』の1582年は、”天正10年”になります。 

そう考えると、信長が”天下人”として君臨したのはわずか10年ほどであった、といえなくもないです。


天正の後、江戸時代が始まるまでの元号は少なく”文禄”(ぶんろく、1593~1596)⇒”慶長”(けいちょう、1596~1615)⇒”元和”(げんな、1615~1624)⇒・・・ となります。

信長の跡を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉、そして関ケ原の戦いで勝利した徳川家康によって

世を揺るがすような事件や災害が減り、改元する理由も少なくなったとも言えるのではないでしょうか。


あ、この項の最後に、調べて見つけた面白い(かどうかは読者判断ですが)話をひとつ。

戦国時代とは全く関係ないんですけど、江戸時代に”明和(めいわ)”という元号があったそうで。

1764年を”明和元年”とするこの元号、9年ほど続いた後に次の”安永(あんえい)”に改元されたそうですが

一説にはこの改元、『明和9年』⇒『めいわくねん』⇒『迷惑年』で縁起が悪い、という理由だったとも。

実際、この年には江戸で大規模な火災があったり、自然災害が全国で多発したりと”縁起でもない”一年だったようですが・・・ 作った時に気づかなかったのだろうか

ともあれ、日本人は今も昔も縁起を気にするというか、ダジャ・・・いや言葉遊びが好きな民族なんだなぁと思ったのでした。


というわけで、今日はどうもすみませんでした。

次回こそは本編の記事を気合い入れて書きますんで、来週の土曜日もお待ちしております。

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