そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【戦国時代】桶狭間、からの・・・

こんにちは。

新天地での3日目の勤務を終え、明日は休みをもらった私です。

仕事場では慣れない力仕事で当然のようにミスもありましたが、

一つひとつ勉強しながら、いろいろな意味で力をつけていきたいと思います。


さて、今日5月19日といえば、戦国時代ファンにとっては忘れられない日。

(といいつつ、私自身は他のブログを見て思い出したのです。 ファン失格かも・・・)

織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」があった日(※)です。

※当時は旧暦になるのですが、細かいことは言いっこなしで。

信長が「尾張のうつけ」から「戦国の群雄の一人」とランクアップした戦いともいえます。

合戦については語り尽くされている感があるので、ここではあえて脱線。


この時期の現代の日本では、大相撲夏場所が絶賛開催中です。

ここ数年は人気力士が次々に登場し、メディアでも大きく取り上げられるようになりました。

さかのぼることおよそ450年、大の相撲フリークだったと言われているのが、信長です。


信長の生涯について家臣が記した史料「信長公紀(しんちょうこうき)」には、

1570年から10年余りの間に、信長主催の相撲大会が10回行われた、と記されています。

信長が自らの名前で力自慢の参加者を募り、城下に多くの観客を集め、

成績が優秀だった者や手に汗握る熱戦を見せた者には破格の褒美を与えたといいます。

信長の死後、江戸時代に入ってからルールがさらに整備され、現代の相撲が生まれるのですが

日本で古来より神事として行われていた相撲に、現在のようなスポーツとしての要素や

興業という要素を加えたのは信長ではなかったか、という意見もあるようです。


一方では、合理的な考えを好んだ信長らしい思惑もあったようで、

相撲大会で活躍した者を家臣として取り立て、戦場で手柄を立てることを期待したといわれます。

戦国時代の合戦というと刀や槍、鉄砲などの武器による攻撃が思い浮かびますが、

いざという時は敵兵との取っ組み合いで命のやり取りをする場面も多々あり、

腕っぷしの強さは自分の命を守り、敵を討ち取るために重要なものだったようなのです。

(とある戦国時代のゲームでも、家臣に相撲をとらせて能力を高める、というコマンドがあったほどで・・・)


そう考えると、相撲ファンも信長のことをもっと知っていてもいいのではないでしょうか。

現代の相撲人気があるのは、信長が相撲好きだったから、という要因も無視できないと思いますので。

さらにいえば、桶狭間で信長が敗れていたら、スポーツとしての相撲もなかったかも・・・なんてね。


さて、今年の夏場所は誰が優勝の栄冠を手にするのでしょうか。

もしかしたら信長も、空の上から土俵上の熱戦に一喜一憂しているかもしれません。

私も主にテレビからですが、地元出身力士を中心に応援していきたいと思います。

(鳥取県と島根県の両方から関取が出ているなんて、子どもの頃は考えられなかったな・・・)

では、今日はこれで。


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【戦国時代】30代の彼らは・・・(後編)

こんばんは。

今日は、昨日更新した「あの戦国武将の30代」の続きになります。

私まこな。の独断と偏見で、さらに5名の武将の30代を紹介したいと思います。

それでは、さっそく見ていきましょう。

(通説における生年に基づき、満年齢で計算しています。誕生日は考慮しません)


⑥毛利元就(1497年生まれ、1527年に30歳)

父の急死と兄の早逝により、27歳で毛利家の家督を継ぐ。

当時の毛利家は安芸・吉田郡山城のみを領する小勢力で、

周防の大内氏と出雲の尼子氏との間で生き残る方法を模索していた。

家督を争った弟・元綱の背後に尼子氏が介入していたことを知った元就は

以後、尼子氏を見限り大内氏との関係を強化する。

1530年(元就33歳)の時に次男の元春(のち吉川家に養子入り)、

1533年(元就36歳)の時に三男の隆景(のち小早川家に養子入り)が生まれる。

1537年(元就40歳)、長男の隆元を人質として大内家に送り、事実上その傘下に入った。


⑦今川義元(1519年生まれ、1549年に30歳)

駿河の名門・今川家の家督を18歳で継いだ義元は

本国の駿河に加え、遠江から三河にかけて影響力を発揮していた。

1549年(義元30歳)、今川軍は三河・安祥城で織田軍の大将・織田信広を捕らえ、

信秀の人質になっていた松平竹千代(のちの徳川家康)と身柄を交換する。

1554年(義元35歳)、相談役の僧・太原雪斎の提案により

甲斐の武田氏および相模の北条氏と「甲相駿三国同盟」を締結。

雪斎は翌1555年に病死するが、背後を同盟国で固めた義元は

織田氏の本拠・尾張への侵攻を本格的に進めていくことになる。

その結末が「桶狭間の合戦」での討ち死にとなることは、あまりにも有名である。


⑧石田三成(1560年生まれ、1590年に30歳)

近江出身で、秀吉にその才を見出されたとされる石田三成は

賤ケ岳の合戦などに従軍し功績を挙げるかたわら、

兵士・兵糧の輸送や「太閤検地」などを取り仕切り、秀吉の天下統一事業を支えた。

1592年(三成32歳)から始まった朝鮮半島への侵攻作戦でも

三成は日本国内で物資や兵士の輸送・数量管理を的確にこなし、秀吉に評価される。

一方で、前線の武将たちの戦功が正しく秀吉に伝わらなかったことなどから

いわゆる「武断派」の武将たちの反感を買った、とされている。

1598年(三成38歳)に秀吉が没すると、五奉行の筆頭格として

豊臣政権内で専横を強め始めた家康を糾弾するも

家康は巧みに三成を嫌う武将たちを取り込み、逆に孤立を深めることに。

1600年(三成40歳)、関ケ原の合戦で家康に挑むも敗れ、斬首された。


⑨伊達政宗(1567年生まれ、1597年に30歳)

伊達家の家督を18歳で継いだ政宗は、24歳までに陸奥国の南部をほぼ平定。

「あと10年早く世に出ていれば天下も狙えた」とも称される勢力拡大を達成する。

しかし、秀吉率いる大軍勢が北条氏の小田原城を包囲すると、これに臣従。

それでもその野心は消えず、謀反の疑いをかけられながらも機転で乗り切る。

秀吉の死後は、娘を家康の息子に嫁がせるなど徳川氏に接近。

1600年(政宗33歳)、家康が関ケ原の合戦に向けて江戸を発つと

政宗は反徳川派の上杉家・直江兼続の軍と戦い、実質的な勝利を収める。

1601年(政宗34歳)、仙台城の築城を開始。仙台藩62万石の象徴となる。


⑩真田幸村(信繁、1567年生まれ、1597年に30歳)

信濃の豪族・真田昌幸の次男として生まれた幸村は

真田家の外交戦略に従い、上杉家、そして豊臣家の人質として日々を過ごす。

1598年(幸村31歳)、秀吉が没し家康が影響力を拡大すると

昌幸とともに三成方につき、家康方につく兄・信幸(信之)と袂を分かつ。

1600年(幸村33歳)、上田城に徳川秀忠の軍勢が攻め寄せるが、これを撃退。

しかし関ケ原で家康が勝利したため、幸村は昌幸とともに紀伊・九度山へ流罪となる。

その後、1614年(幸村48歳)まで徳川家の厳しい監視のもとでの暮らしを余儀なくされた。

酒を慰みとしていたようで、知人に焼酎の差し入れを求める文書が残っているという。


ということで、かなり簡単ではありますが紹介してみました。

同じ30代でも、生まれた時代や場所によってその運命は様々だったのですね。

もちろん自分の努力や行動によって道を切り開くことは、現代でも同じく大切です。

逆に、追い込まれた時やどうにもならない時にどんなことを考え、打開しようとしたのか

そういった部分にも学ぶ意義はあると思いますので、今後のテーマにしたいと考えています。


では、また次回更新でお会いしましょう。

明日から新しい職場で、すでに緊張しているまこな。がお送りしました。

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【戦国時代】30代の彼らは・・・(前編)

おはようございます。

珍しく、朝の時間帯からの更新です。

久しぶりに戦国時代の話を書きたいと思いながらもネタが見つからず、

起きたらちょっとアイデアが浮かんだのでひとまず書いてみます。


ブログの更新をお休みしていた間に、また一つ歳をとりました。

隠す理由もないので書きますと、四捨五入して40になる年齢です。

30代も前半が終わり、いよいよ「オッサン」待ったなしという感じの独身男です。


で、ふと思ったのですが「人間五十年」の時代に生きた有名な戦国武将たちにも

(早死にした人でなければ)30代の頃はあったわけで。

よく知られている10人を選んで、どんな事があったのかちょっと調べてみました。

なお、年齢は通説における生年に基づき、誕生日は考慮せずに満年齢を計算しています。


①織田信長(1534年生まれ、1564年に30歳)

1564年(信長30歳)、自分の妹・市を近江の大名・浅井長政に嫁がせ、同盟を結んだ。

美濃の斎藤龍興に対する共同戦線を張ることが目的だったとされる。

その3年後(信長33歳)、斎藤家の本拠・稲葉山城を攻略し、地名を「岐阜」と改めた。

また、この頃から「天下布武」の印を使うようになったと言われる(意味の解釈には諸説ある)

1568年(信長34歳)、京の政変により流浪していた足利義昭を岐阜に迎え入れ、ともに上洛。

義昭を15代室町幕府将軍に就任させ、自らはその背後で権勢を高めようとした。

1570年(信長36歳)、離反した浅井氏とその同盟国・越前の朝倉氏の連合軍と

近江・姉川で戦い、徳川家康の軍勢の奮闘もあって勝利をおさめた。

1573年(信長39歳)には室町幕府を事実上の滅亡に追い込み、政治権力をほぼ掌握した。


②豊臣秀吉(1537年生まれ、1567年に30歳)

30歳の当時は「木下秀吉」と名乗り、信長に仕えていた。

1570年(秀吉33歳)、信長が越前の朝倉義景を攻めた際に

同盟を破棄した浅井軍が背後から襲い掛かる危機に見舞われる。

秀吉は撤退する織田軍の殿(しんがり※)を志願し、見事その任を果たす。

1573年(秀吉36歳)、浅井氏の本拠・小谷城の攻略戦でも功績をあげて

近江・今浜を領地として与えられ、信長の一字を使いこの地を「長浜」と改名する。

また、これと同じ時期に姓を「羽柴」と改めている。

織田家の重臣であった柴田勝家と丹羽長秀から、一字ずつをもらったという。

(※)殿・・・退却する自軍の最後尾につき、敵の追撃を食い止めるポジション。死傷率が高かった。


③徳川家康(1542年生まれ、1572年に30歳)

本拠の三河と今川氏から奪取した遠江の領国経営を進める一方、

信長の同盟者として畿内方面にも軍を進めることがあった。

1572年(家康30歳)、武田信玄の上洛軍が遠江に侵攻。

浜松城に籠城するが、城の脇を通過する武田軍の背後を突こうと出陣する。

しかし、この動きを読んでいた武田軍に迎撃され、大敗を喫する(三方ケ原の戦い)。

命からがら帰城し、戒めのために自らのみじめな姿を絵に書かせた逸話は有名。

1575年(家康33歳)、再び徳川領に侵攻してきた武田勝頼を迎え撃ち

信長の軍勢と協力してこれを撃破する(長篠の戦い)。

1579年(家康37歳)、信長から武田氏との内通の疑いをかけられ

潔白を証明するために妻・築山殿と長男・信康を処断する(理由には諸説あり)。


④武田信玄(1521年生まれ、1551年に30歳)

父を追放して甲斐の支配者となった信玄は、

20代の頃から信濃攻略に着手したが、村上義清などの抵抗に阻まれていた。

1551年(信玄30歳)、家臣・真田幸隆(幸綱とも)の調略により

村上氏の重要拠点・砥石城を攻略。北信濃地方への勢力拡大を加速させる。

1553年(信玄32歳)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が信濃へ侵攻。

信玄に領地を奪われた村上氏など信濃の諸氏からの要請を、景虎が聞き届けてのことだった。

信玄は川中島付近に布陣し迎え撃とうとするも、このときはにらみ合いのみで終わる。

その後も緊張状態は続くが、1561年(信玄40歳)には本格的な衝突に発展。

「第四次川中島の戦い」と称される、信玄の生涯を代表する合戦となった。


⑤上杉謙信(1530年生まれ、1560年に30歳)

もとは越後守護代・長尾氏の家系に生まれ、「長尾景虎」と名乗った。

室町幕府に協力的で、1559年(謙信29歳)には上洛を行っている。

1560年(謙信30歳)、所領を追われた関東管領・上杉憲政を保護していたことから

急速に勢力を伸ばす相模の北条氏を制止するため、関東地方に出兵する。

翌1561年(謙信31歳)、憲政から正式に関東管領の職を引き継ぎ、「上杉政虎」と改名。

その後も毎年のように関東に出兵し、関東管領の務めとして北条氏へのけん制を続けた。

一方、武田氏との信濃をめぐる戦いも続いていたが、1564年(謙信34歳)を最後に収束。

対立が続いた北条氏とも1568年(謙信38歳)頃に同盟を結び、自身の養子まで迎えている。

領土拡大よりも家臣団の掌握(※)や経済政策、対外関係の維持に力を注いだ年代だったといえる。

(※)20代の頃、「家臣が自分に従ってくれない」という理由で引退を宣言し、寺に引きこもった経歴がある

なお、出家して「謙信」と名乗るのは1574年(謙信44歳)頃とされる。


10人と言っていたのですが、調べながら書くとなかなか時間がかかりますね。

とりあえず今回は前編ということで、残りの5人は次回の更新で書くことにします。

リーダー(大名)として活躍した人が多かったですが、裏では苦労もしたのだと思います。

そういった部分を解き明かしていこうとするのも、歴史を学ぶ面白さかもしれません。


では、また近いうちに後編でお会いしましょう。

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【戦国時代】歴史好きの性。

こんばんは。

今日も、見にきてくれてありがとう。

2日前から自分の「歴史好き」観をつらつらと語ってますが

今日で一応の区切りをつけたいと思います。

結構好き勝手なことを書くかもしれませんが、そこはご愛嬌で。

私のように「学校の授業は苦手だったけど、歴史が好き」というのは

割とよくある話なのでしょうか。

これが数学だと「数学なんて、社会に出たら使わないでしょ?」てなもんで

社会人になってから学び直そう、とはなかなかならないですね。

その点、歴史は巻き返しがしやすい分野だと思うんです。

ドラマやゲームなど、入りやすい入り口が増えていますし

ネットの普及で話題が合う人も見つけやすくなっています。

それでいて、一生かけても極めきれないほど奥が深いときている。

趣味としてハマるのに、遅すぎるということはないと思います。

しかし、人の好みや考え方はいろいろあるわけでして

私の親戚のように「好きになれない」人もいるんですね。

実は私自身も、ブログやツイッターで自分より格段に物知りで

しかも情熱を込めて歴史を語っている人を見ると、正直へこみます。

「自分ごときが歴史好きを自称していていいのか?」みたいな。

ひょっとしたら、歴史が好きになれないと思っている人の中には

それに似た思いを抱えている人もいるのでは?と思ったのです。

歴史好きに限った話ではないのかもしれませんが、

人は自分が正しいと信じていることをしゃべりますよね。

それだけでは飽き足らず「お前の知識は間違っている!」と

他人の意見を否定してまで自信を保っている人もいそうな気がします。

もちろん、私が知る限りそうではない人が大部分ですが

自分の知識を「正しいか間違いか」だけで評価されるのは、

学校の試験と同じで、やる気に繋がりにくいと思います。

それでも、私だって一歩間違えると聞いてくれる人に対して

一方的に「自分の思う正解」をしゃべってしまっているかもしれない。

せっかく歴史に興味を持って聞いている相手に対して、

逆に「歴史って難しい・・・」と思わせているとしたら、申し訳ないです。

私がブログやツイッターで知識や情報を発信しているのは

『一人でも多くの方と戦国時代の魅力や奥深さを共有したい。』

そんな思いからなので、戦国時代や武将に少しでも興味がある人には

怖がらずにどんどん絡んできてほしい、と思っているのです。

専門的な知識や情報は、あとからいくらでも補うことができます。

まずは、自分の中に物語を作っていく楽しさを感じてみてほしい。

そのお手伝いができるなら、これからも喜んで(?)語らせていただきます。

そのためにも、まずはパソコンを買い換えないとな・・・(苦笑)

スマホ入力も慣れてきたけど、どうしても時間がかかるので。

ご清聴ありがとうございました。

【戦国時代】続・歴史はお好き?

こんばんは。

今日も、見にきてくれてありがとう。

今回は、昨日の続きの話になります。

親戚が「歴史を好きになれない」と私に言ったことから

自分語りをしたくなったので、恐縮ですがお付きあいください。

実を言うと、私は歴史の授業が好きではありませんでした。

もともと数学や理科の方が得意だった、というのもありますが

一番は覚えなければいけない事が多すぎて、テストで点がとれなかったからです(苦笑)

ある日、よく出入りしていたゲームショップで

何気なく手に取った戦国時代のシミュレーションゲームが、私の運命を変えました。

どうしても欲しかった訳でもなく、ワゴンセールで500円だったから買ったのですが

いざ始めてみると、色分けされた日本地図や数値化された武将の個性に引き込まれて

「この県は、昔はこういう呼び名だったのか」とか

「この武将は、戦では強いけど政治は苦手だったんだな」とか

全国統一はそっちのけで(おい)情報を頭に叩き込みました。

やがて、私の知識欲はゲームの中の情報だけでは満足できなくなり、

ゲームの攻略本や武将ファイルを片っ端から読みあさりましたね。

今でも、私の知識の大半はゲーム由来ではないでしょうか。

評論書や小説等を読むようになったのは、社会人になってからです。

こんな程度で、歴史好きを名乗るのも微妙かもしれませんが(汗)

程度の差はあれ、趣味として何かにのめり込むのは「楽しい」です。

自分の中に知識や出来ることが増えていく喜びがありますけど

次第にそれは頭打ちになるし、現代は特にネットが普及したことで

常に「上には上がいる」「自分なんてまだまだ」となりがちです。

そんなときに、それを「好き」でいられるかどうか問われるのかな、と。

「他人に評価されたい、認められたい」だけがモチベーションだと

たまたまそれが得られなくなった時に、たぶん苦しくなりますね。

いかにして自分の中だけで保ち続けられるモチベーションを見つけるか。

一番分かりやすいのが「自分を楽しませられるか」だと思うのです。

実際、例のゲームにはまっていた時の私は、自分が操作しないで

コンピューターが勝手に進めてくれるのを見ているだけで楽しかった。

(もちろん、エンディングは見せてくれませんが)

画面の中で合戦が起こり、城が攻め落とされ、地図が塗り変わる。

無機質な二次元世界の中に、教科書とは異なる物語が展開されていく。

その記憶があるから、今も歴史好きの端くれでいられるのかもしれません。     なんてね。

ちょっと長く語りすぎました。

明日は、親戚の話に一応のオチをつけたいと思います。