そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【戦国時代】シリーズ「落日」 プロローグ・2 室町幕府の守護と管領

こんにちは。

先週から始まった戦国ネタの新シリーズ『落日 ~室町幕府・終焉への道~』

今日はその第2回目として、室町幕府を読み解くうえで必要になる用語の知識をご紹介します。

これを理解していないと、本編で説明する幕府権力の崩壊の過程が分かりづらくなりますので

ちょっと説明がくどくなるかもしれませんが、読んでおいていただきたいと思います。


室町幕府における最高権力者は、もちろん足利家が世襲した将軍(征夷大将軍)職になるわけですが

彼ひとりの力では、当時60数か国に分かれていた日本全土を治めることは到底できません。

そこで、幕府は「守護(しゅご)」という役職をそれぞれの国で有力な武士に与え(※)

幕府の基本政策や法律に従って、その国内にいる武士の統率や、治安の維持を担当させるよう定めました。

これは鎌倉幕府でも適用されていた政策で、当初は大きな混乱は起こらなかったようです。

(※)京都の周辺など重要な国では、足利家の親戚筋や、戦で大きな手柄をあげた武将が抜擢されるケースもあった。

   また、地域によっては「鎌倉府」や「関東管領」、「奥州探題」等も置かれたが、ここでは省略。


しかし、武士による政治的支配を強めたいと考えていた室町幕府は、守護制度の改革に着手します。

前述の通り、従来の守護の権限は警察的な色合いが強く、また武士の間でしか通用しないものでした。

特に、京都在住の貴族の私有地である「荘園(しょうえん)」に対して、武士が介入する術はなかったのです。

そこで、幕府は「半済令(はんぜいれい)」という新たな決まりを作ります。

これは、『荘園や幕府の直轄地で発生する年貢の半分を、守護が徴収することができる』というもので

貴族の収入や国内での影響力を削ぐのと同時に、守護が領国経営や軍備拡張にその収益を当てることができるようになり

結果的に、その国内における守護やそれに従う武士の影響力は、飛躍的に増大していくことになったのです。


自前の兵力と財力を得た守護の中には、幕府の指示より自らの判断を優先して領国経営を行うものもあらわれました。

こうした存在を「守護大名(しゅごだいみょう)」と呼びます。

戦国時代の主役である「戦国大名」とは定義づけが異なるのですが、その説明は今回は割愛します。

幕府はそうした守護大名に複数の国の守護を任せたり、京都に住まわせて中央政治に参加させるなど(※)

あくまで「守護は幕府の支配下」であるということを見せようとしますが、時には実力行使も行いました。

特に3代将軍・足利義満や6代将軍・足利義教(よしのり)は、何かしらの言いがかりをつけて

幕府に非協力的な守護大名の討伐を行い、その力を削ぐことも度々あったとされています。

(※)守護が不在の間の領国経営は、守護の家臣から「守護代」が任命され、その任にあたった。

   のちに、守護代の身分から戦国大名として名を馳せる家も数多く存在する。


中央政治に関連して、特に大きな権限を持ったのが「管領(かんれい)」です。

「管領」は将軍の補佐役、また政権のまとめ役という権限を持ち、『幕府のナンバー2』ともいえる役職です。

現代の日本に例えれば、「内閣官房長官」にあたるポストと考えて頂ければ良いかもしれません。

「管領」には足利家と特に縁の深かった細川家・斯波(しば)家・畠山家の3家から交代で任命される決まりになっていて、

この3家はそれぞれが複数の領地を治める、強力な守護大名家でもありました。

室町幕府の将軍はこの管領の助けのもと、守護大名との力関係を維持しながら政権を運営していったのです。


ところが、これも守護大名同様、将軍の権力に陰りが見えると同時にほころびが現れはじめます。

将軍に政治を動かす力が無いとされれば、政治の方針は当然のように管領の判断にゆだねられます。

管領が幕府の方針に従ってくれれば良いものの、もし自分の利害や損得で政治の方向性を決めていたとしたら・・・?

そして、戦国時代のはじまりとされる「応仁の乱」に至る経緯にも、そんな守護大名や管領の思惑が見え隠れするのです。


ということで、今日はここまで。 まとめると、こんな感じ。

室町幕府の基礎知識 守護と管領


次回は、「応仁の乱」の幕が上がるまでの、室町幕府の混乱ぶりを見ていこうと思います。

戦国武将の活躍した時代はまだまだ遠いですが、よろしくどうぞお付き合いのほどを。


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【戦国時代】新シリーズ序章、足利将軍家の系譜。

こんにちは。

先週から予告していた通り、今日から新しいシリーズ企画をスタートさせます。

内容はこれも予告していましたが「室町幕府から見た戦国時代」になります。

それまでの権威や家柄が無用の長物となり、個人の実力しだいで権力の座にのし上がることができた『下剋上』の時代。

そんな中、その「権威や家柄」においてすべての武家の頂点にあった室町幕府・足利将軍家はどんな運命をたどったのか。

有名な戦国武将の活躍の影で、ほとんど語られることのない彼らの戦いと苦悩、そして生き様を見つめます。

1週間かけて考えた今回のシリーズのタイトルは、「落日 ~室町幕府、終焉への道~」。 

暗い雰囲気で申し訳ないですが、正直明るい話題は少ないのでなにとぞご了承を。


さて、今回はその序章として、室町幕府と足利将軍家に関する基礎知識をご紹介。

室町幕府の初代将軍といえば、ご存じ足利尊氏(あしかがたかうじ)

尊氏は、政治の実権を握っていた後醍醐天皇を京都から追放し、新たな政治体制の構築に着手。

自身の政治方針を定めた「建武式目」を表明した1336年、または尊氏が征夷大将軍に任ぜられた1338年を

実質的な「室町幕府」成立の時期とするのが一般的な見解です。

ちなみに、「室町幕府」の名前の由来は3代将軍・足利義満(よしみつ)が自身の邸宅を建てた地名、と言われています。

なので、尊氏の頃にはまだ「室町幕府」とは呼ばれていなかったことになるわけですね。 細かい話でスマン・・・


では、尊氏から始まる室町幕府の将軍は全部で15人いますが、何人知っていますか?

歴史の教科書で大きく扱われるのは尊氏と義満、それに8代の義政(よしまさ)くらいなので

それ以外の将軍の名前は、歴史の研究者やファン以外にはほとんど知られていないように思います。

特に中盤から終盤の将軍は、これからの記事にも出てきますので、ここでお名前を大発表しちゃいます。

さらに、親子や兄弟などの関係がそれとなく分かる家系図(らしきもの)もお付けしましょう。 いよっ、太っ腹!(←誰?)

ブログをご覧のみなさん、今すぐメモのご準備を!(←だから、通販番組じゃないって)


初代・尊氏 → 2代・義詮(よしあきら) → 3代・義満 →

4代・義持(よしもち) → 5代・義量(よしかず) → 6代・義教(よしのり) →

7代・義勝(よしかつ) → 8代・義政 → 9代・義尚(よしひさ) →

10代・義殖(よしたね) → 11代・義澄(よしずみ) → 12代・義晴(よしはる) →

13代・義輝(よしてる) → 14代・義栄(よしひで) → 15代・義昭(よしあき)


足利将軍家 略系図

いかがでしたでしょうか。 (←何がだよ)

ただ名前と順番だけ憶えろ、というのも受験勉強的であまり面白くないので

何人かについてのエピソードもちょっとだけ紹介して今回の結びとしましょう。

ただ、これも一方的に教えるだけではつまらないので、クイズ形式にしておきます。

興味のある方は、次回以降の予習も兼ねて調べてみるのもいいかと思います。

15代続いた足利将軍の中には、

・剣の達人から教えを受け、「剣豪将軍」とあだ名された人がいます。

・わずか9歳で将軍になるも、8か月後に死んでしまった人がいます。

・兄弟など他の候補者と「くじ引き」をし、将軍になることが決まった人がいます。

・将軍でありながら、一度も京都の地を踏むことができなかった人がいます。

・政治の混乱で一度は将軍の座を追われながらも、後に返り咲いた人がいます。


一部を除いて知名度が低く、地味なイメージの強い足利家の将軍たちですが、実は結構個性的だと思えてきませんか?

次回以降、これらの答え合わせをしながら掘り下げていきますので、よろしくどうぞお付き合いください。


では、今日はここまでということで。 次回もお楽しみに。


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【戦国時代】新企画、はじめます。

こんばんは。

週末のひととき、いかがお過ごしでしょうか。


さて、今日は戦国時代カテゴリーで記事を書いておりますが

久しぶりにシリーズものをやってみたいと思いましたので、その頭出しを。


これまで、このブログの「戦国時代」カテゴリーでは

戦国時代の中国地方」や「なるはやで戦国時代を知る10章」、

下剋上列伝ランキング」といった連載企画を何回か行いました。

(それぞれのタイトルをクリックすると、まとめページに飛びます)

私自身の知識の整理や、読者さんに興味関心をもってもらうための内容をまとめてきました。

今回は「そろそろ戦国時代の話を書いてみたい」という意欲が湧いてきましたので

ブログ復帰後初めてとなる連載企画を立ち上げることにしたものです。


今回のテーマは、「室町幕府から見た戦国時代」にしようと思っています(タイトルは考え中)。

以前、大河ドラマ「真田丸」のレビュー記事の中でも書いたような憶えがありますが

信長や信玄、謙信など有名で個性的な武将たちばかりが注目されがちな戦国時代の中で

私が気になっていたのが「戦国時代の間、室町幕府は何をしていたのか?」ということです。

『室町幕府の次期将軍の座をめぐる争いから、戦国時代の始まりとされる「応仁の乱」が起こり、

 天下統一を目指す織田信長によって将軍・足利義昭が京から追放されて室町幕府は(事実上)滅亡した。』

戦国期の室町幕府について世間一般に知られている事柄は、実はこの程度なのかもしれないと思っています。

室町幕府の将軍は江戸幕府と同じ15人いますが、一般的に有名なのは初代・尊氏と3代・義満、

そして「応仁の乱」のきっかけを作ったといわれる8代・義政くらいといわざるを得ず、

義政以降の足利将軍の名前を答えられる人は、そう多くはないのではないかと思います。


そこで、今回の特集ではあえて「室町幕府」という存在にスポットを当て

戦国時代における政局の動きや、大名たちとの関係の推移などについてまとめていく予定です。

前述のとおり、スタートは応仁の乱でゴールが幕府の滅亡ですが、何回シリーズになるかは分かりません。

また、これまでのシリーズと同様、このブログは戦国時代好きの方だけが読んでいるとは限りませんので

当時の専門用語には説明を入れるなどし、肩に力を入れずに読める文章を心がけていきます。

もちろん、読み進めていく中で「これは詳しく調べてみたい」と思って頂ける箇所があれば、私も嬉しいです。

私の主観が入るであろう部分も多々ありますので、読者さんそれぞれの見方を大事にしてください

(歴史の醍醐味は「諸説あり」です)


最後に、息切れやサボりがないように更新のペースを決めておきます。

原則として、毎週土曜日はこのシリーズの更新日とします。

連載スタートは来週の土曜日、タイトルもその時までに決めます。

ちゃんと完走できるよう、予習と復習をしてまずは第1話の構想を練りますね。

それでは、1週間後をお楽しみに。


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【戦国時代】本能寺も変。

こんにちは。

今日は久々の戦国時代ネタを。

昨日はすっかり忘れてましたが、6月2日は戦国ファンにとって重要な一日。

そう、言わずと知れた「本能寺の変」が起こった日です(当時の暦で、ですが)


戦国時代好きを自称するまこな。のブログでも、2年続けて取り上げた内容なのですが

2015年の記事→こちら

2016年の記事→こちら

さすがに3回目ともなると、どういう切り口で攻めるか迷います。

かといって、「黒幕は誰なのか?」という真犯人探しの推理を始めると

家臣や他国の大名、室町幕府の遺臣に朝廷関係者など、信長と因縁を持つ容疑者が多すぎてきりがないですし

私自身、テレビや雑誌でよくある「教科書の歴史はウソ!真実は○○だった!」みたいな探求心もそこまでなくて

「後世の人が伝えてきた、今の戦国時代や武将の知識・イメージは、どうやって出来上がったのかな?」

という部分の方が考えたいテーマだったりします。


例えば、天下には全く手が届かなかった(山梨の方、ごめんなさい)武田信玄が「名将」ともてはやされているのは

徳川家康が武田家の遺臣を多く召し抱え、彼らが大衆向けに信玄の業績を(やや誇大に)宣伝したからだとか。

他にも、江戸幕府が家康を神格化するため、話を盛って語らせていた部分もあるようです。

(家康は「何もない荒地だった」江戸を天下一の町に発展させたそうだが、家康以前の江戸の町もそこそこ栄えていたという。)


近年になって新しい史料や遺構が発見され、これまで知られていなかった歴史的事実(と思われる事象)が明るみに出ることで

メディアは「これまで語り継がれてきた歴史はウソだった!あなたの常識はもう古い!」と煽りたがりますが、

それを語り継いできた当時の人々に罪はありません。 もちろん、それを信じてきた現代の人々についても同じです。

「真実かウソか」というジャッジだけで歴史と付き合うのは、正直つまらないと私は思っています。

もちろん、大学の先生や歴史の研究者などジャッジするのが仕事の人もいるので、全く無意味とも言いませんが

私のような一般のファンは、むしろ自分が見てきた資料や抱いてきたイメージを大事にして、興味を持ち続けたいと思うのです。


すみません、脱線しすぎましたね。

何が言いたいのかというと、今でこそ「真犯人は誰だ!」みたいな議論が盛り上がっていますが

50年とか100年後も、同じような状況が続いているとは限らないということです。

一昨年だったか、岡山県?で長曾我部氏の関与が疑われる書物が発見されたことで

「光秀をそそのかした真犯人は、長宗我部元親だった!」と煽る雑誌も複数目にしました。

そんなに簡単に言い切れるなら、400年以上も歴史の謎として興味をひかないわけですが

もしかしたら、100年後にはアッと驚く新事実や新説が登場しているかもしれないですよね。


太田「毛利家や上杉家も怪しいぞ、とか。」

田中「それはあるかもね。」

太田「犯人はヤス、とか。」

田中「それは『ポートピア連続殺人事件』だよ!」

太田「しまいにゃ、信長の自作自演っていう説も流れたりして。」

田中「なんでだよ! もうめちゃくちゃだよ!」

太田「本能寺も変。」

田中「いいかげんにしろ!」


爆笑問題のお二方、勝手に名前を使ってごめんなさい。

「爆笑問題の日本史原論」ほか歴史漫才シリーズ、おすすめです。


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【戦国時代】桶狭間、からの・・・

こんにちは。

新天地での3日目の勤務を終え、明日は休みをもらった私です。

仕事場では慣れない力仕事で当然のようにミスもありましたが、

一つひとつ勉強しながら、いろいろな意味で力をつけていきたいと思います。


さて、今日5月19日といえば、戦国時代ファンにとっては忘れられない日。

(といいつつ、私自身は他のブログを見て思い出したのです。 ファン失格かも・・・)

織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」があった日(※)です。

※当時は旧暦になるのですが、細かいことは言いっこなしで。

信長が「尾張のうつけ」から「戦国の群雄の一人」とランクアップした戦いともいえます。

合戦については語り尽くされている感があるので、ここではあえて脱線。


この時期の現代の日本では、大相撲夏場所が絶賛開催中です。

ここ数年は人気力士が次々に登場し、メディアでも大きく取り上げられるようになりました。

さかのぼることおよそ450年、大の相撲フリークだったと言われているのが、信長です。


信長の生涯について家臣が記した史料「信長公紀(しんちょうこうき)」には、

1570年から10年余りの間に、信長主催の相撲大会が10回行われた、と記されています。

信長が自らの名前で力自慢の参加者を募り、城下に多くの観客を集め、

成績が優秀だった者や手に汗握る熱戦を見せた者には破格の褒美を与えたといいます。

信長の死後、江戸時代に入ってからルールがさらに整備され、現代の相撲が生まれるのですが

日本で古来より神事として行われていた相撲に、現在のようなスポーツとしての要素や

興業という要素を加えたのは信長ではなかったか、という意見もあるようです。


一方では、合理的な考えを好んだ信長らしい思惑もあったようで、

相撲大会で活躍した者を家臣として取り立て、戦場で手柄を立てることを期待したといわれます。

戦国時代の合戦というと刀や槍、鉄砲などの武器による攻撃が思い浮かびますが、

いざという時は敵兵との取っ組み合いで命のやり取りをする場面も多々あり、

腕っぷしの強さは自分の命を守り、敵を討ち取るために重要なものだったようなのです。

(とある戦国時代のゲームでも、家臣に相撲をとらせて能力を高める、というコマンドがあったほどで・・・)


そう考えると、相撲ファンも信長のことをもっと知っていてもいいのではないでしょうか。

現代の相撲人気があるのは、信長が相撲好きだったから、という要因も無視できないと思いますので。

さらにいえば、桶狭間で信長が敗れていたら、スポーツとしての相撲もなかったかも・・・なんてね。


さて、今年の夏場所は誰が優勝の栄冠を手にするのでしょうか。

もしかしたら信長も、空の上から土俵上の熱戦に一喜一憂しているかもしれません。

私も主にテレビからですが、地元出身力士を中心に応援していきたいと思います。

(鳥取県と島根県の両方から関取が出ているなんて、子どもの頃は考えられなかったな・・・)

では、今日はこれで。


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