そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】その一通が運命を変えた・・・? 北畠具房と織田信雄の”その後”は。

こんばんは。

昨日は中途半端なところで気力と時間が切れてしまい、失礼しました。

ネットで偶然拾ってきた『足利義昭の直筆お手紙』のニュースについて、今日は続きを書きます。

なお、ブログ主の主観的な知識や推理がところどころ含まれますので、ここで読んだ全てを”真実”と思わぬようご注意ください。


では、昨日の記事のあらすじから。

広島県福山市の歴史博物館に寄贈された史料から、室町幕府15代将軍・足利義昭の直筆とみられる手紙が見つかりました。

織田信長の次男・信雄を養子とした(異説もある)伊勢の武将・北畠具房に宛てたもので、要約すると『京へ戻るため力を貸してほしい』という内容。

幕府の将軍として具房より格上だったはずの義昭が、手紙の中では相手を敬った丁寧な表現を使っているのが特徴で

これまでに確認されている約220通(!)の手紙の中でも、同様のものは5通しかない”非常に珍しい”史料だということです。


これらの情報を受けて、昨日の記事では『北畠具房(きたばたけともふさ)とは何者か?』として

戦国時代の伊勢を治めた『国司・北畠氏』の生い立ちと成長、そして織田信長に伊勢の支配権を乗っ取られるまでを紹介しました。

具体的には織田家との戦に負けて(『実は負けてない』という説もある)、信長の次男・信雄(のぶかつ)に北畠家を継がせることを約束させられ

信雄を養子にもらった(とされる)具房と、その父で隠居の身だった具教(とものり)は非常に肩身の狭い立場に追いやられた、というお話です。


こんな”悲惨な状況”だったにもかかわらず、義昭がなおも北畠家を頼りにした理由は何なのか。

あまり深入りすると収拾がつかなくなりそうなので、手がかりになりそうな情報を一つだけ。

この手紙が書かれたと推測される1576年9月という時期は、義昭が備後(広島県)の”鞆の浦”に落ち着いた直後。

その頃京都では、信長が自身の権力基盤をより強固なものにするため、朝廷や貴族への働きかけを盛んに行っていました。

義昭を追放して室町幕府を”滅亡状態”に追い込み、また既存の権威に否定的な態度を取り続けた(とされる)信長であっても

日本に天皇や朝廷の存在がある限り、その意向を無視して政治を行うことはできませんでした。

その中で自分の意見を通しやすくするために、表向きは朝廷や貴族の要求に応え、より高い官職を賜ることが必要だったのです。


その甲斐もあってか、信長は1575年11月(当時の暦)に『右近衛大将』という官職を得ることになります。

『近衛(このえ)』という言葉の通り、本来は天皇やその住まいを警護する役目を意味する役職ですが

それが転じて「その時代で最も権力を持つ武士」に与えられることもあり、信長もそういう存在だと認められたということです。

しかも、当時の義昭の官職はこれより低い『左近衛中将』であり、信長は義昭を下に見る地位に昇進したことにもなります。

義昭は依然『征夷大将軍』ではありましたが、この肩書はあくまで『武士の世界でのトップ』という意味合いに過ぎず

朝廷や貴族まで含めた『中世日本の政治の世界』においては、信長の方が格上となったのは間違いありません。


・・・ずいぶん話が飛んでしまいましたが、この事実からブログ主が推測することは。

信長が自分より格上の存在になってしまった事を意識して、義昭は今回の手紙を書いたのでは・・・と。

協力を依頼した北畠具房の父・北畠具教は隠居の身とはいえ、朝廷から高い官職を賜っていた武将である。

軍事力では信長に敗れたとはいえ、彼を味方につければ朝廷への働きかけが有利になることが期待できる。

また、織田軍に敗れて不遇の身になってしまった事から、信長に対して敵対心を持っていることも共通している。

信長に敵対した大名が次々と滅ぼされる中、まだ生き残っている北畠家には協力を持ち掛ける余地がありそうだ。

ただ、今は信長より格下になってしまったので、『将軍』として上から目線の手紙を送ると、信長に目をつけられるかもしれない。

あえて丁寧な表現や敬称を使って相手の警戒心を解き、その上で相手がどう動くか様子を見ることにしよう・・・。


前述の通り『現存するだけでも220通』の手紙を書き、各地の大名や武将に送ったことから『お手紙将軍』なんて異名もある義昭。

相手の立場や境遇に合わせて、文面や表現を巧みに使い分けていた姿が思い浮かびますが、実相はいかに・・・??


しかしながら。

義昭が心を砕いてしたためたこの手紙が、功を奏することはありませんでした。

手紙が書かれたとされるわずか2か月後、北畠具教は無残にも殺害されてしまうのです。

信長の命を受けた信雄が、軍勢を率いて具教の滞在する館に押しかけ、息子や家臣もろとも討ち果たしたといいます。

『具教は剣術の使い手で、最期の瞬間まで刀を振り回して奮闘した』という、どこかの将軍みたいな逸話もあったりする)

また、別の城にいた具房もほどなくして身柄を拘束され、3年間”軟禁”されたのち、1580年に34歳で死去しています。


信長がこの”凶行”に及んだ表向きの理由は『武田信玄と密約をして、”信長包囲網”に加担していたこと』だとも言われますが

今回の手紙のタイミングが”良すぎる”ことも考えると、信長には筒抜けだったんじゃなかろうか・・・なんて思ってしまいます。

それに、仮にこの手紙が”きっかけ”の一つになったとして、それが起こらなかった未来を想像すると(『歴史に”もしも”は禁句』は分かっているが)

後に羽柴秀吉と対立し、徳川家康にすり寄りながら、織田の家名を後世に残した信雄の人生も違うモノになっていたのかなぁ・・・と思ったり。

まぁ何か問題があれば、それは『三介殿のなさること』として大目に見てやってください(←伝わらないボケをするな!)


以上、『久々に戦国モノを書いたら、チカラ入って前後編になっちゃいました』の巻、おしまい。

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【戦国時代】足利義昭、京を追われても野望は果てず。 ~直筆の手紙が発見された件~

こんばんは。

昨日の強い地震も、今夜のサッカーの試合も気になりますが、今日は久しぶりに戦国ネタです。

「コイツはいつになったら歴史ネタを書くんだ!?」とやきもきしていた方、お待たせしてしまいました。

私もいつもより少しばかり気合いを入れて、【戦国時代カテゴリー】に属する”意地”を見せたいと思います。

日頃のグダグダ話とはちょっと色が違いますが、どうぞ最後までお付き合いのほどを。


さて。

今日の主役は、以前このブログでも大型特集を組んだ、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)です。

室町時代の最高権力者として産まれたはずが、僧侶・人質・流浪の身を経て将軍の座をつかみ取ったはいいものの

弱肉強食の戦国乱世を制覇せんとした英傑・織田信長に追い落とされ、流れ流れて備後(広島県)の地へ。

そこで毛利氏の援助を受けつつ京への帰還を夢見つつ、最後は信長の後継者・豊臣秀吉の傘下に収まった、室町幕府最後の将軍です。

・・・っと、この辺の詳しい話はぜーんぶ連載記事で書いてあるので、興味があったら読んでみてね(←露骨な宣伝すな)


で、ここからが本題。

朝の日課になっている、ネットニュースのチェック中。

やはり昨日の大地震関連のニュースがズラッと並ぶ中、ひときわ目を引く記事を見つけました。 


将軍足利義昭の手紙 福山で発見 19日公開、復権目指す内容 (出典:山陽新聞・YAHOOニュース)


リンク先のページがいつ消されるかわからないので、内容をかいつまんで書いておくと。

・義昭が信長に京を追われた後、身を寄せていた鞆の浦(現在の広島県福山市辺り)で書いたとみられる手紙が見つかった

・書いた時期は1576年9月9日頃と推測され、宛先は伊勢(三重県)の武将・北畠具房(きたばたけ・ともふさ)

・内容は『(自分を保護している)毛利輝元と連絡をとって、京へ戻るため力を貸してほしい』というもの

・相手の宛名に『殿』と敬称をつけるなど、将軍の地位にあった義昭の手紙には珍しく、低姿勢な文面になっている

・具房は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)を養子に迎え、父・北畠具教(とものり)も朝廷に縁が深かったことから、協力を依頼したのではないか



・・・といったところですが、これだけでは歴史ビギナーには『何が重要なのかさっぱり分からん』でしょうし

上級者からは『コイツは何も分かっとらん!』と突っ込まれそうですので、ここからは補足説明を。


まず、この手紙で義昭が協力を頼みこんだという、北畠具房とはどんな人物なのか。

北畠(きたばたけ)氏は足利氏と同じ源氏の一族で、戦国時代には伊勢の『国司(こくし)』として、伊勢国の大部分を支配していました。

『国司』というのは当時の朝廷から与えられる役職の一つで、幕府から任ぜられる『守護』とは定義が違いますが(※)、その国を治める役割を持っていました。

(※)もともと北畠氏は”南北朝の戦い”で敗れた南朝と関係が深く、北朝を支持した室町幕府と後に和解して『伊勢守護』も兼務することになった

そうした背景からか、代々の北畠家当主は若くして朝廷から高い官位を与えられることが多く

具房の父・具教も『正三位』や『権中納言』(詳しくは各自調べてネ)に叙任されるなど、他の戦国大名とは一線を画す存在でした。


しかしながら、皆様ご存知のように時代は下剋上の嵐が吹き荒れる戦国乱世。 官位や名声の高さだけでは、生き残れません。

北畠氏も例外ではなく、伊勢の隣国・尾張(愛知県)から美濃(岐阜県)までを制圧した織田信長の侵攻を受けることになります。

1569年に起こったこの戦いで、約8万の織田軍に対して北畠軍はわずか1万。 多勢に無勢とはまさにこのこと。

それでも北畠軍は各地に籠城して必死の防戦を試み、織田軍を押し返す場面もありましたが、最終的に具教と具房は降伏。

信長は次男の信雄(のぶかつ)を具房の養子として(※)北畠家に送り込み、当主の座に就かせることを条件に降伏を受け入れました。

(※)本によっては「具教の養子とした」という記述もあり、『信○の野望』の武将解説だと「北畠家に養子に入った」とぼかした表現になっている。


・・・信長にしてはずいぶん甘い処置のようにも見えますが、これは完全な『乗っ取り作戦』ですよね。 (今風に言えば『完全子会社化』?)

あるいは、すでに義昭との対立が始まっていた時期でもあるので、伊勢だけに兵力を割くのは得策ではないと判断したのか?

いずれにせよ社長の首をすげ替えられ、事実上『織田株式会社・伊勢支店』と化した北畠一族の悲劇は、これで終わりではありませんでした。

そして、歴史上ではほとんど”無名”といってもいい北畠具房に、”将軍”義昭が頭を下げて協力を頼みこんだ真意とは!?


・・・気力も時間も尽きたので、今日はここまでにいたしとうござりまする。  また近いうちに、ありがとうございました。

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【戦国時代】ワールドカップも気になりますが、日本には”蹴鞠”があるじゃないか!

こんばんは。

本日は、昨日の夕方降ってきたネタを料理してみたいと思います。

タイトルですでにバラシてますが、そのテーマは『蹴鞠(けまり、しゅうきく)』

『なんで突然”コレ”が降ってきたのか』と聞かれても、自分でも分からないので答えようがありません。 あしからず。

まぁ、もうすぐサッカーのワールドカップが開催されるみたいだし、無理やり繋げられなくもないですが

ここ最近は戦国ネタを書いていない気もするので、そちらに寄せる感じで書いてみることにしましょうか。


まず、蹴鞠という競技が生まれたのは、紀元前300年頃の中国だといいます。

今回調べた範囲では『軍の訓練の一環として行われたのが最初らしい』とのことですが

『1つの鞠(ボール)を地面に落とさないように、複数人が交代で蹴りあう』という、基本ルールはすでに出来上がっていたようです。

その後は地域によって様々な進化を遂げ、『チームを組んでの団体戦』や『”ゴールに入れる”というゲーム性』を持つものなど

現代で言うサッカーやセパタクロー(足も使えるバレーボール)に近いルールが作られた例もあるみたいです。


時代が下るにつれて、主に貴族や官僚といった”上流階級の娯楽”として定着した本家中国の蹴鞠。

宋の時代(西暦1100年頃)には、『蹴鞠が上手い』というだけで時の皇太子に気に入られ

後に国家を裏で操るほどの権力を手にした男の逸話もあります(興味のある人は『水滸伝』を読んでみよう)。

ところが、明の時代になると蹴鞠に熱中するあまり本業をおろそかにする者が続出し、政治の腐敗や風紀の乱れが社会問題化。

ついには『蹴鞠禁止令』まで出されたため、現代の中国ではすっかり廃れてしまっているのでした・・・。


一方、日本に蹴鞠が伝わったのは、西暦600年頃といわれております。

後に「大化の改新(645年)」を成し遂げた中大兄皇子と中臣鎌足が『蹴鞠を通じて知り合った』という伝説があったり

”701年に日本で初めて『蹴鞠の大会』が開かれた”と伝える文献があったりで、正確な時期は分かっていません。


平安時代を迎えると、蹴鞠は運動不足を気にする(?)貴族の間で大流行し、私たちの知る『日本式蹴鞠』の基礎が形成されます。

そのブームの過熱ぶりは、貴族たちが競って自分の屋敷に専用の競技場や練習場を作るだけにとどまらず

蹴鞠の技術や作法を他人に教えることで生計を立てるという、今風に言えば”プロのケマリスト(??)”まで現れるほどでした。

ついには自分の子孫にも蹴鞠の特訓を積ませ、”蹴鞠の名門”として後世に名を残した家もあるとか、ないとか・・・。

それでも中国みたいに禁止令が出されなかったことを考えると、仕事に支障が出ない程度に楽しんだということでしょうか。


さて、現代人には『蹴鞠は貴族の遊び』というイメージが強いのですが、実際は武士や庶民の間でも親しまれたようです。

戦国時代の武将たちの間でも、体力作りや人付き合いの一つとして蹴鞠を習う者が多かったといいます。

とはいえ、”合戦での働き”を仕事とする戦国武将の肉体鍛錬としては、蹴鞠だけでは物足りなかったようで

有名な戦国武将の中で、積極的に蹴鞠を行ったという記録が残る例は、はっきり言って多くありません。

織田信長の『相撲』徳川家康の『鷹狩り』など、合戦にも役立つような種目がもてはやされたのです。


そんな風潮の中で、”異色”といえるほど蹴鞠に情熱を傾けた戦国武将がいました(やっと今日の本題!)

駿河・遠江(静岡県)を治めた『戦国大名今川家』最後の当主(※)・今川氏真(いまがわうじざね)であります。

(※)氏真の一族は後世に続いたが、『戦国大名としての今川家』は彼の代で滅びた、という意味です

ご存知の方も多いでしょうが、もともと今川家は幕府や朝廷との縁が深く、代々の当主は武士でありながら

朝廷の貴族や幕府の要人と交流する機会が多かったため、蹴鞠も”社交術の一つ”として習得していた面があります。


余談ながら・・・氏真の父・義元が桶狭間の戦いで無様な戦死を遂げた理由として

『貴族趣味に走り、武芸の鍛錬をおろそかにしたから』と書かれることも多いのですが

これは江戸幕府が『武士の本分は質実剛健』と刷り込むために流布した後付けの理由、とも言われております・・・もちろん諸説ありですが


とはいうものの・・・義元の存命中から蹴鞠だけでなく和歌や芸術鑑賞を好み、政治にはあまり関与しなかったという氏真は

桶狭間の敗戦で動揺する家中をまとめ切ることができず、義元の死から10年足らずで今川家の領地を全て失ってしまいます。

このことから戦国武将としての能力は最低レベルと言わざるを得ない氏真ですが

”しぶとく生き延びる力”はある意味一級品で、そこに蹴鞠の素質も絡んでくる逸話がございますので紹介しておきます。


住み慣れた駿河を追われた後、いろいろあって徳川家康のもとに身を寄せていた氏真。

ある時、京に出かける用事があった氏真は、家康の仲介で父の仇・織田信長と会うことになります。

下手すれば一触即発、修羅場になりかねない展開でしたが・・・ 信長を目の前にした氏真の第一声は「一緒に蹴鞠をやらないか?」

『自分を憎んでいるはずなのに、蹴鞠に誘ってくるとは・・・何を考えているのか?』と、あっけにとられた信長でしたが

家臣に「俺の代わりに相手してやって」と言い(信長は蹴鞠が得意ではなかったらしい)、その試合(?)を観戦した、というお話です。


復讐の「ふ」の字も出さない”愚かな”自分を演じることで、『信長に警戒心を抱かせないように』という計算が氏真にはあったのかもしれないですが

自分の特技である”蹴鞠”を活かした結果として会見の場は和み、最終的には77歳で亡くなるまで悠々自適な生活(※)を送れたのですから

若い頃の彼が蹴鞠を極めるのに費やした時間と努力は、戦国乱世を生き延びるのに役に立ったといえそうです。

(※)収入の面で言うと、彼の貴族階級との人脈に目を付けた秀吉や家康から城主待遇で雇われたことが大きいと思われる


まとめとしては・・・やはり「芸は身を助く」というか、好きな事を極めておくと役に立つこともあるのですなぁ(謎の感想)

その上で、自分の特技や好きな事をどうやって社会に売り込んでいくか、会社単位でなく個人個人が考える必要もありそうです。

・・・ワールドカップうんぬんから、妙に自己啓発めいた内容になってしまいましたが。  蹴鞠でここまで話が飛躍するかね、自分。


そんなわけで、明日からの4連休が楽しみな方も、まだまだ仕事という方も。

肩の力をほどよく抜いて、休める時には休んで、ぬかりなく乗り切っていくとしましょうか。

では、また明日。

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【戦国時代】”日本一?地味な影武者伝説”から生まれた、現代に残る言葉の話。

こんばんは。

今朝は北海道で震度5弱を観測する地震があったようです。

今週月曜日に島根県で震度5強の地震が起こったのが記憶に新しい(人によってはもう記憶にない?)ですが

ホント、地震はいつどこで起こるか分からないですよねぇ・・・ 最低限の備えはしておかないと、と改めて思います。


さて、今週も土曜日は戦国ネタを一つ消化するとしましょうか。

歴史好きには割と有名なエピソードかもしれませんが、このブログではまだ書いていないネタです。

戦国時代を舞台にした創作モノで、よく使われるシチュエーションに『影武者』があります。

刺客(忍者だったり剣の達人だったり)に命を狙われることも多かったという、戦国時代の大名たち。

万が一にもそうした”事故”で命を落とすことがないよう、『影武者』・・・言い換えれば『容姿や声が似ている、自分の身代わり』を用いたといいます。

武田信玄や徳川家康が『影武者』を用いたという話はよく知られていて、それこそ映画や小説のテーマにもなっています。

それを取り上げるのもいいのですが、私はそういう有名どころより”地味”な人物話の方が好きなので(要は”ひねくれもの”である)

映画化されることはまずないけれど、現代に残る”あの言葉”の由来になったとされるエピソードをひとつ。


戦国時代の大和国(やまと、現在の奈良県)に、筒井(つつい)氏という戦国大名の家がありました。

大和国には東大寺や興福寺(こうふくじ)といった有力な寺院が多数あり、その影響からか

代々の筒井氏の当主は”出家してお坊さんになる”のが通例でした。 これも重要な伏線だったりします・・・


さて、ある時の筒井家当主・順昭(じゅんしょう)は、若くして重い病に倒れてしまいました。

もう自分の命は長くないと悟った順昭でしたが、跡を継がせる長男(のちの筒井順慶・じゅんけい)はまだ2歳。

政治は遺った親族たちに任せればいいものの、合戦には絶対に出られないので他国に攻め込まれるのは避けたい。

そこで順昭は、病の床から家臣たちに”ある命令”を下します。 そして、その数日後に息を引き取りました。


順昭の死から少し後。

病床にある(はずの)順昭のお見舞い(と偵察)に訪れた、近所の大名の使者が城の一室に通されました。

隣の部屋は薄暗く、中央に布団が敷かれていて、そこに順昭(らしき人)が横になっているのが見えます。

順昭(??)と使者はあいさつの後に互いの近況などを話し、特に変わった様子もなく使者は帰っていきました。


さて、いったい何が起こったというのでしょうか??


勘の良い方はお気づきでしょうが、これが”日本一?地味な影武者”のお仕事です。

死の間際にあった順昭は、合戦だけでなくいわゆる”社交の場”での支障をなくすべく、手を打っていたのです。

彼自身も”お坊さん”であったことから、大和国中から自分と姿や声が似ている”お坊さん”を探させました。

そして、順昭(とその家臣)のお眼鏡にかなった”逸材”が、布団に寝ていた男の正体。 名前を『木阿弥(もくあみ)』といいます。


「あー、そういうことね」と思った方、ちょっと待って! 面白いのはここからなんですよ! 


この『木阿弥』さん、もとは奈良のお寺で慎ましく修行の日々を送っていたのが一転、

この国の”お殿様(ちょっと違うか)”の『一生のお願い』でお城へ招かれたものですから、暮らしぶりの違いにビックリ仰天。

でも難しい政治のことは筒井家の人たちがやってくれて、自分は時々訪れる他国の使者の相手をしていればいい。

食事や住む場所にも不自由しないのだから、お坊さんを辞めてこの生活を続けてもいいんじゃないかなー、なんて考えてました。


それでも、世の中は甘くないというか、いい事は長く続かないというか。

順昭の死から3年余り、家臣たちは6歳になった順慶の元服(成人)の儀式を行い、正式な筒井家の当主としました。

ここで初めて『順昭は実は死んでいた』という事実が対外的にも明らかにされ、『影武者』を使う必要もなくなりました。

木阿弥は『今までありがとね』とだけ言われて城を追い出され、慎ましい修行の日々に戻りました、とさ。

まさに天国から地獄、人生ジェットコースター。 これぞ「元の木阿弥(もとのもくあみ)」の逸話であります、と。


・・・うーん、引き留めた割には大したオチじゃなかったですね、スンマセン。

お詫びになるか分かりませんが、たぶん私にしか語れない補足の話を。

私が中学校で数学を教えていた頃、一度だけ修学旅行の引率に加わったことがあります。

その行先は定番の”奈良・京都”だったわけですが、奈良市内を観光中にバスガイドさんが

「みなさんは『元の木阿弥』ということわざを知っていますか~? 実は、奈良で生まれた言葉なんですよ~」と言い出して

前述のエピソードを語りだしたので、心の中で(あー、知ってる知ってる)と再三つぶやいておきました。

皆さんもバス旅行で奈良に行くことがあったら、聞けるかもしれませんよ~なんて。 (寺めぐり・城めぐりツアーなら確率高し?)


それでは、今日はこのへんで。 これ以上地震が続かないことを祈りつつ・・・

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【戦国時代】日本に実在する珍しい(?)苗字のお話。 ”お留守番”も立派な仕事?

こんばんは。

大型連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」がようやく先週で完結して、

次の戦国系記事はどうするか・・・と考えていましたが、「これだ!」と特集を組みたいほどの武将が見つからないので

一記事完結の細かすぎて伝わらない戦国ネタ選手権ひとりで勝手に開幕です。(元ネタの番組は終わっちゃいましたが)


その第1回目として、最近ブログ主が気になった武将を取り上げます。

サブタイトルがちょっとヒントになっていたのですが、ピンと来た方はいたでしょうか?


戦国時代の東北地方に『留守』さんという苗字の一族がいました。 ご想像通り『るす』と読みます。

現代でも『お留守番』とか『居留守』とか『留守番電話』とかで使われる単語とはいえ、苗字は初めて聞いたという方も多いのでは?

ところがどっこい、この『留守』という苗字の由来は、なんと鎌倉時代にまでさかのぼることができるといいます。


京の都や鎌倉といった『当時の日本の中心地』から遠く離れた、九州や東北の地まで役人が行き来するのは大変だということで、

その役人に替わって『現地に残って行政や治安を取り仕切る人』に、「留守職(るすしき)」という役職を与えたのが最初だとか。

そう考えると、現代でも使われる「留守」とほぼ同じ意味で使われていることが伺えますね。


そんな訳で、鎌倉幕府を開いた源頼朝から東北地方の「留守職」を与えられたのが井沢家景(いざわいえかげ)

その子・井沢家元(いえもと)が苗字を「留守」に改め、これが奥州留守氏のはじまりといわれています。 

そして、戦国時代に入る頃には家景から数えて17代目の留守顕宗(あきむね)が当主となっていたのですが

その跡を継いだ18代目・留守政景(まさかげ)の存在こそ、『留守』姓を語る上で外せないキーマンなのです。


この政景、実は戦国時代の東北地方で常に中心的存在であった伊達(だて)氏の出身。

後に東北地方の覇権を握り”独眼竜”とあだ名された名将・伊達政宗は政景の兄の子、つまり”叔父と甥”の関係になります。

もともと伊達氏と留守氏は領地が近かったこともあり、時にはいがみ合いつつも長い付き合いを続けてきました。

伊達氏が本格的な勢力拡大を始めると、留守氏を平和的に支配下に収めようとたびたび養子を送り(毛利元就の戦略と同じですネ)

政景も自身の兄で当時の伊達家当主・伊達輝宗の命により、留守氏当主・留守顕宗の養子に入ったというわけです。


その後、顕宗に替わって政景が留守氏の当主になると、留守氏は実質的に伊達氏の一門に加わり、政宗の東北制圧に貢献します。

しかし、小田原北条氏を攻略する軍に加わらなかったために豊臣秀吉の怒りを買い、留守氏の領地は没収されてしまいます。

とはいえ政景にとっては”実家”の伊達家に戻る絶好の機会であり、その後は”政宗の叔父”として伊達家の重臣に収まりました。

1600年、『関ケ原の戦い』と同時期に発生した『長谷堂(はせどう)の戦い』では、侵攻してきた上杉景勝軍(指揮官は直江兼続)を迎え撃つため

政宗から伊達軍の総大将を任されて出陣し、出羽(山形県)の大名・最上義光(よしあき)とともに見事に上杉軍を撃退しました。

そして、戦後処理が一段落すると『この際、伊達の姓に戻さないか?』と政宗から打診されてこれを受諾、

それ以降の政景の一族は”水沢伊達氏”として、江戸時代に続いたのであります。


なお、現代で『留守』姓の方は(諸説ありますが)数十名~200名と推計されており、やはり全国的には珍しい苗字になるようです。

『以前テレビで見た気もするなぁ~』と思いながら書いていましたが、ユーチューブで見つけました。こちらです。



懐かしいっすね、トリビアの泉。 当時の私もかじりついて見てましたよ。

確か「武田信玄は家臣(男性)にラブレターを送っていた」なんてネタも紹介されてた気が。

自分も「織田信長が自分の長男につけた名前が、”奇妙”とか送ろうか、と思ったこともあります(やりませんでした)。

もし読者の方オススメの”トリビア”というか豆知識があったら、調べて記事にするかもしれないのでコメント頂けると嬉しいです。


では、今日はこのあたりで。

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