そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【関心事】どこまでも続く、この空の青さと。

こんにちは。

7月も今日で終わり、明日からは8月です。

すでにこれだけ暑いのに、8月になったらどんだけ猛暑になるのか・・・恐ろしいです。

合わせて、天気の急変や局地的な豪雨による災害も心配なところです。

小まめに水分補給と気象情報のチェックをして、いろいろと備えましょう。


そんな中、私はというと今年に入ってまだそうめんを食べていない事に気づき、食べることにしました。

とはいえ家でお湯を沸かすと余計に暑いので、スーパーで売っている水洗いだけで食べられるやつです。

しばらく使う機会が無かった冷蔵庫のめんつゆからは、変なにおいがしていたので(すぐ捨てました)

非常食の意味合いで買っておいた味噌を冷水で溶かして、ダシにしました。 なかなか美味しかったです。

これでようやく、我が家にも夏到来という感じですね。


夏到来といえば、もうすぐ夏の高校野球、甲子園も始まります。

今日で全国49地区の代表が出揃うと思っていたのですが、唯一残っている宮城県大会で準決勝が引き分け再試合となり

代表決定は明日にずれ込むことになったようです。 明日のブログで、改めて代表49校を書いておきたいと思います。

ちなみに昨年初めて甲子園に出場した我が母校は、今年の県大会では初戦敗退でした・・・。 後輩たちよ、また来年頑張ろう。


最後は、タイトルとも関連する(?)昨日の話題から。

北海道の民間企業が日本で初めて「民間企業が単独で作ったロケット」を打ち上げたところ

目標の高度100km(宇宙空間)には届かなかったものの、一定時間の飛行とデータの収集に成功したそうです。

最初このニュースを聞いた時、この民間企業というのが以前のブログで動画を紹介した植松勉(うえまつつとむ)さんの会社かなとも思いましたが、

元ライブドアの社長で実業家の「ホリエモン」こと堀江貴文(ほりえたかふみ)さんが立ち上げた会社だったようです。

(植松さんご本人も、自身のブログで「今回の打ち上げには私の会社は全く関わっていません」と述べています)


どこまでも広がる夏の青空に打ち上がるロケット・・・なんとも夢のある光景な気がします。

「将来は人工衛星を載せられるロケットを作って、宇宙開発ビジネスに参入したい」と堀江さんは話しているそうで

現実問題は開発にかかるお金やビジネスの展望などの話と切り離して考えるのは難しそうですが、

植松さんも言っていた「誰もやったことがない事に挑戦する」というマインドは、見習っていきたいと思いました。


では、明日は仕事が忙しくなりそうで早めに休みたいので、このへんで。

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【関心事】血圧がちょい高めのあなたに。

こんにちは。

最近、この手のキャッチコピーで通信販売をする健康食品が多いですよね。

同じ症状に対する食品でも、次から次へと新商品が出てくるのは、やはり需要があるからでしょうね。

年齢を重ねても健康を維持し、いろんな事に挑戦して人生を楽しみたい。 その気持ちは大事です。

ただ、健康食品に「病気を治す」とか「衰えた組織を修復する」といった、医薬品的な効果を期待してはいけませんよ。


本当に病気や老化に効果があれば、国の法律で定められた「医薬品」として出回るはずですし

売り出す前に動物や人間の体で効果とか副作用を厳しくチェックする検査(臨床試験)をパスしないといけないので。

「※個人の感想です」と小声で言い訳をして、一人でも多くの顧客を囲い込もうとする企業の戦略も理解できなくはないですが

正直そういうテレビCMやウェブ広告ばかり目につくので、消費者側もいろんな角度から情報を集めて(人の意見を鵜呑みにせず)

自分に本当に必要なのは「お金」か「健康」かそれとも「生きがい」なのか、しっかり見極める必要がありそうですね・・・。


で、かく言う自分も最近血圧が少し高めだと、お医者さんから言われております。

毎月1回、かかりつけの病院で血圧測定と問診をするのですが、半年くらい前から

最高が140、最低が90(単位は失念)と、それぞれ10ずつ上がっているんですよね。

お医者さんからは「少し高めではあるが数値は安定しているので、すぐに健康への影響はない」ということで

薬の処方などは受けず、経過を観察することにはなっています。


まぁ30代も半ばになれば、いろいろと体に衰えや変化が出てくるのも想定の範囲内ではあり

自分でもできる身体のケアに、これまでより気を遣わなくてはならないと感じています。

まずは「ラーメンのスープを全部飲まない」とかから始めるかな・・・ ベタな対策ですけど。

一人暮らしなので体調が急変したら生命の危機もある、ということで気を付けたいと思います。


それでは、今週もまたよろしくお付き合いのほどを。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・4 応仁の乱! グダグダ編

こんばんは。

毎週土曜日は、当ブログ渾身(こんしん)の連載企画「落日」をお送りしております。

『応仁(・文明)の乱』から始まる(とされる)戦国時代に翻弄された、室町幕府の足取りを見ていこうという企画ですが

何しろその応仁の乱がややこし・・・いやいや興味深すぎて、なかなか次の話へ進めません。

去年あたりから雑誌やテレビで『今、応仁の乱が熱い!』などと言っていましたが、調べ始めると確かに面白いですね(人間関係や利害関係の複雑さ、とか)。

加えて、それをいかに”歴史に興味が無い”人にも伝えるか、というテーマとも向き合いつつ頭をひねる日々です。

そういうわけで、毎回それなりに”難産”なブログ記事を、今週も無事にお届けできます。

今回は、前回の予告で紹介した「東軍と西軍が入れ替わっちゃった事件」の主役でありながら

世間一般における知名度は非常に低い、そんな男にスポットを当てます。


今回の記事の主役は、8代将軍・足利義政(よしまさ)の弟で、元・お坊さんの足利義視(よしみ)

足利将軍家では、跡継ぎ(基本は長男)以外の男の子は小さいうちに寺に預けてお坊さんにする、というしきたりがあり

義勝や義政という兄がいた義視も、幕府に何もトラブルがなければ立派なお坊さんとして一生を全うしたのでしょう。

しかし、運命のイタズラなのかどうなのか、彼が生きた時代に応仁の乱が起こったことで、波乱の人生となってしまうのです。

今回のお話は、義視が還俗(げんぞく、お坊さんが寺を出て一般人になること)して足利家に戻ってきたところから始まります。


義視の兄で現職の将軍である義政は、何度も言うように政治への興味関心を失い、隠居を考えていました。

しかし跡を継がせる男の子がいない義政は、お坊さんになっていた弟の義視を何とか説得し、自分の跡継ぎと決めました。

ところが、その翌年に義政とその妻・日野富子との間に元気な男の子(後の足利義尚)が誕生。

義視には「必ず次の将軍にするから!」と約束した一方、妻からの「我が子を将軍に!」というプレッシャー(※)も心配な義政。

ここまでは前回の記事でも書いた通りですが、事態はここからさらに複雑になります。

(※)ベストセラーとなった『応仁の乱』著者の呉座勇一先生によれば、
   「義視の妻は富子の妹であり、『富子は義視を敵視していた』という一般的な説明は成り立たない」とのこと



応仁の乱 足利義視のグダグダ人生


事件が起こったのは、1466年。 応仁の乱が始まる前の年、幕府内に不穏なウワサが流れたのです。

「義視は早く将軍になりたくて、義政に謀反を起こそうとしているらしい・・・」

そのウワサは当然義政や義視の耳にも届き、これにはさすがの義政も激怒。 もし事実ならば義視を討つ、とまで言い出します。

一方、身の危険を感じた義視は細川勝元の屋敷へ逃げ込み、兄の怒りが収まるのを待ちました。


その後、義政や細川勝元らがウワサの出所を調べた結果、首謀者は義政の側近であった伊勢貞親(いせさだちか)だったことが分かります。

実は貞親はまだ幼い義尚の養育係を務めていて、義尚を将軍にして自分が権力を握るため、義視の存在が邪魔だったのではないか、と言われています(諸説あり)。

これには勝元だけでなく、そのライバルだった山名宗全も「さすがにやり過ぎだ」と憤りを覚え、二人で義政に貞親の処分を要求。

有力者二人に迫られては義政もうなずくしかなく、貞親は京から追放されることとなりました。

これが「文正の政変」と呼ばれる事件ですが、後に義視の運命を再び左右することになろうとは・・・


さて、どうにか義政と和解した義視でしたが、翌1467年には応仁の乱が幕を開けます。

義視は細川勝元と親密な関係にあり、とうぜん勝元がリーダーを務める東軍を支持する立場をとりました。

一方の勝元も、1月に起こった畠山軍どうしの戦いで宗全に遅れをとった(前回の記事参照)分を挽回すべく、

どうにかして室町幕府に東軍の後ろ盾になってもらい、「官軍」として大義名分を得たいと考え、様々な工作を行ったようです。

それが功を奏したのか、6月には将軍・義政から幕府軍が用いる「旗」を受け取り、一応「官軍」となることに成功します。

これと前後して、次期将軍として義視を推す態度も明確にし、義視を西軍討伐の総大将として擁立することも決めました。


勝元という有力者がバックについているからとはいえ、義視もさぞかし張り切ったことと思われます。

この時期の義視は幕府内で西軍寄りと思われる武将や役人を追放、あるいは処断するなどしており、

「自分こそが次の将軍である!」という権威や影響力を確立させたかったのだと考えられています。

(ただし、義視みずからが戦場に赴いて指揮をとったり敵の兵と戦ったりしたことはないようです。)


ところがどっこい、そう簡単に事が収まらないのが「応仁の乱」のややこしいところ。

幕府から「賊軍」と見なされ、劣勢に立たされていた西軍の大将・山名宗全にも奥の手がありました。

それは、開戦時から助力を頼んでいた守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)の存在です。


戦国時代の大内氏といえば、公家文化に没頭して家臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれた

大内義隆(よしたか)のイメージから、大したことないと思う方も多いかもしれませんが

室町時代の大内氏は、周防・長門(現在の山口県)を中心に中国・四国・九州北部にまたがる大勢力を誇り

幕府の政治にもたびたび影響をおよぼした、日本でも指折りの有力守護大名だったのです。

1467年8月、その大内氏が西軍に加勢し、3万という大軍を率いて上洛(京に入ること)したという情報が流れると

大内氏の威信を恐れた東軍や幕府内の武将の中からも、西軍に鞍替えしようとする者が次々と現れました。

そんな中、義視がとった行動とは・・・


「東軍総大将の地位を捨てて、逃げる。」


という、何とも無責任なものでした。 これには勝元も呆れていたかもしれません。

義視は京を脱出すると、伊勢(現在の三重県)でいくつかの城を転々とし、京での合戦が一段落するのを待ちました。

業を煮やした義政の説得によって義視が京へと戻ってきたのは、1468年9月のことです。

合戦が長期化し、将軍家の跡継ぎ問題もウヤムヤになりかけていたので、一度話を整理する必要もあったのでしょう。


ところが(もう何回目だこれ)、義視にとってどうしても許せないことが起こります。

それは、以前「義視が謀反を起こす!」というウワサを流して追放されていたはずの伊勢貞親が、

いつの間にか義政の側近として復職していたことでした。

どうやら、政治家として有能だった貞親を、義政が許して復帰させたらしいのです。


貞親が兄の近くにいたら、またいつ自分があらぬ疑いをかけられるかもしれない。

それに、そんな奴を近くに起きたがる兄貴も兄貴だ・・・!



「お前を絶対次の将軍にする!」という義政の約束も、今の義視にはもうどうでも良くなっていました。

再度の家出を決意した義視は、京を脱出して比叡山へと身を隠します。

しかし、その10日ほど後、彼は山名宗全と共に西軍の陣地の中にいました。

どうやら義視の家出を聞きつけた宗全が、義視に西軍入りを説得していたようなのです。


というのも、前述のとおり「賊軍」のレッテルを貼られた西軍が「官軍」の東軍と互角に戦うには

兵力の面もさることながら、東軍に匹敵する大義名分が必要だと宗全は考えていました。

そこで、疎んじられたとはいえ将軍候補だった義視を抱き込み、自分たちの幕府を作ってしまえばいい、と。


こうして、義視は”西軍を正当と認める幕府”の将軍に祭り上げられ、本家の室町幕府と同じ政治機構を備えた”第二の幕府”が出現することになったのです。

もちろんこれを認めるわけにはいかない義政は、義視と西軍の幕府を『朝敵(朝廷、つまり日本にとっての敵)』とし、ここに義政と義視の関係は完全に決裂。

跡取りについても義政は手元に残った義尚を推す形になり、開戦以来の対立の構図が覆されることになったのです。


・・・自分で書いてて言うのもどうかと思うけど、長すぎましたね今回。

2回に分けても良かったのかなぁとも思いましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。

次回はもうちょっとコンパクトにまとめたい、応仁の乱終息に向けた流れを見ていく予定です。

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【日常】暑い時期は食欲が落ちる、と申しますが。

こんにちは。

なんか落語の一席でも始まりそうなタイトルになりました。 「やぁ熊さんじゃないか、どうしたんだい?」的な・・・

さて暑い日は、冷たい麺類なんかでサクッと食事を済ませたいなんて方も多いでしょうか。

体のだるさからか「何となく食欲がわかない」という感じを覚える、というのもよく聞く話ですね。

そういう時って、水分の多い果物や冷たいアイスばかり食べている・・・というのも原因の一つらしいです。

水分も大事ですが、体に必要な食べ物がきちんと取れているかというのも、たまにチェックするのが良さそうです。


そこ行くと私は、今のところ食欲不振という感じはないんですね。

むしろ、「あれ食べたい、これも食べたい」ということをしょっちゅう考えてますので、ひとまず健康です。

とはいえ、仕事の都合で生活リズムが極端な朝型になった結果、朝と昼の食事の比重が小さくなり

仕事が終わる夕方前にはもう腹ペコ、という個人的な事情があるのも無視できないんですけどね。


もちろん1日の総カロリー摂取量はどうしても減っていきますので、体重もかなり落ちてます。

毎日起き抜けに体重と体脂肪率をチェックしていますが、少なく見積もっても1割は減っている計算です。

(具体的な数字は、ご想像にお任せします。 極端なやせ体形でないことだけは確かですが・・・)

今日も朝から動き回って汗もかいたためか、帰って体重計に乗ったらまた1キロ落ちてました☆

水分が抜けただけであれば、しっかり食べて飲んですればすぐ元には戻ると思いますけど。


ともかく、食べたい時にはしっかり食べて、暑さに負けない身体を養いたいものですね。

では、今日はこの辺にして夕食にしますか。

明日は例の歴史ネタです、更新が遅くなるかもしれませんがご期待ください。

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【関心事】今日は、スイカの日らしいです。

こんにちは。

タイトルが全てを物語ってますが、そういうことです。

スイカ・・・ 以前こんな記事を書いたようですが。 ざっと2年前ですね。

2年経ってもブログの構成や文章力に大して進歩がない、という不都合な事実を見てしまいました。  (´・ω・`)


それはともかく、スイカですよスイカ。 こう暑いと、食べたくなりますよねー。

漢字だと『西瓜』と書くんでしたっけ? 西ってどの辺だろう? 東南アジアあたり?(←適当)

『西瓜』と書いてスイカと読ませるなんて、おそらく当て字ですよね。 現地の言葉とかでどういう意味なのか・・・

興味のある人は、各自調べてください。(←得意の丸投げ)


そうそう、2年前にも書いていたスイカのスイーツ、最近はたまに見かけますね。

あるコンビニでは、杏仁豆腐の上にスイカの果肉とジュレ?を載せたスイーツが売られていました。

あと、前回ネタにしたスイカクッキーは・・・ うん、見かけなくなったね。 期間限定だったということで

「いやいや、やはりスイカには塩でしょう!」というストイックな方も多いのかな?

どうでしょうコンビニやデパ地下の商品開発部の方、『スイカ+塩』スイーツを開発してみては!

今は『塩キャラメル』とか『塩プリン』もあるくらいですから、熱中症対策も込みで需要はあるんじゃないかと!(←力説)

私ですか?  私は、まぁ食べないかな・・・(←持ち上げて落とすパターン)


以上、ノリと勢いだけで書いてみたらウザさ50%増量(当社比)になった今日の記事でした。 おわり。

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【日常】良い休み方、とは。

こんにちは。

シフトの関係で毎週水曜日は仕事が休みです。

ここ数週間は、朝からブログ用の歴史ネタをこねこねしていると、あっという間にお昼になってしまいます。

そこまで苦になる作業ではないですけども、お昼までかかるのはちょっとキツイかなと・・・。

仕事が終わってから寝る前までの時間も活用すべきなのか、でもブログにそこまで時間をつぎ込むのも・・・ うーん。


それから昼食と夕食の買い物に行って、昼食を済ませた後は基本自由時間にしていますが

これといってやりたい事がある訳でもなく、かといってがっつりゲームをするには時間が足りない気もして、

今一つ消化不良気味な過ごし方になってしまう感じがするのが、贅沢な悩みといえるかもしれません。

いっそダブルワークか、在宅でできる副業の方法でも模索してみるか? なんて思ったり。

それでも心身の健康を維持するのが最優先なので、今のサイクルはそれなりに望ましいのかも。

ただゴロゴロとしているだけで、疲れが取れるという単純な話ではなくなっているんですよね。

「せっかくの休みだったのに、アレもコレもやればよかった!」と思わずに済むように

やりたいと思った事はどんどんやっていった方が、充実感が得られるのかもしれないと思いました。


それではまた明日から、それなりに仕事を頑張ってきます。

願わくば明日のブログにて。

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【関心事】ウナギと私。

こんにちは。

今日7月25日は、今年の「土用の丑の日」だそうです。

まぁお馴染みだとは思いますが、この日はウナギを食べると縁起が良い、という言い伝えがあります。

私の父親も、この時期になると決まって母に「ウナギを買ってこい」と言っておりました。

そんな父も最近はすっかり食が細くなり、食べ物についてあまり注文を付けなくなっているようなのですが

この前実家に電話したら、今年も一応ウナギのかば焼きを買って、お茶碗サイズの小さなうな丼を食べたそうです。


当の私はというと、ウナギはどうも苦手だったりします。

子どもの頃はもともと魚全般が苦手なのと、一番は小骨の多さで全く受け付けられませんでした。

父親からも「こんなに美味いものが嫌いなんて、もったいない」と毎年のように小言を言われました。

(小学校の給食で、サンマか何かの小骨が喉に刺さって以来、小骨の多い魚がトラウマになっていたのもあります)

今ではそれなりに食べられるようにはなりましたが、好んで食べるというほどでも無いんですよね・・・

一人暮らしの生活では、自分で買い求めて食べるということはまずないんです。


そういえば、丑の日にはうなぎ以外にも「う」で始まる食べ物を食べると良いとも聞きました。

「う」で始まる食べ物って、何があっただろうか・・・


「梅干し」・・・これは冷蔵庫にもあるから、食べておこう。

「うり」・・・ウリ科のキュウリやスイカじゃダメかな? 買わないと無いけど。

「うどん」・・・家にはカップラーメンしかないや。

「うに」・・・高級品だし、味が苦手なんだよなぁ。

「牛(うし)の肉、牛の乳」・・・わざわざ訓読みにするのは反則かな? 

「薄焼き玉子」・・・調理法じゃなくて食材でお願いします。

「ウィダーインゼリー」・・・ツイッターで見つけたネタ。 10秒で終わっちゃう。


結論・・・今年はおとなしく梅干しを食べて健康を祈願しておきます。


今日もどうもありがとうございました。

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【日常】厚揚げを焼く。

こんにちは。

突然ですが、昔から厚揚げが好きだったんですよね。

今日、仕事帰りにスーパーに寄ったら、厚揚げが半額になっていたので買いました。

電気式の小さな卓上プレートで両面をパリッと焼いて、晩御飯にします。

タンパク質補給のために豆腐もよく食べますが、厚揚げの方がより食べ応えがあって良いと思います。

あと、寒くなればおでんに入った厚揚げも美味ですね。

一人暮らしでは作りませんが、コンビニで買うときはよく味が染みてそうなのを選びますね。

大根や玉子も捨てがたい中、子どもの頃から一番好きなおでんの具だったかもしれません。

・・・うん、書いていたらお腹がすいてきた。 朝も昼もそんなに食べてないし。

ということで、そろそろご飯も炊けるので(←いつの間に炊いてたんだ)今日はこのへんで。


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【雑感】藍より青し。

こんにちは。

今週末は北海道から東北にかけて大雨となったようです。

特に秋田県では河川の氾らんや土砂災害による被害も出ているとのこと・・・

東北は梅雨明けもまだのようなので、今後の気象情報と二次災害にご注意いただきたいです。


さて、今日は私の仕事場での話なんですが。

今の時期は忙しいらしく、私が入ってからも新しい人が次々と入ってきています。

時には私がその人たちに仕事を教えるよう、上司から指示されることもあります。

内心では「自分の仕事もまだまだな自分が、人を教えていいのか?」という戸惑いもありますが

そこはチームとしての成果が求められるので、自分にできる限りのことはするつもりでいます。

(実は、今までの職場で後輩や部下といえる相手を持ったことがないんですよね・・・)


そんな状況の中、心に置いている言葉があります。

以前このブログでもスピーチの動画を紹介した、植松勉(うえまつ・つとむ)さんが自身のブログで述べていた持論です。


「教育者が自分以下の人間しか育てなかったら、社会全体が成長しなくなる」


本当は、学校で常勤講師として勤めていた時代に出会いたかった言葉だと思いました。

教える側は、相手が自分より知識や経験が劣っていることを見下してはいけない。

まして「自分より仕事ができるようになっては、自分が困る」と言って、才能の芽を摘んでしまう事などあってはならない。

自分のプライドや立場を守るために相手を自分以下に留めてしまったら、社会は衰退するしかなくなると警告しているのです。


そういえば、昔から「青は藍より出でて藍より青し」とか「出藍の誉れ」なんて言われるように

弟子が師匠の教えた事以上の力をつけるということは、望ましいこととされてきました。

そして、若い人には知識や経験がなくても、これから伸びていく可能性を秘めている点で、貴重な存在なのです。

これから人口が急激に減少していくであろう日本では特に。

私もそろそろいい歳なので、人生の後輩への接し方を成熟させていかないといけないと思いました。


たまに出る真面目な話は、これでおしまい。

大相撲名古屋場所も終わって、これからは高校野球が楽しみなまこな。でした。

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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・3 応仁の乱! 本番

こんばんは。

土曜日恒例の連載記事「落日 ~室町幕府、終焉への道~」 今週もはじまります。

前回の記事では、『戦国時代の始まり』と評されることもある応仁(・文明)の乱について、

その開戦に関わったを思われる人物の対立関係を紹介してみました。

今日はその続きで、応仁の乱における一番の"争点"ともいえる『足利将軍家の跡継ぎ争い』の模様と

開戦1年目、1467年(応仁元年)に何が起こっていたのかを中心に書いていきたいと思います。


まず、前回のラストで紹介した主要人物の対立関係図をもう一度ご覧ください。

応仁の乱 対立軸まとめ1

応仁の乱では、幕府の管領(政権の補佐役)を長年務めた細川勝元をリーダーとする東軍

中国地方東部を中心に8か国の守護として勢力を誇った山名宗全率いる西軍が争うことになりました。

そして、足利将軍家の跡継ぎ争いも、この両者がそれぞれの主張をぶつけ合うための材料として持ち上げられたのです。


以前の記事でも書いた通り、8代将軍・足利義政は政治への意欲を失っていました。

「将軍なんて早く引退して、悠々自適に過ごしたい」と思った義政でしたが、彼には跡継ぎにできる男の子どもがいません。

そこで義政は、幼い頃に寺に預けられ僧となっていた弟の存在に目をつけ、彼に自分の跡継ぎになるよう説得します。

最初は戸惑い断った義政の弟でしたが、義政の度重なる説得に折れ、還俗(げんぞく)して「足利義視(よしみ)」と名乗り、次期将軍に内定しました。 

ようやく念願の跡継ぎと趣味ざんまいの余生が手に入り、義政もご満悦だったことでしょう。

応仁の乱が始まる3年前、1464年のことです。


ところが・・・ 翌1465年、義政の夢は水の泡と帰してしまうことになります。

義政とその正室・日野富子との間に、待望(?)の男の子(のちの足利義尚)が生まれたのです。

義視を説得したときには「もし後で男児が生まれても、必ず義視を将軍にするから!」と約束していた義政でしたが

政治にもたびたび口出ししていた富子から「あなた、もちろんこの子を次の将軍にするわよね?」と迫られ、困ってしまいます。

決断を下せない義政を見て、富子は山名宗全に子どもの後見を頼み、宗全もこれを承諾します。

実は義視にはすでに細川勝元が後見人としてついており、宗全は勝元への対抗心からこの申し出に承諾したとも考えられています。

この時点で応仁の乱に至る対立関係はほぼ完成し、「勝元+義視+畠山政長」を主要メンバーとする東軍と

「宗全+義尚(+富子)+畠山義就」を主要メンバーとする西軍の対立は、避けられないものとなっていったのです。

なお、義政は義視を推していた意味では東軍寄りですが、本来は将軍として両者の仲裁をするべき立場なので、ここでは除外しています。


そして迎えた1467年、事態はいよいよ風雲急を告げます。

最初に動いたのは、かつて義政から謹慎を命じられた畠山義就です。

前年の暮れに宗全の誘いを受けた義就は、本拠地の河内(かわち、現在の大阪府南東部)から軍勢を率いて京に入っていました。

これに驚いたのか、義政は年始に毎年行っていた当時の管領・畠山政長宅への訪問をキャンセルし

宗全の屋敷に滞在していた義就に年始のあいさつを行います。 

さらに、義政は管領の職を政長から義就に交代する人事を発表、政長には自宅も義就に引き渡すように命令します。

一度は「政長が畠山家の当主だ」と認めたはずなのに、義政のブレまくりな態度はこの後も混乱のもとに・・・


あまりにひどい仕打ちを受けた政長は、1月17日の夜中に自宅を焼き払うと、18日には京の北にある上御霊社に陣を構え

義政に抗議するとともに、事によっては義就と一戦交えようという態度を見せました。

対する義就も、政長が陣を張ったという知らせを受け上御霊社へ進軍、これが「応仁の乱」最初の戦闘となりました。

上御霊社は将軍の住む御所のすぐ近くにあり、戦闘による被害が御所に及ぶのを恐れた義政は

「この戦は畠山家の内輪の争いだから、他の大名は手出ししてはならない」という命令を出しました。

命令を守り政長に加勢しなかった勝元に対し、宗全は命令を無視して義就とともに政長の陣を攻めました。

合戦は宗全の加勢を得た義就軍の勝利に終わり、敗れた政長は勝元の屋敷に保護されることになります。

そして、命令を守ったのに「政長を見捨てた臆病者」という悪評を背負ってしまった勝元の心にも、「宗全許すまじ」という怒りの火がついてしまいました。


それから約4か月にわたり、勝元・宗全の両者は各国の守護大名たちに兵の動員を呼びかけました。

互いに自分に味方する軍勢の兵を京に集め、将軍・義政に自分の正当性をアピールする目的だったとも言われます。

5月の終わりの段階で、東軍の軍勢はおよそ15万西軍の方は約9万まで膨れ上がったとされています(もちろん諸説あり)。

当時の京の人口が20万~22万だったというデータもあり、まさに一触即発という雰囲気が漂っていたといえます。


そして、5月26日には東軍と西軍の一部が小競り合いを始めたことをきっかけに戦線が徐々に拡大、

5月28日に一応の終息を迎えるまでに多くの寺社や民家が焼け落ちるという被害が出ました。

さらに、10月には応仁の乱最大の激戦ともいわれる「相国寺の合戦」が発生し、多数の死傷者が出ました。

それでも、両軍ともに決定的な勝利を得ることはできず、次第に兵力や補給の不安も出てくるようになります。

頼みの将軍・義政は一応の正当性を東軍に認めてはいるものの、その実効性はほとんど無く、跡継ぎの結論も出ていません。

そして、この後10年にわたってドロ沼の争いが繰り広げられることになっていくのです・・・。


次回は、「応仁の乱」がとにかく説明しづらいとされる原因の一つと思われる

「東軍と西軍が入れ替わっちゃった事件」について、見ていきたいと思います。

私もしっかり予習をして記事作成に挑みますので、来週もどうぞよろしくお付き合いください。


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