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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】その一通が運命を変えた・・・? 北畠具房と織田信雄の”その後”は。

こんばんは。

昨日は中途半端なところで気力と時間が切れてしまい、失礼しました。

ネットで偶然拾ってきた『足利義昭の直筆お手紙』のニュースについて、今日は続きを書きます。

なお、ブログ主の主観的な知識や推理がところどころ含まれますので、ここで読んだ全てを”真実”と思わぬようご注意ください。


では、昨日の記事のあらすじから。

広島県福山市の歴史博物館に寄贈された史料から、室町幕府15代将軍・足利義昭の直筆とみられる手紙が見つかりました。

織田信長の次男・信雄を養子とした(異説もある)伊勢の武将・北畠具房に宛てたもので、要約すると『京へ戻るため力を貸してほしい』という内容。

幕府の将軍として具房より格上だったはずの義昭が、手紙の中では相手を敬った丁寧な表現を使っているのが特徴で

これまでに確認されている約220通(!)の手紙の中でも、同様のものは5通しかない”非常に珍しい”史料だということです。


これらの情報を受けて、昨日の記事では『北畠具房(きたばたけともふさ)とは何者か?』として

戦国時代の伊勢を治めた『国司・北畠氏』の生い立ちと成長、そして織田信長に伊勢の支配権を乗っ取られるまでを紹介しました。

具体的には織田家との戦に負けて(『実は負けてない』という説もある)、信長の次男・信雄(のぶかつ)に北畠家を継がせることを約束させられ

信雄を養子にもらった(とされる)具房と、その父で隠居の身だった具教(とものり)は非常に肩身の狭い立場に追いやられた、というお話です。


こんな”悲惨な状況”だったにもかかわらず、義昭がなおも北畠家を頼りにした理由は何なのか。

あまり深入りすると収拾がつかなくなりそうなので、手がかりになりそうな情報を一つだけ。

この手紙が書かれたと推測される1576年9月という時期は、義昭が備後(広島県)の”鞆の浦”に落ち着いた直後。

その頃京都では、信長が自身の権力基盤をより強固なものにするため、朝廷や貴族への働きかけを盛んに行っていました。

義昭を追放して室町幕府を”滅亡状態”に追い込み、また既存の権威に否定的な態度を取り続けた(とされる)信長であっても

日本に天皇や朝廷の存在がある限り、その意向を無視して政治を行うことはできませんでした。

その中で自分の意見を通しやすくするために、表向きは朝廷や貴族の要求に応え、より高い官職を賜ることが必要だったのです。


その甲斐もあってか、信長は1575年11月(当時の暦)に『右近衛大将』という官職を得ることになります。

『近衛(このえ)』という言葉の通り、本来は天皇やその住まいを警護する役目を意味する役職ですが

それが転じて「その時代で最も権力を持つ武士」に与えられることもあり、信長もそういう存在だと認められたということです。

しかも、当時の義昭の官職はこれより低い『左近衛中将』であり、信長は義昭を下に見る地位に昇進したことにもなります。

義昭は依然『征夷大将軍』ではありましたが、この肩書はあくまで『武士の世界でのトップ』という意味合いに過ぎず

朝廷や貴族まで含めた『中世日本の政治の世界』においては、信長の方が格上となったのは間違いありません。


・・・ずいぶん話が飛んでしまいましたが、この事実からブログ主が推測することは。

信長が自分より格上の存在になってしまった事を意識して、義昭は今回の手紙を書いたのでは・・・と。

協力を依頼した北畠具房の父・北畠具教は隠居の身とはいえ、朝廷から高い官職を賜っていた武将である。

軍事力では信長に敗れたとはいえ、彼を味方につければ朝廷への働きかけが有利になることが期待できる。

また、織田軍に敗れて不遇の身になってしまった事から、信長に対して敵対心を持っていることも共通している。

信長に敵対した大名が次々と滅ぼされる中、まだ生き残っている北畠家には協力を持ち掛ける余地がありそうだ。

ただ、今は信長より格下になってしまったので、『将軍』として上から目線の手紙を送ると、信長に目をつけられるかもしれない。

あえて丁寧な表現や敬称を使って相手の警戒心を解き、その上で相手がどう動くか様子を見ることにしよう・・・。


前述の通り『現存するだけでも220通』の手紙を書き、各地の大名や武将に送ったことから『お手紙将軍』なんて異名もある義昭。

相手の立場や境遇に合わせて、文面や表現を巧みに使い分けていた姿が思い浮かびますが、実相はいかに・・・??


しかしながら。

義昭が心を砕いてしたためたこの手紙が、功を奏することはありませんでした。

手紙が書かれたとされるわずか2か月後、北畠具教は無残にも殺害されてしまうのです。

信長の命を受けた信雄が、軍勢を率いて具教の滞在する館に押しかけ、息子や家臣もろとも討ち果たしたといいます。

『具教は剣術の使い手で、最期の瞬間まで刀を振り回して奮闘した』という、どこかの将軍みたいな逸話もあったりする)

また、別の城にいた具房もほどなくして身柄を拘束され、3年間”軟禁”されたのち、1580年に34歳で死去しています。


信長がこの”凶行”に及んだ表向きの理由は『武田信玄と密約をして、”信長包囲網”に加担していたこと』だとも言われますが

今回の手紙のタイミングが”良すぎる”ことも考えると、信長には筒抜けだったんじゃなかろうか・・・なんて思ってしまいます。

それに、仮にこの手紙が”きっかけ”の一つになったとして、それが起こらなかった未来を想像すると(『歴史に”もしも”は禁句』は分かっているが)

後に羽柴秀吉と対立し、徳川家康にすり寄りながら、織田の家名を後世に残した信雄の人生も違うモノになっていたのかなぁ・・・と思ったり。

まぁ何か問題があれば、それは『三介殿のなさること』として大目に見てやってください(←伝わらないボケをするな!)


以上、『久々に戦国モノを書いたら、チカラ入って前後編になっちゃいました』の巻、おしまい。

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