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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】出た、柴田勝家の直筆お手紙! 相手の”溝口さん”ってどんな人だい?

こんばんは。

ネットでニュースを見ていたら、すごいネタが手に入りましてね。

NHKさんが報じているところによると、織田信長に重臣として仕えた戦国武将・柴田勝家(しばたかついえ)が

『本能寺の変』の8日後に書いた
という直筆の書状が、新潟県新発田(しばた)市で発見されたそうです。


言うまでもないかもですが、『本能寺の変』は勝家の主君であった信長が明智光秀に襲撃され、命を落とした事件。

我々が知る歴史では、北陸方面の司令官として越前(福井県)にいた勝家はすぐに動き出すことができず

対照的に『中国大返し』を成功させて光秀を討った羽柴秀吉に出し抜かれてしまうことになるのですが・・・

今回の記事は、その辺の事情は一旦横に置いておいて『この手紙を受け取った相手』にスポットを当てて書いてみます。


この手紙の宛名に書かれていたのは、『溝口半左衛門(みぞぐち・はんざえもん?)』という人物。

NHKの報道には『織田方の武将』としか書かれておらず、これだけではどんな人物だったのかは分かりません。

しかし、織田信長に仕えていた”溝口さん”といえば、例の『信長の野望』シリーズに一人だけ該当者がいました。

はじめ”溝口定勝(さだかつ)”と名乗り、後に秀吉から一字を賜って”溝口秀勝(ひでかつ)”と改名した武将です。


調べてみると、彼は元々は信長の家臣・丹羽長秀(にわながひで)のそのまた家臣だったようなのですが

長年の功績が認められ、1581年に信長の直臣(じきしん、直接の家臣)として取り立てられた、と言われています。

ところが、その翌年に本能寺の変が勃発して信長が討たれると、羽柴秀吉に従って各地の合戦に参加。

1598年には上司の堀秀政らとともに越後(新潟県)に領地を与えられ、子孫は幕末まで”新発田藩”として残ったのでした。

今回の書状も新発田市にお住まいの溝口さんのお宅から見つかったということで、現在までその家系が続いているのですね。

・・・ここまで書いておいて恐縮ですけど、実はこの秀勝(定勝)と手紙を受け取った半左衛門は、同一人物ではないようなのです。


では半左衛門とやらは一体何者なんだ、と言われれば・・・ ネットで調べてもあまり詳しい事は分かりませんでしたが

どうやら『秀勝の弟に”半左衛門”と名乗った者がいた』ことが複数のサイトに書いてありました。

また、半左衛門の息子で『亀田高綱』と名乗る武将が、後に浅野長政に仕えて大坂夏の陣に参戦した、という情報も・・・。

再来年の2020年には、大河ドラマで明智光秀が主役になることが決まっていますので、さらにこれから調査が進めば

この『溝口半左衛門』なる(歴史的には無名だった)人物の詳細も、少しずつ明らかになってくるのかもしれません。 続報に期待です。


ちなみに、現在の島根県の知事は『溝口善兵衛』さんと言います・・・ たぶん血の繋がりはありませんが。

オチのつけ方の感覚が戻っていないことを痛感しつつ、今日は以上です。 ありがとうございました。

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