FC2ブログ
そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】年忘れ!ニュースで見つけた戦国ネタ2連発!の巻。

こんばんは。

昨日に比べれば多少は冬将軍が手加減してくれた感のある、2018年最後の土曜日。

道路に雪が無かったのをいいことに、ブログ主は今年最後のジム出勤(!?)を敢行してきました。

いつものランニングマシンと筋トレをこなした後、自身2度目となる大人数でのエクササイズメニューに挑戦。

1回目よりは身体が動きやすくなっているのを感じたものの、後半に入って”ふくらはぎ”のあたりに痛みが・・・。

終了後には風呂につかってしっかり休ませ、現在はおさまったので問題は無いように思います。

どちらにしても明日以降はジムが年末年始休業に入るので、適宜”自主トレ”をして体調と体型を維持したいです。


それでは、ここから今日の本題に入るとしましょう。

平成最後の年末ということで、何か特別な企画でもやろうか・・・と考えたかといえば、全く考えてなかったです(←おい)

しかし、ここ2,3日の間に『これ、【戦国時代】のカテゴリーで記事書けるんじゃね?』と思うニュースが2つほど見つかりましたので

ブログ村の【戦国時代】セクションに籍を置く身として、しばらくご無沙汰だった”戦国好きテンション”でお送りしたいと思います。


その①  ネットオークションに出品された”秀吉宛ての書状”、差出人は”信長の宿敵”顕如か

情報源はNHKニュースのウェブサイトにて、12月27日付けで配信された記事です。

記事によると、東京大学の史料編さん所がネットオークションで落札した『羽柴(後の豊臣)秀吉宛ての書状』について詳しく調べたところ

文章の内容や紙の質などから、織田信長と激しく対立した浄土真宗・本願寺の僧侶『顕如』が差出人であると判断した(※)、とのことです。

(※)書状には差出人の名前や花押(かおう、今で言う署名または捺印)があるのが普通だが、この書状はその部分が切り取られているとのこと。


信長が”天下布武”を目指した1570年代、各地で信長に抵抗する”一向一揆”の主導者として立ちはだかった顕如ですが

1580年に信長と”和解”したものの本拠地を追い出され、その後は紀伊(和歌山県)に身を潜めていたとされています。

2通の書状はどちらも信長が”本能寺の変”で命を落とし、秀吉がその後継者の地位を手に入れた頃に書かれたものとみられ

畿内一帯を勢力圏におさめた1583年ごろ、秀吉に『あいさつの使者を送ります』という内容の書状が1通。

もう1通は、1584年に朝廷から官位を賜ることになった秀吉に対して『お祝いの品を送ります』という内容になっている、とのこと。

その後、秀吉は顕如が信長との戦いで本拠とした”石山本願寺”の跡地に大坂城を築き、天下統一の拠点としたのはご存知の通りです。


このニュースでブログ主的に注目したいポイントは・・・

・秀吉宛ての書状は”大坂夏の陣”でほとんど焼失してしまっており、今まで数点しか見つかっていない

・信長に敗れた顕如が、秀吉を”次の権力者”とみなして政治的に接近しようとした可能性を示唆している


・戦国史のみならず日本史において貴重な史料が、何気なくネットオークションに出品されていた

特に最後のは『もし落札したのが海外の収集家だったら、日本史研究における大損失になってたんじゃないか』と心配になってしまいました。

現代の大学教授や歴史研究家は、論文や史料だけでなく”ネットのオークションサイト”にも目を光らせていないといけないのですねぇ・・・。


その② 『自動車が歩道を暴走!』の動画が収録された町は、アノ戦国大名が名付け親!?

こちらは昨日のお昼に、テレビのワイドショー番組で大きく取り上げられていた話題。

宮崎県延岡市で『歩道を走行する自動車』の様子をとらえた動画がSNSに投稿され、多くのユーザーによって拡散されたそうで。

実際の動画をSNSやテレビ番組でご覧になった方も多いと思いますので、その珍事(!?)についての言及は一切いたしません。

今回ブログ主が注目したのは、その動画が撮影されたとされる『宮崎県延岡市無鹿(むしか)町』という地名。

実を言いますとこの『無鹿(むしか)』、なんと”名付け親は戦国大名だった”という伝説が残っているんです。 ご存知の方も多いかもですが。


その戦国大名というのが、日本で最も有名であろう切支丹(キリシタン)大名・大友宗麟(そうりん、本名は義鎮・よししげ)

最盛期には九州9国のうち6国までを支配した強豪大名家で、後に龍造寺・島津の両家と三つどもえの争いを繰り広げた大友家の21代当主です。

同時に、キリスト教が日本に伝来するとこれを積極的に保護し、自身も篤く信仰して『ドン・フランシスコ』なる洗礼名まで頂いています。

この宗麟とキリスト教のつながりが、今回のニュースで話題になった『無鹿』誕生の秘密を握っているとしたら・・・? (もったいつけるなよ)


九州北部を支配する大友氏にとって、最大のライバルは九州南部に勢力を拡大する島津氏でした。

その島津氏が日向(宮崎県)に兵を差し向けてこれを占領すると、宗麟は島津軍の北上を阻止するため自ら出陣。

戦況は大友軍の優位で進み、上機嫌の宗麟は占領した町に対して『この地に新しい名を授ける!』と宣言します。

実は彼、旧来の仏教などの影響力が及ばない『キリスト教の理想都市』を作りたい、という野望があったそうなんですね。

その思いが高じて、この地についた新しい名前は『牟志賀(むしか)』。 ラテン語で『音楽』を意味する”musica”から着想を得たとか。

横文字を地名に使うのは現代でも珍しいですが、無理やり現代に当てはめるなら”高輪ゲートウェイ”みたいなものか??


合戦の状況は二の次に、『牟志賀』の地に教会を建てたり宣教師を呼んだりと張り切る宗麟ことフランシスコでしたが・・・

そうこうしているうちに、本気を出した島津軍の猛反撃を受け、大友軍は散々に打ち破られます。 世に言う”耳川の戦い”です。

宗麟が夢見た理想都市構想はあっけなく崩れ去り、大友氏と島津氏の力関係も完全に逆転することになってしまったのでした。

そして、いつの頃からか『牟志賀』の漢字は『無鹿』に替わり、およそ400年後にネットで全国から注目を浴びた・・・というわけです。

もしかしたら今は知られていない戦国武将が由来の地名も、将来何かのはずみで有名になるのかも・・・(今回みたいに”お騒がせな案件”でなければよいが)


以上、年忘れスペシャル(?)にふさわしいボリュームになってしまいました。

ここまでお付き合い頂いたあなたに、穏やかな年越しの時が訪れることを祈って。 ありがとうございました。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村




コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)

■ コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

▼この記事へのトラックバック(あれば表示)