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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】”塩の日”にちなんで、現代に残る”敵に塩を送る”話を深掘りします。

こんばんは。

突然ですが、本日1月11日は『塩の日』だそうです。

数字の1が3つ並んで、何となく縁起が良さそうな日が『塩の日』とは、連想しづらいところですけど。

ちょっと調べてみたところ、この『塩の日』が生まれた由来が戦国時代にあったと知って、ネタにできるかなと思いまして。

このブログでも過去にきちんと書いてはいないようだったので、今日の記事でざらっとご紹介していきます。


さて・・・皆さまは『敵に塩を送る』ということわざ(?)をご存知でしょうか。

適当な例文が思い浮かばないのですが、意味としては『敵が抱えている弱みにつけこまず、逆に助けること』になります。

そして、この表現が生まれた背景に、皆さまもきっと知っている2人の戦国大名がいたとしたら・・・?

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【ロケ地・長野県長野市】

写真は使い回しですが、細かい説明は不要でしょう。 武田信玄(左で座っている方)上杉謙信(右で馬に乗ってる方)のご両人(敬称略)。

戦国史に名高い『川中島の戦い』で火花を散らし、お互いを”ライバル”として意識していたとも言われる名将です。

で・・・手っ取り早く結論を言えば『上杉謙信が武田信玄に塩を送った』というのが、”敵に塩を送る”の元になった逸話です。

なぜ謙信は”塩”を信玄に送ることになったのか? 金とか米じゃダメだったのか??  当時の状況を踏まえながら紐解いていきます。 


まず、この逸話を読み解くために理解しておきたいのが、信玄や謙信を取り巻く大名同士の外交関係です。

甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を領国とする信玄の武田氏は、長らく駿河(静岡県)の今川氏・相模(神奈川県)の北条氏と同盟を結んでいました。

一方、謙信の上杉氏は越後(新潟県)を本国とし、隣接する信濃・上野(群馬県)・越中(富山県)などへ度々出兵していました。

この状況に変化が生じたのは1567年。 ”桶狭間の戦い(1560年)”で当主の今川義元が討死した今川氏は

義元の子の氏真(うじざね)が跡を継いでいましたが、義元が築いた支配体制の弱体化を食い止められず、家臣の離反が相次いでいました。

これを領土拡大の好機と見た信玄は、三河(愛知県)の徳川家康と手を結んで今川領を二方向から攻める戦略を立てました。

信玄の長男・義信や一部の家臣は反対しましたが、信玄は今川氏に対して同盟破棄を通告し、駿河侵攻の準備を始めます。


これに驚いた氏真ですが、後世に伝わる『国を失った愚か者』という評価とは裏腹に、したたかな”反撃”に出ます。

信玄の一方的な同盟破棄を”義に反する行為”だと非難し、同じく武田氏に不信感を持った北条氏を味方につけます。

そして、氏真は北条氏の当主・北条氏康と協調して『武田領に対する塩の輸出停止』という対抗措置を発動しました。

これが当時の言葉で”塩留め(止め)”と呼ばれる政策で、今で言う『経済制裁』にあたるものでしょうか。

甲斐・信濃という”内陸国”を治めている武田氏には海水から天然の塩を精製する手段が無く、塩の入手は他国からの輸入に頼らざるを得ませんでした。

家臣や領民の生活に不可欠なだけでなく、欠乏すると生命の危険もある”食塩”の入手経路が絶たれたことは、信玄にとって大きな誤算だったに違いありません。


で・・・お待たせしました。 この”信玄最大の窮地”にさっそうと現れたのが、”義の武将”こと上杉謙信です。

一説によれば、氏真は謙信にも『越後から甲斐・信濃への塩の輸出を止めてほしい』という誘いをかけていたそうです。

しかしながら、謙信はこれに応じなかったばかりか、信玄宛てに次のような内容の書状を送ったと言われています。


『今川殿から塩留めを依頼されたが、このような陰湿な手を用いて敵を苦しめるなど、武士として恥ずべき行為である。

 武田の領民に罪は無いし、貴殿(信玄)とは戦場で決着をつけたいと願っているので、塩の心配はしないでほしい。』



その書状での言葉通り、ちょうど越後に出かけていた甲斐の商人が、大量の塩を買い付けて武田領に戻ってきました。

塩不足で動揺していた領民の生活は平穏を取り戻し、信玄は感謝の意を込めて謙信に刀を送ったといいます(現在も重要文化財として残っているそう)。

そして、信濃国・松本の町(現在の松本市)に塩が到着したのが(当時の暦で)1月11日だったことから、この日が”塩の日”になった・・・というお話です(※)。

(※)諸々の情報源で日付は一致しているが、年は”1568年説”と”1569年説”がある模様。 1569年だと、今川氏が滅ぼされた後なのだけど。

某ゲーム会社(バレバレ?)が最新の技術と解釈で再現した動画もありましたので、参考までに。





・・・ここからは、蛇足になる事を承知で裏話を。

実際のところ、この”塩留め”問題が発生する以前から、越後産の塩を武田領へ流通するルートは存在したようなのです。

これも現代における”海外貿易”みたいなものですから、『何の見返りも求めずに一方的に塩を提供した』という事ではないようですが。

特産品の開発や日本海での海運事業にも意欲的だったという”史実”の謙信なら、これも一つの”ビジネス”として考えそうではあります。

そもそも、戦国時代当時のものとして信頼できる史料には、今回紹介したやり取りに関する記録は一切残っていないのが現実で

ここで紹介した逸話は江戸時代中期以降の、しかも上杉氏が保管していた文書による内容が大半なので、”後世の創作”の域を出ない話だったりします。


それでも『他の大名と違って領地拡大の野心を起こさず、助けを求められたら黙っておけない』という

後世の人々が抱く謙信のイメージと重なる部分が多い”敵に塩を送る”逸話は、いつしか”歴史の真実”として受け入れられていったのではないでしょうか。

同じく史実かどうか疑わしいにも関わらず、『兄弟の団結を説く逸話』として後世に語られる毛利元就の”三本の矢”の例もありますし。

ただ一つ言えるのは、史実がどうであれ(例え作り話であっても)謙信や信玄の業績や名声を汚す要素にはなり得ない、ということ。

400年以上の時を超えて語り継がれ、今なお慣用句として用いられること自体に価値があると考え、将来にも伝えていければと思います。


というところで、いつも以上に力の入った”新年1発目”の戦国ネタ、いかがでしたでしょうか。

一つのエピソードでも、調べを進めると『どれが正解?何が真実??』と悩むような場面に出くわしますが、それもまた”学ぶ楽しさ”なのでしょうね。

ここで解説した内容も”歴史の一つの可能性”にすぎないので、読んだ方がそれぞれに思考や想像を巡らせていって頂けたら。


明日からは3連休。 お仕事の方ものんびりする方も、雑音に心を乱されることなく穏やかに過ごせますように。

ではまた。

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コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)
戦国時代
まこなさん、こんばんは。

私も戦国時代が好きですが、知識が浅くて読んでいて勉強になりました。
面白かったです^^

自分は関東住みということもあり、北条好きですが謙信、信玄がいたころの戦国時代が好きです。

戦国時代のエピソードは真偽は別として面白いです。
北条でいうと「2度汁かけ」など。

また戦国時代の話聞かせてください。
2019/01/12(土) 22:43:15 | URL | byかひ (#-) [ 編集]
Re: 戦国時代
かひ さん
コメントありがとうございます。

戦国時代ネタは自分が納得するまで情報を集めてから書く事が多いので
それほど頻繁には出せませんが、楽しんで頂けたようで良かったです。

信玄や謙信は、江戸時代以降も人気があって逸話も多いですけど
北条家(特に氏政)については、滅亡した大名の宿命なのか
『愚かな統治者だった』と伝わっているのが残念ですよね。
「汁かけ飯」以外にも「麦飯」とか「橙」とかありますし・・・

とはいえ、ご先祖様の「北条早雲」は”戦国大名の第1号”ですし
「北条氏康」も信玄や謙信と互角以上に戦い抜いた名将ですから
近い将来、何かのきっかけでブームが来るかもしれませんよ。
まずは「目指せ、N○Kの大河ドラマ化」ですかね?
うちの地元の「山中鹿介」よりは、可能性が高いと思います(苦笑)

次回のネタもこれから探しますので、楽しみにしていてください。
ありがとうございました。
2019/01/13(日) 16:28:40 | URL | byまこな。 (#-) [ 編集]

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