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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】武田信玄伝説~B面~
こんばんは。

今日は昨日の記事に引き続き、

戦国大名・武田信玄の生涯、その後半をお送りします。

一部、戦国時代の知識が無いと読みづらい部分もありますが、

なるべく説明を入れていますので、よろしくお付き合いください。


続きは追記から。
‐‐‐‐‐‐




信濃をほぼ制圧した信玄の前に立ちふさがったのが、

越後(えちご、現在の新潟県)を治める上杉謙信(うえすぎけんしん)です。

余談ですが、謙信には「長尾景虎」「政虎」「輝虎」など、多くの別名(?)があります。

詳しくは、いずれ謙信をテーマにした記事で書きたいと思っています。


謙信は、本拠地の越後と接する信濃に勢力を拡大した信玄に警戒心を抱き、

また信玄に領地を奪われた領主たちから救援を求められたこともあって、

信玄率いる武田軍と戦うことを決断したのです。


武田軍と上杉軍、両者の戦いは信濃の川中島(かわなかじま)をめぐって行われました。

約10年の間に少なくとも5回の戦いが行われたと言われていますが、

特に有名なのが1561年に発生した4度目の戦いです。
(単に「川中島の合戦」と言った場合、この戦いを指すことが多いです)


この戦いは両軍の主力部隊が入り乱れての総力戦となり、

(伝説ではありますが)信玄と謙信の一騎打ちが行われたともいわれています。

最終的に信玄は信濃の領地を謙信の攻撃から守り抜きますが、

この戦いで弟の武田信繁(たけだのぶしげ)や

軍師(異説あり)の山本勘助(やまもとかんすけ)など多くの武将や兵を失いました。

この時の激闘ぶりから、信玄と謙信は「戦国時代の好敵手」として語りつがれることになります。


川中島の戦いが終わり、信玄が晩年を迎える頃、勢力を拡大してきたのが織田信長です。

信長は、京を追われていた室町幕府将軍(候補)・足利義昭(あしかがよしあき)を保護し、

上洛を果たして義昭を将軍としてまつり上げたことで、政治の主導権を握りつつありました。


しかし、既存の幕府を軽視するかのような信長のやり方に不安を抱いた義昭は、

信玄をはじめとする各地の有力大名に手紙を送り、信長を封じ込めようとします。

その頃まで武田家と織田家は良好な関係を保っていましたが、

信長の台頭に危機感を抱いた信玄は義昭の誘いに乗り、信長との対決を決意します。


信玄率いる武田軍は、信長と同盟を結んでいた徳川家康の領地に侵攻。

遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で

徳川軍の主力を打ち破り、その力を見せつけます。


そのまま織田領へと侵攻しようとした信玄でしたが、体調が悪化。

全軍を甲斐へと引き返させる命令を出しましたが、

1573年4月、信濃まで戻ったところで力尽き、息を引き取りました。

その2年後、信玄の跡を継いだ武田勝頼(たけだかつより)が

信長・家康の連合軍と戦って大敗したのは、以前の記事(長篠の戦い)の通りです。


歴史に「もしも」ということはありえませんが、

信玄と信長が直接対決をしていたらどうなっていたか、興味はあります。

信玄は戦国時代において優れた「政治家」であり、「軍人」でした。

そして、特に優れていたのは「経営力」かもしれません。

信玄は多くの人材を率い、各人の能力を存分に引き出した

「コーディネーター」であったとも言えると思います。


「人は城 人は石垣 人は堀」という言葉はよく知られていますが、

信玄は「人材」こそ組織の要と考え、それを活かすことに労力を惜しみませんでした。

信玄に仕える者たちも、そうした環境の中で存分に実力を発揮できました。

そこに、武田氏が一代で飛躍できた秘訣があるように思います。


さて次回は、少し違った角度から信玄の評価について見てみたいと思います。

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コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)
勝頼はお坊ちゃんで、やっすい挑発にホイホイ乗って騎兵で要塞攻めみたいな事やらかしたから敗北したんですよ。
信玄なら、そんな馬鹿な事やって無いと思います。

正攻法では柴田勝家でも歯が立たないと思いますが、秀吉あたりが鉄砲を使った奇襲で暗殺紛いの勝利を得て居たかも知れませんね。
2015/08/23(日) 04:54:03 | URL | by周 (#xkrNmXd.) [ 編集]
>周 さん

連日のコメントありがとうございます。

確かに、勝頼には信玄ほどの器量は無かったようです。
ただ、長篠の戦いの頃には信長包囲網が事実上崩壊し、
信長は武田軍の倍近い兵力を用意できていましたので
もし信玄が生きていても、厳しい戦いだったかもしれませんね。
調略中心にするとか、戦い方自体を変えるのではないでしょうか。

一方、信玄が家康を破ったあとのタイミングで
信長と戦っていたら、信玄にも分があったような気がします。
包囲網が健在で、信長は兵力を集中できないはずですし
織田軍(尾張)の兵は決して強くはなかったようですので。

こうなると、周さんの言うとおり
信長や秀吉が調略とか奇襲を使うかもしれませんね。
こういう想像をするのも、頭の体操になって楽しいです。

これからもよろしくお願いいたします。
2015/08/23(日) 20:03:42 | URL | byまこな。 (#-) [ 編集]

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