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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【旅日記】そういえば、戦国時代の島根県西部って誰が支配してたの? と思った方に捧げます。

こんばんは。

金曜日からの4連休が無事に終わり、明日はまた仕事に出かけます(メンタルの受診があるので午前中だけですが)。

このように書くと「そんなに休めてうらやましい!」と言われそうな気もしますが、私の場合は心身の調子を入念に整える意味もありまして

仕事による収入や社会保障を今より充実させたい気持ちもあるものの、また無理をして潰れてしまっては元も子もないし・・・

どちらにしても、一歩ずつ着実に積み重ねて進んでいくのが大事だと思ってます。 2週間後は簿記3級の試験ですし、なおさら。


と、身の上話はほどほどにして、ここからは昨日の”お出かけ”レポートを簡単に。

今回出かけたのは、島根県の西部に位置する益田(ますだ)市。 市内に親戚がいて家族では何度か来ていますが、一人旅は初めて。

高速道路すら細切れにしか開通していない”東西に長い”島根県、今回はJRの快速列車を使って片道2時間半ほどかかりました。

なお、戦国時代の島根県西部地域は『石見(いわみ)』と呼ばれていました。 「どこまで行っても石しか見えない」からだって ヤカマシイワ





益田藤兼(ますだ・ふじかね)

『石見の益田荘を本拠にした国人(小規模の武家)で、応仁・文明の乱が泥沼化したあたりから大内氏に仕えて功績を挙げた。

 藤兼は大内氏の重臣・陶隆房(晴賢)と姻戚関係にあり、隆房が大内義隆に対して謀反を起こした際にもこれに同調したが

 1555年に隆房は毛利元就に討ち取られ、1557年に元就の次男・吉川元春による石見侵攻を受けて毛利家に降伏した。

 その後は毛利軍の一員として尼子氏との戦いなどに従軍し、子の元祥(もとよし)は毛利輝元の重臣に取り立てられた。』



吉見正頼(よしみ・まさより)

『吉見氏は石見国津和野の三本松城を本拠とする国人で、寺に入れられていた正頼は兄の死により還俗し跡を継いだ。

 正頼の姉は大内義隆に嫁ぎ、大内氏の勢力を後ろ盾に得た正頼は近隣地域を支配下におさめ、益田氏ともたびたび争った。

 義隆が陶隆房に討たれると義兄の敵討ちとして挙兵し、三本松城で隆房の軍勢を迎え撃った。 のちに毛利元就の配下となる。

 正頼は文化の振興にも力を入れ、津和野の街に今も伝わる伝統行事”サギ舞”は正頼の時代に始まったとされている。』



このブログを読みに来てくださる方で、どちらか片方でもご存知だった方はいるのか? ”某戦国ゲーム”で毛利家が好きな人ならあるいは…

そう思って、自宅の本棚にあった「”某戦国ゲーム”のシリーズ9作目」の武将解説本から、彼らの説明文を引用しました(一部補足)。


こう言っては何ですけど、島根県暮らしがそこそこ長いブログ主ですら、県西部にゆかりのある”偉人”と言われて思い浮かぶのが

明治時代の小説家・森鴎外(おうがい)に室町時代の水墨画家・雪舟(せっしゅう)、そして柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)…

戦国ファンとしては残念なことに、武将やお城よりも”石見銀山(世界文化遺産!)”の方が印象に残る石見の戦国時代。 むねん。

それでも、彼らが必死に戦国の世を生き延びようとした”意地”のようななものが、展示された書物や出土品から伝わってくる気がしました。

今後も”某戦国ゲーム(←しつこい)”での扱いが大きくなることは無いと思うのですが、どうか彼らの事を記憶の片隅に置いてもらえれば。


現場からは以上です。

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