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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】関東地方の動乱~『なるはや』戦国・3章~
今回は時代を少しさかのぼり、関東地方の様子を見てみたいと思います。

「応仁・文明の乱」から「明応の政変」にかけて時代は混迷の度を増していきますが、

実は、関東地方はそれより一足早く戦乱の時代を迎えていたのです。


関東地方では、複数の権力者が互いに敵対する構図が出来上がっていました。

室町幕府が始まった頃に幕府の出先機関として関東に設置され、

現地では半ば幕府から独立した存在となっていた鎌倉府の長官・鎌倉公方(かまくらくぼう、※1)。
※1:鎌倉公方はたびたび幕府に反発する姿勢を見せていて、幕府軍に討伐されたこともあります

それに対し、本来は鎌倉公方の補佐役という立場ながら、

その鎌倉公方をしのぐ権勢を持つようになっていた関東管領(かんとうかんれい)

関東管領は上杉(うえすぎ)氏が代々その地位に就いていましたが、時代が下るにつれて

山内(やまのうち)や扇谷(おうぎがやつ)などいくつかの家に分かれ、一族内で争うようになっていました。

さらに、その関東管領の増長を抑えるために幕府から派遣されたものの、

関東に入れず伊豆(いず)で足止めを余儀なくされた堀越公方(ほりこしくぼう)

これらの勢力が時には手を組み、時には争うという混沌とした状況となっていたのです。


そんな状況に一石を投じる動きが起こります。

1491年、駿河(するが)今川(いまがわ)氏に仕える武将・伊勢新九郎(いせしんくろう)

跡継ぎ問題で揺れていた堀越公方の本拠地・伊豆に侵攻し、堀越公方を追い出しました。

新九郎は長年『素性不明の人物』と伝えられてきましたが、最近の研究では

平氏の血をひく備中(びっちゅう、現在の岡山県)出身の武士で、

父の代から幕府に仕えていたらしい、ということが分かってきています。

いずれにせよ『一人の武士が幕府の機関を倒した』というのは

戦国時代にふさわしい、大変画期的な出来事だったといえると思います。


前回紹介した斎藤道三にもあてはまりますが、

身分が低い者が実力で上の者を倒す、という現象を「下剋上(げこくじょう)」と言います。

戦国時代は、この「下剋上」が各地で発生した時代ということもできます。


話を戻すと、新九郎はその後、相模(さがみ、現在の神奈川県)の小田原城も奪うと

『北条早雲(ほうじょうそううん、※2)』を名乗り、相模一国を掌握します。
※2:小説などではこの名で知られるが、実際に北条姓を名乗ったのは子・氏綱(うじつな)の代からとされる

こうして早雲は戦国大名・北条氏の基礎を築き、北条氏は子や孫の代にかけて関東に勢力を広げていくのです。


一方、鎌倉公方から派生した古河公方(こがくぼう)や関東管領は依然として相争っていましたが、

北条氏の急速な勢力拡大に危機感を抱き、連合して北条氏に相対することになります。

1546年、連合軍は北条氏の河越城を大軍で囲みますが、北条軍の夜襲を受け壊滅(異説もあり)。

これにより、関東の勢力争いは完全に北条氏が主導権を握ることになります。


なかなか有名な武将の名前が出てこなくてすみません。

次回は武田信玄や上杉謙信の話が出てきますのでお楽しみに。


次回  第4章 群雄割拠の時代 を読む

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