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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】群雄割拠の時代~『なるはや』戦国・4章~
この4章では、いよいよ各地の有名大名が登場します。


「応仁・文明の乱」や「明応の政変」で幕府の権力が崩壊し、

全国各地で守護や守護代が戦国大名として独立していく中、

いわゆる「下剋上(前回記事を参照)」も頻発するようになります。


1551年、周防(すおう、現在の山口県)では名門守護大名の大内(おおうち)家で下剋上が発生します。

大内氏は「応仁・文明の乱」でも勝敗のカギを握っていたとされるほど有力な守護大名でしたが、

周防守護代で重臣だった陶隆房(すえたかふさ)が主君の大内義隆(おおうちよしたか)に対して挙兵。

義隆は自害し、大内家は隆房改め晴賢(はるかた)による『かいらい』政権となります。


その晴賢に立ち向かったのが、安芸(あき、現在の広島県)の毛利元就(もうりもとなり)です。

もとは安芸・吉田郡山(よしだこおりやま)の小領主にすぎなかった毛利家を

一代で安芸の盟主的な地位にまで押し上げた元就は、

晴賢の大軍を厳島(いつくしま)に誘い込み、これを撃破します。

元就はのちに大内氏の残存勢力も駆逐し、中国地方の覇者となるのです。


混乱が続く近畿地方では、細川氏に仕えた三好長慶(みよしながよし)

主君で管領の細川晴元(ほそかわはるもと)を追放して中央政治の実権を握りました。


東日本に目を向けると、甲斐(かい、現在の山梨県)の守護から戦国大名化した武田氏が

父を追放して当主となった武田晴信(たけだはるのぶ、後の信玄)の采配のもと、

甲斐の隣国・信濃(しなの、現在の長野県)をその勢力下に収めます。


一方、越後(えちご、現在の新潟県)の守護代から戦国大名となった長尾氏は

当主・長尾景虎(ながおかげとら、後の上杉謙信)が北条氏に追い詰められた関東管領の上杉氏を保護し、

後に関東管領の職と「上杉」の姓を譲られ、北条氏を倒すために関東に出兵を繰り返すようになります。

それと同時に、信玄に領地を奪われた信濃の領主たちから救援を求められると

これにも応じ、武田領となった信濃にも軍事行動を行いました。


特に、1561年に武田軍と上杉軍による「第4次川中島の戦い(※1)」は

戦国史に残る激戦となり、後世まで語り継がれることとなります。
※1:「信玄と謙信が一騎打ちをした」という伝承もありますが、真偽は分かりません


このように、戦国大名たちは自分の家を守るために、

あるいは領地を広げていくために戦いを繰り広げました。

ドラマやゲームでは「彼らは皆、天下統一のために戦った」と説明されますが、

本当にそうだったのかと言われると、少し疑問に思います。

当時の戦国大名たちのほとんどは、そこまで広い視野を持っていなかったような気がします。

本当は「自分の家を守るだけで精一杯」という大名も、山ほどいたはずですからね。


しかしただ一人、(おそらく)本気で天下をつかみに行った武将が出現します。そう、織田信長です。 

次回はようやく信長の話になります。お楽しみに。


次回  第5章 織田信長の出現 を読む

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