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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】織田家の急成長~『なるはや』戦国・6章~
さて、『なるはや』で戦国時代を知る特集もそろそろ折り返しです。

今回は、織田信長が上洛を果たし、天下統一への流れを作ろうとするところまでを

見ていきたいと思います。


桶狭間の戦いで信長が今川義元を討ち取ったことは、戦国の世に衝撃を与えました。

それをすかさず好機に変えたのが、尾張の隣国・三河(みかわ、現在の愛知県)を本拠地とした

松平元康(まつだいらもとやす、後の徳川家康)です。


この頃の松平氏は今川氏の圧力に耐え切れず臣従していました(※)が、
※当主の元康自身、幼少の頃には人質として今川家に預けられていた。
 名前の「元康」も、今川義元から一文字を与えられて名乗ったもの。
 桶狭間の戦いののち、「元」の字を捨てて「家康」と改名する。


義元が討たれたことを知ると、居城の岡崎(おかざき)城で今川氏からの独立を宣言し、

すぐに織田信長に接近して、織田家と松平家は同盟を締結します。

後に天下人となる家康も、桶狭間の戦いによって未来が開けた一人といえます。


さて、東に松平家という味方を得た信長は、領地を広げるための行動を開始します。

信長が標的としたのが、美濃(みの、現在の岐阜県)の斎藤(さいとう)氏です。

信長は斎藤道三(さいとうどうさん、詳しくは2章を参照)の娘を妻に迎えており、

信長が織田家の家督を継いでからは比較的良好な関係を築いていたのですが、

道三が子の斎藤義龍(よしたつ)に討たれてからは、絶縁状態となっていたのでした。


信長は美濃攻略に着手しますが、斎藤氏の頑強な抵抗にあい作戦は難航。

それでも、家臣の木下秀吉(きのしたひでよし、後の豊臣秀吉)らの活躍もあり

1567年に斎藤氏の本拠・稲葉山城を奪取し、美濃を手中に収めることに成功します。

信長は稲葉山の地名を「岐阜(ぎふ)」と改めるとともに、

この頃から天下統一への意思表示とされる「天下布武(てんかふぶ)」の文言を使い始めます。


美濃を制した信長のもとに、思わぬ来客が訪れます。

足利義昭(あしかがよしあき)という人物です。

義昭は前の室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の弟で、

義輝が暗殺されたのち幽閉されていたのを救出され、

自分に力を貸してくれる大名を求めて、従者とともに各地を流浪していたのです。


信長はこれを好機ととらえ、義昭を伴っての上洛(じょうらく)を決意します。

上洛とは京都へと軍を進めることで、天下を取るための一つの手段とされます。

桶狭間で敗れた今川義元も、尾張への侵攻は上洛のためだった、とする説もあります。


信長はすぐさま兵を京都へ向けて出発させます。

途中、これに抵抗する六角(ろっかく)氏や三好(みよし)氏の勢力を退け

上洛は無事に成功、義昭は室町幕府将軍となりました。

これにより、信長が中央政治の実権を握ったことになります。


一方、最初のうちこそ信長を大いに頼りにしていた義昭でしたが、

次第に信長が自分をないがしろにして好き勝手に動こうとしていると感じた彼は、思わぬ行動に出ます。

義昭は、各地で信長に反感を持つ大名に自分への協力を呼びかけ、

信長の勢いを削ごうと画策したのです。


この呼びかけに上洛に抵抗した三好家や越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)家、

さらには甲斐の武田家などが応えたほか、

後には各地で頻発した一向一揆(いっこういっき)を率いる摂津(せっつ)の石山本願寺や

織田家と姻戚関係を結んでいた近江(おうみ)の浅井(あざい)家までもがこの作戦に加わり、

信長は一気に窮地に陥ることになります。 これが世に言う「信長包囲網」です。


果たして、信長はこの窮地をどのように切り抜けていったのでしょうか。

それは次回のお楽しみということで。


次回  7章 室町幕府の最期 を読む

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