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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】室町幕府の最期~『なるはや』戦国・7章~

『なるはや』で戦国時代を知る特集、ようやく7章まできました。

今回、ついに内紛に揺れ続けた室町幕府の歴史に終止符が打たれます。

そこに至るまでの過程を書いてみたいと思います。


室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)は、

自身をないがしろにする織田信長の行動に危機感を覚え、各地の大名と連絡をとりながら

信長を封じこめるべく巧みな外交戦略を繰り広げます。

これによって四方を敵に囲まれた信長は、義昭に水面下で圧力をかける(※1)一方、
※1:義昭に対して「自分に黙って勝手なことをするな」という通知を出したといわれる

敵となった大名家などを各個撃破するために行動を始めます。


1570年、同盟を結んでいる三河の徳川軍とともに

近江の浅井(あざい)・越前の朝倉(あさくら)連合軍と戦い、勝利します(姉川の戦い)。

浅井家には当主の浅井長政(あざいながまさ)に信長の妹・市(いち)が嫁いでいましたが、

信長が越前の朝倉家を攻めた際に、昔から親交の深かった朝倉家に味方することになったといいます。


翌年には、戦に敗れた浅井・朝倉軍の兵士をかくまったという理由(諸説あり)で

当時「宗教界の権威」とされていた比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き討ちします。

一部の家臣は猛反対したものの、信長の軍勢は容赦なく寺に火を放ち、

山にこもっていた僧侶や女性、子どもまで無差別に殺害していったと伝わっています。

現代には「仏をも恐れぬ信長」というイメージが定着している感がありますが、

こうした出来事がその原点となっているようです。


各地で激戦を繰り広げる信長に、最大の危機が訪れます。

1572年、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)が大軍を率い、織田領を目指して軍事行動を開始したのです。

武田軍の本隊は徳川家の領地を進軍、迎撃に出た徳川家康の軍勢を

三方ヶ原(みかたがはら)で撃破し、織田家の喉元・尾張にまで迫ってきます。


信長の快進撃もここまでか、と思われたところで、運命は信長に味方します。

武田信玄が陣中で病死し、武田軍は本国の甲斐へと引き返していったのです。

命拾いした信長に対し、青ざめたのは足利義昭です。

信長打倒の切り札・武田軍を失った義昭は、最後のあがきとばかりに

ついに自らが兵を起こしますが、織田軍にかなうはずもなく降伏。

義昭は捕らえられ、信長によって京都を追放されてしまいます。

時に1573年、この年が事実上の室町幕府滅亡となります。(※2)
※2:「征夷大将軍」の地位は剥奪されなかったことや
   中国地方の毛利氏にかくまわれて反信長の活動を続けたことから
   「この時点で室町幕府は滅亡していない」とする見解もある



これにより、信長が天下に号令する資格を得たと考えることができます。

信長はさらに天下統一への歩みを加速していきますが、落とし穴が待っていました。

そう、1582年に起きたあの「事件」です。詳しくは次回で。


次回  8章 天下布武の結末 を読む

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