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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】天下布武の結末~『なるはや』戦国・8章~

さて、戦国時代もかなり時代が下ってきました。

前回、織田信長が室町幕府将軍・足利義昭を京都から追放し

室町幕府の機能を事実上崩壊させたところまでお話ししました。

今回は、信長のその後の歩みを駆け足で見ていきます。


幕府を事実上滅亡させ、実質的な「天下人」となった信長は

その歩みをさらに加速させていきます。

まずは1573年、長らく抗争を続けていた越前の朝倉氏、

続いて近江の浅井氏を相次いで攻め、滅亡に追い込みます。


1574年には、敵対していた石山本願寺につながる

伊勢(いせ、現在の三重県)長島を根拠地とする一向一揆(いっこういっき)の勢力と対峙し、

多大な犠牲を払いながらもこれをせん滅します。


それとほぼ同じ時期、信玄の跡を継いだ甲斐の武田勝頼(たけだかつより)が

徳川領の三河・長篠(ながしの)城へ侵攻し、織田軍は救援に向かいます。

長篠城にほど近い設楽が原(したらがはら)で武田軍と対峙した織田・徳川連合軍は、

三千挺(異説あり※)の鉄砲を用いた戦術でこれを撃退しました。(長篠の戦い)
※鉄砲の撃ち手を3交代制にした、いわゆる「三段撃ち」戦法が長らく語られてきたが
  最近ではこれを否定する論調のほうが有力になっている



一方、朝倉氏を破った後の北陸地方にも兵を進めた信長ですが

加賀(かが、現在の石川県)の一向一揆や越後の上杉謙信からの攻撃により、

この方面では足止めを余儀なくされます。


それでも、一向一揆を指揮した本願寺の法主・顕如(けんにょ)と徹底抗戦の末

1580年にようやく降伏させ、一向一揆の脅威からも解放された信長は

1582年に武田領の信濃・甲斐へと侵攻、武田家を滅亡へと追い込みました。


こうして、本来ならば尾張の守護代の家臣として生きるはずだった織田信長は

戦国乱世の荒波を巧みに乗りこなし、幾多の困難を乗り越えて

一代で近畿のほぼ全域と中国地方東部、さらに甲信地域まで支配領域を広げたのです。

信長による新しい世の到来は、目前に迫っていました。


ところが、時代は思わぬ方向へと動き出します。

1582年6月2日、中国地方に向かったはずの重臣・明智光秀(あけちみつひで)

突如として謀反を宣言し、軍勢を率いて京都へと進軍。

信長が泊まっていた本能寺を襲撃し、信長を自害させたのです。

「本能寺の変(ほんのうじのへん)」の勃発です。


なぜ光秀は信長を襲ったのか。

戦国時代、ひいては日本の歴史における最大の謎の一つです。

現在まで様々な説が飛び交ってきましたが、結論は出ていません。

確かなのは、この事件によって運命が開けた人物が2人いた、ということです。

織田家の重臣に出世していた羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)と、

長らく織田家の同盟相手となっていた徳川家康(とくがわいえやす)です。

この後は、この2人が中心となって戦国の世は収束へと向かっていきます。


この特集も残り2章です。どうか最後までお付き合いください。


次回  9章 秀吉の天下統一 を読む

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