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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】長篠の戦い
こんばんは。

今日は戦国ネタいきます。
※初めての方は、記事を読む前にこちらをご覧ください。


1575年の5月21日、

「長篠(ながしの)の戦い」が行われました。

主戦場となった「設楽ヶ原(したらがはら)」の名がつくこともあります。


一昨日の記事で紹介した「桶狭間の戦い」から15年後、

尾張から現在の近畿地方一帯をほぼ支配下におさめた織田信長と、

その同盟者である三河の徳川家康の連合軍が、

甲斐(かい、現在の山梨県)・信濃(しなの、現在の長野県)などを支配する

武田勝頼(たけだかつより、武田信玄の四男)の軍勢と対決しました。


この戦の発端は、武田軍が徳川家の三河・長篠城を包囲したことでした。

家康は信長に援護を求め、信長が軍勢を送ったことで

織田・徳川連合軍と武田軍の対決が発生することになりました。

実はこの3年前にも、武田軍は信玄が生きていた頃に

徳川軍(織田家の援軍含む)と戦っており、この時は武田軍が勝利しています。

そのまま行けば信長とも戦っていたかもしれませんが、

その直後に信玄が病死し、武田軍は本拠地の甲斐へ引き上げたのでした。


さて、総勢3万の織田軍は徳川軍8千と合流し、設楽ヶ原に布陣しました。

そこに土塁や柵を築き、およそ1万5千の武田軍を迎え撃つ準備を整えました。

(軍勢の規模については諸説あります)

それを知った武田勝頼も、決戦を挑むべく主力を設楽ヶ原に差し向けます。

そして、戦いが始まりました。


武田軍は、歴戦の将たちが率いる騎馬軍団が先陣を切り、

織田・徳川連合軍の陣地へと攻めかかります。

しかし、土塁・柵の存在や織田方の鉄砲隊による

いわゆる「三段撃ち(※)」の攻撃に遭って

陣地を突破することができず、被害が増えていきます。

結局、武田軍は多くの武将と兵(一説には1万以上)をこの戦で失い、

勝頼はわずかな将兵とともに甲斐へ引き上げていきました。

織田・徳川連合軍の完勝といえる結果でした。

※火縄銃の弾こめ、着火、構え→発射の三段階を一組とし、
 火縄銃の発射にかかるタイムロスを極力少なくするために考案されたとする戦法。


この戦いにおいても、両軍の兵力やその構成(特に武田の騎馬隊と織田の鉄砲隊の数)、

「三段撃ち」は後世の創作ではないのか、など多くの論点があります。

これらの点について詳しい主張や議論はいろんな本やホームページでされていますし、

私の知識や考察も不十分なのでここで触れることはしませんが、

信長にとってはここで武田軍に大きな打撃を与えたことは

天下統一に向けて弾みをつける出来事であったと思っています。

また、これもよく言われることですが

信長が鉄砲の威力と効用を最大限に引き出した戦い、という見方もできます。

「発射に時間がかかる」という弱点を補うために

「防御陣地の構築」や「タイムロスの短縮」という合理的な工夫をしたというのは、

(たとえ後世の作り話だったとしても)

現代で仕事をする上でも応用できるのではないかと感じるところです。


…よく分からない結びになってしまいましたが、

今日の記事は以上です。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。




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