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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】続・いろいろ惜しい。
こんばんは。

今日の記事は、昨日の続きです。

先日放送された「歴史秘話ヒストリア」での

武田勝頼(たけだかつより)の描かれ方について、

戦国時代好きの目線から、いろいろツッコミを入れていきます。

「知らんがな!」と思われる方も多いでしょうが、何卒お許しを。

※前編はこちらから。

 後編は「続きを読む」からどうぞ。


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『勝頼の尽力で、信玄の代から争いが絶えなかった武田と北条が同盟を結んだ』

これも、戦国時代に詳しい人なら「え?」となるところでしょう。

番組の説明は、私には「信玄の時代は、武田と北条は常に敵同士だった」という意味に聞こえましたが、

実際は、信玄も北条家と同盟を結んでいた時期があります。


信玄の時代には、甲斐の武田家と関東の北条家、

そして駿河の今川家を含めた「三国同盟」を結んでいたのです。

この同盟があったおかげで、信玄は信濃攻略をスムーズに進められましたし、

越後の上杉謙信との戦いでも、北条家と利害が一致していた点は見逃せません。

(関東管領の職を継承した謙信は、関東の北条領にもたびたび侵攻していた)


しかし、信玄の晩年にはこの同盟が崩壊し、武田と北条が戦ったのも事実です。

そのきっかけは「桶狭間の戦い」で今川家の当主・義元が戦死したことでした。

当主を失い急速に弱体化した今川家に対し、信玄は三河の徳川家康と共謀して今川領へ侵攻します。

今川家は滅亡に追い込まれ、これを北条家が非難したため、両家の関係は決裂したのです。

ついでに言うと、信玄の長男・義信の妻は今川義元の娘でした。

『妻の実家を攻撃する』という父の方針に反発して、義信は謀反を企てたとも言われています。


勝頼の勇気ある行動によって両家の関係が修復されたのは確かですが、

「信玄と北条家は常に戦っていた」というのは少し言い過ぎではないか、と思ったのでした。


『北条家が武田家との同盟を一方的に破棄』


その同盟が破棄されたきっかけについても、もの申します。

「北条家が一方的に同盟を破棄」したのは確かにそうですが、

これは北条家だけに問題があったわけではなく、勝頼の側にも非がありました。


以前このブログの「真田丸」第1回のレビュー(こちら)でも書いたのですが、

勝頼と北条の関係がこじれたのは上杉家の御家騒動、

いわゆる「御館(おたて)の乱」が発端でした。

上杉家の当主・謙信には実の子がおらず、

跡継ぎ候補として養子・景虎が北条家から送り込まれていました。

上杉謙信の死後、景虎が上杉家を継げるように

北条家は同盟相手であった勝頼にも協力を要請していました。


にもかかわらず、勝頼は別の養子・景勝を支持。

結局、跡継ぎ争いは景勝が勝利し、景虎は自害に追い込まれます。

景虎の兄であった北条家当主・氏政は、要請を無視した勝頼を敵視し、

ついには武田家との同盟を破棄するに至ったのです。


勝頼が北条家からの要請を蹴って景勝を支持した理由は分かりませんが、

(景勝陣営から金銭等の提供があったとも言われています)

これでは北条家から恨まれても仕方ないのではないでしょうか。

番組の演出として勝頼を悲運の武将として描きたかったのは分かりますが、

勝頼の決断によって血縁者を失った北条家の立場も考慮してほしいところです。


『信玄の死を知った織田信長が攻め込んできて、勝頼は大敗した』


これも大筋では事実通りの内容といえますが、あえてツッコミます。

番組では、信長がいきなり武田領に侵攻したかのように説明されていましたので。

より詳しい流れは、以下の通りです。

①三方ヶ原の戦いの直後、武田信玄が病死。武田軍は三河から撤退

②信玄の死を知った家康が、武田軍に奪われた遠江・三河の城を奪回する

③甲斐で態勢を整えた勝頼は、1万5千(※)の兵で遠江・三河に侵攻
 (※)兵数には諸説あり、以下同じ

④勝頼は信玄でも落とせなかった徳川家の高天神城を陥落させ、長篠城を包囲する

⑤自前の兵力8千では勝てないと考えた家康は、織田信長に援軍を要請

⑥家康の要請に応え、織田軍3万が徳川軍に合流

⑦武田家重臣の多くは撤退を進言したが、勝頼は決戦を指示
 (徳川の別動隊により退路を塞がれていたため、ともいわれる)

⑧織田軍による鉄砲斉射の前に、武田軍は壊滅的被害を出し敗走(長篠合戦)



要するに、初めから織田信長が武田領攻撃を指示したわけではなく、

武田と徳川の小競り合いに信長が介入した結果起こったのが長篠合戦、ということです。

この時「信玄でも落とせなかった城を勝頼が落とした」という話は

勝頼が決して無能な武将ではなかった、という証拠として語られています。

その流れで、最後のツッコミ。


『国を滅ぼした大将として後世に汚名を残す』


事実、武田勝頼への後世の評価は厳しいものが多いです。

当時の武田家に仕えた武将が伝え残した(諸説あり)といわれる

「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」という第一級の史料でも、

勝頼は「国を滅ぼした無謀な大将」と酷評されています。

こうした風聞が後世まで語り継がれ、現代における勝頼の評価につながっています。

もちろん、勝頼の軍事面での功績を高く評価する研究者やファンも多いですが。


しかし、「『国を滅ぼした大将』が本当に愚か者だったのか」と聞かれれば、

多くの場合はそれだけでは説明できない事情というものがあります。

勝頼は織田や北条を敵に回し、家臣の裏切りも続発させてしまったという点で

外交や人事で大きな失点があったというのは覆しようがありませんが、

それも勝頼自身の失策の他に、信玄が存命だった頃の武田家の在り様、

特に「長男が謀反を起こしたため、勝頼が家を継がざるを得なくなった」という事情が

大きく影を落としていた、と考えることはできないでしょうか。

前回も書いた通り、勝頼が諏訪家の主として武田本家の主君を助け、

武田軍の中核を担って活躍するという可能性も、なくはなかったのです。


武将個人への評価というのは、その人物の素質や生き方そのものと

必ずしもイコールではない
ということを、歴史好きとして常に考えていたいと思っています。


繰り返しになりますが、これは番組への批判や注文ではなく、

あくまで戦国時代が好きな一個人の感想にすぎません。

「歴史秘話ヒストリア」は、あまり知られていない事件や人物を

分かりやすく説明している、よくできた番組だと思っています。


ただ、時間にしてわずか40分ほどの番組を視聴しただけで

その事件や人物の全てを学べる、ということは決してありません。

調べれば調べるほど、新しい事実や発見に出くわすのが歴史というものです。

この番組をきっかけとして、歴史に興味を持ってより詳しく知りたいと思う人が

一人でも多く出てくることを期待して、今回の結びとします。


長文を最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。


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