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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【真田丸】第8話視聴。
今日は⑨の日!
「8話だョ!」

幽谷さん

電(いなづま)なのです

これ、誰だ?

「「「全員集合~!!」」」


大河ドラマ「真田丸」のレビューをする月曜日が

今週は2月29日、つまり『⑨の日』にあたることに昨日気づき、

前回(19日)もお休みした手前、2回続けて穴をあける訳にもいかず、

無理やり『⑨の日』感を出そうとした結果がこれだよ!


読者様、歴史ファンの皆様、そして「真田丸」関係者の皆様、大変申し訳ございませんでした。


・・・ちくしょう、うるう年めぇ。


気を取り直して、第8話「調略」のあらすじ、行ってみよー!(←反省してない)


・上野で滝川一益の軍を破り、そのまま信濃へ進出を図る北条軍。

 時を同じくして、徳川家康も甲斐・信濃の情勢を伺っていた。

 そんな中、父の昌幸から上杉家臣・春日信達の調略を命じられた真田信繁(幸村)は

 信達がいる信濃・海津城に潜入した叔父・信尹のもとへ行き、調略の手筈を整える。

 海津城では信尹の子・信春を名乗り信達に接近する信繁だったが、

 理に頼った説得を試みて、かえって信達の心をかたくなにしてしまう。


・信達の調略が進まない中、北条軍は国衆を次々と従属させ、悠々と信濃を進んでいた。

 昌幸は業を煮やし、北条軍の大将・北条氏直に会いに小諸城へ赴く。

 氏直は昌幸が遅参したことに怒り、話を聞こうともしなかったが

 昌幸と懇意にしている国衆・出浦昌相の説得に加え、

 陣中見舞いに訪れた氏直の父・氏政のとりなしによって事無きを得る。

 そこで昌幸は信達を調略している旨を氏政に話し、勝利の見返りとして

 『海津城を信達に与える』という内容の書状をもらう約束をとりつける。


・一方その頃、海津城に陣を構えていた上杉景勝は

 昌幸が北条方についたという知らせに憤慨し、信尹を問い詰める。

 信尹は「兄とは袂を分かつ覚悟」と言い切り、景勝の怒りを鎮めながら、

 信達調略の最終段階に入ろうとしていた。

 北条につけば海津城が与えられると伝え、父の代から海津城を治めてきた

 旧武田家臣としての信達の『プライド』を刺激する信尹と信繁。

 これにはついに信達の心が動き、調略は成功したかに見えた。


・川中島に布陣し、上杉軍と対峙する北条軍。その中には昌幸の姿もあった。

 海津城で挙兵する手筈の信達と、上杉軍を挟み撃ちにする作戦である。

 ところが、上杉の陣を見張っていた北条軍の兵が、まさかの光景を目にする。

 信達とみられる人物が、磔(はりつけ)にされていたのだ。騒然となる北条陣営。

 「調略は失敗、このまま攻めるしかない」平然と述べる昌幸に対し、

 『徳川軍が甲斐に侵入した』という知らせを聞いていた氏直は

 半ば投げやり的に昌幸に殿(しんがり)を押し付け、甲斐へ向かう支度を始める。

 陣中に残った昌幸と昌相が「計画通り」とほくそ笑んでいたのを知らずに・・・。

 北条軍の転進を受け、上杉軍も兵を退き、本国・越後の反乱鎮圧へと向かったのだった。

 北条と徳川が甲斐を争い、上杉も越後に去った今、信濃は権力の空白地帯となった。

 これこそが「信濃を国衆のみで治める」昌幸の真の狙いだったのである。


・矢沢三十郎とともに海津城を出て、真田の郷へ向かう信繁の表情は暗かった。

 信繁の頭の中を、昨夜の出来事が駆け巡る。

 北条家からの書状を見せた次の瞬間、信尹が信達を短刀で一突きにしたこと。

 それを信尹が「裏切り者の信達が、口封じのために襲ってきた」と説明したこと。

 ようやく心を許した信達を、何のためらいもなく始末してしまった父と叔父。

 そして「私のようにはなるな」という、尊敬してきた叔父からの一言…。

 「俺は、あの人たちが恐ろしい」今の信繁には、そうこぼすのが精一杯なのだった。



いやー、予想はしていましたが、やはり『重い』回になりました。

戦国時代には、華々しい合戦の裏で、こうした命のやり取りが繰り広げられていたんですね。

他人の心の弱い部分をくすぐり、時には手荒な方法で自分の思い通りに動かしてしまう。

こういう部分も、戦国時代を生き抜くために必要な「才能」だったのかもしれません。

今回の一件も、信繁自身が成長していくための糧となっていくのでしょうか・・・?


あとは、細かい部分になりますが

「うろたえながら爪を噛みまくる家康」

「自分の汁かけ飯の食べ方を正当化する氏政(※)」

など、戦国武将好きが食いつきそうな仕掛けもありました。

(※)氏政がご飯に汁を数回に分けてかけていたのを見た父・北条氏康が
   「毎日食べる飯と汁の加減も測れなくてどうする」と叱ったという。
   もっとも、事実だという証拠はありませんが・・・。


追記では、今回の話に関連した武将について掘り下げます。



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第8話で物語のキーマンとなった上杉家臣・春日信達(かすがのぶたつ)

その略歴や生き方は、ドラマの中でも語られていましたが

戦国時代の中では、彼自身は決して有名な存在ではありません。

しかし、彼の父親の名前を聞いて「あぁ」と思った方もいるでしょうか。

そこで今回の追記は、その『父親』の物語です。(「ヒス○リア」風に言ってみたかった)


春日信達の父親は、春日虎綱(かすがとらつな)という武将です。

一般には「高坂昌信(こうさかまさのぶ)」の名で知られています。

春日家は、もともと武士の家系ではありませんでした。

甲斐で百姓をする春日家に生まれた虎綱、幼名・源助は、

甲斐を治める大名・武田信玄の目にとまり、近習として召し出されます。

彼の働きは優れていたようで、秘書的な業務から夜のお世話(内容はお察しください)まで

かいがいしくこなし、信玄の信頼を得るようになります。


信玄のもとで成長した源助は、元服して「春日源五郎虎綱」と名乗り

部隊を率いる侍大将として各地の合戦に参加します。

武田軍には勇猛さで知られる武将が数多く所属していましたが

虎綱は常に冷静な判断を忘れず、堅実な采配を心掛けました。

彼の当時のあだ名に「逃げ弾正(だんじょう)」というものがありますが、

ここで言う「逃げ」は悪い意味ではなく「引き際をわきまえている」

あるいは「殿(しんがり、撤退する軍の最後方)を任せるに足る」という褒め言葉です。


実際、彼の采配ぶりは信玄も高く評価していたようで、

越後の上杉謙信への備えとして築かれた海津城に虎綱を置き、

川中島の合戦においても武田軍の最前線として重要な役割を果たしています。


こうした数々の働きによって、虎綱は百姓出身としては異例の出世を果たし、

山県昌景(やまがたまさかげ)・馬場信春(ばばのぶはる)・内藤昌豊(ないとうまさとよ)とともに

「武田四名臣」の一人と呼ばれ、武田家の要となっていったのです。

この頃、虎綱は「高坂(または香坂)」姓を名乗ったとされていますが、

後にもとの「春日」姓に戻したといいます。息子の信達もそれにならったようです。


1573年、虎綱にとって主君であり恩人でもあった信玄が亡くなると、虎綱の境遇も一変します。

信玄の跡を継いだ武田勝頼は、虎綱とは「そり」が合わなかったようで

虎綱は武田家の中心から次第に遠ざけられていくようになります。

1575年、勝頼は1万5千の軍勢で三河の長篠城を攻めましたが、

この作戦にも虎綱は帯同せず、海津城で留守番をさせられていました。


その後、武田軍は設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に大敗を喫し、多くの将兵が討ち死にします。

虎綱とともに「四名臣」と呼ばれた山県・馬場・内藤の3名も、この地で最期を遂げました。

味方の敗戦を聞いた虎綱は、命からがら戦場から落ち延びた勝頼を信濃の国境まで出迎え、

ぼろぼろになった勝頼の衣服や兵たちの武器を新品同様のものに取り換えて、

領民に敗戦のみじめさを感じさせないように配慮したといわれています。


虎綱の冷静な判断力は、戦だけでなくこういう部分にも発揮されていたのですね。


しかし、多くの頼れる武将を失った武田家は、信玄の頃の輝きを取り戻すことはできませんでした。

長篠・設楽ヶ原の敗戦から3年後の1578年、虎綱は海津城で亡くなりました。享年52。

その4年後に武田勝頼は織田軍に敗れて自害し、戦国大名・武田家は滅亡しました。


ドラマの中で、虎綱の息子である春日信達がこう言っていました。

「信玄公が亡くなった時、我らも死んだのだ。」

武田家の人々にとってあまりに偉大な存在だった信玄と、その側近として存分に力を発揮した虎綱。

彼らが戦国時代に遺した威光は、乱世に翻弄される信達には眩しすぎるものだったのかもしれません。


それでは最後にもう一つ、虎綱が後世に託した書物に関する逸話をどうぞ。(まんま「ヒ○トリア」やん)


戦国時代の武田家を中心とした当時の記録とされる史料、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』。

一昔前まで、この本の作者は春日虎綱自身であるとされてきました。

長篠の戦いの後もやはり武田勝頼から遠ざけられていた虎綱が、

自身の体験や記憶をもとに、武田家の将来を案じて残した書物がその基礎となっています。

虎綱の死後、その一族や旧武田家臣の手によって補足や修正が加えられ、

江戸時代に完成して世に広まったのが、現在の『甲陽軍鑑』なのです。

虎綱の別名である「高坂昌信」という名前も、

『甲陽軍鑑』に使われたことで有名になったとされています。


虎綱の跡を継いだ息子の信達は、武田家滅亡後は織田、そして上杉に仕えますが

信濃へ侵攻した北条軍への寝返りを察知され、上杉景勝に処断されてしまいます。

(真田信尹に刺されたというのは、ドラマ上の演出です)

こうして虎綱の一族は歴史の表舞台から姿を消しましたが、

武田家を盛り立てた忠臣「高坂昌信」の名は、虎綱が遺した『甲陽軍鑑』とともに

これからも語り継がれていくことでしょう・・・。



長らくお読みいただき、本当にありがとうございました。

次回の「真田丸」も、どうぞお楽しみに。


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