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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】まこな。的戦国武将9選(後編)

こんばんは。

今日は昨日の続きで、私が好きな戦国武将の紹介、その後編です。

※前編はこちら → リンク

今回は知名度も後世の評価も高くない人物が中心となっていますので、

多くの方にとっては「知らんがな!」な内容かもしれませんが、ご容赦ください。


では、心の準備ができたら「続きを読む」からどうぞ。


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※本記事に登場する画面の出典は、プレイステーション3
 「信長の野望・創造 with パワーアップキット」(コーエーテクモゲームス)です。


5人目:朝倉 義景(あさくら よしかげ)

朝倉義景

戦国時代の越前(福井県)を治めた大名・朝倉家の最後の当主です。

朝倉氏は、もとは越前守護の斯波(しば)氏に仕えた守護代でしたが

応仁・文明の乱をきっかけに越前支配の実権を奪い、戦国大名化しました。

義景は、初代から数えて5代目の当主になります。


さて、この義景はとにかく後世の評価がよくありません。

同じ時代に生きた織田信長や武田信玄などが名将と称えられるのに対し

義景には「凡将」や「愚将」といった悪い評価が目立ちます。

その要因の一つが「大事な時に動かなかった」というミスを繰り返したことです。


室町幕府将軍・足利義輝が松永久秀に討たれた後、

義輝の弟で次期将軍候補の足利義秋(のち義昭)が義景を頼ってきました。

この頃の朝倉家は幕府との関係が強く、義秋も期待を寄せていたのです。

ここで義秋を奉じて上洛すれば、朝倉家が勢力を伸ばす好機となったのですが

義景は義秋を厚くもてなすだけで、上洛しようとはしませんでした。


これに失望した義秋は、越前を離れ織田信長のもとへ赴きます。

信長はすぐに上洛を果たし、幕府の実権を握ったのはご存知の通りです。

しかも、信長が全国の大名に上洛を呼びかけた際にも、義景は動きませんでした。

よほど権力に興味が無かったのか、それとも単に信長が嫌いだったのか。

それからわずか3年後、朝倉家は信長に滅ぼされ、義景もその生涯を閉じました。


『義景には戦国大名としての器量が無かった』といえばそれまでですが

英雄が活躍する陰には多くの人物の犠牲や無念があるわけで、

義景のような人物もいるから、歴史というのは面白いのだと思います。

現代では、ゲームの中で史実を覆すという楽しみ方もあるわけですし。

「有能で有名」な人物だけでは語れない、歴史の側面も興味深いものです。


続けて、同じような要素を感じた武将を3人ほど紹介。


その6:上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)

上杉憲政

前回紹介した、長野業正(ながのなりまさ)の主君だった人物です。

上杉氏は室町幕府における要職・関東管領(かんとうかんれい)を務めた名家ですが

戦国時代には北条早雲に始まる北条氏の勢力拡大に圧迫され、苦境に立たされます。

それに耐えかねた憲政は、越後の大名・長尾景虎(ながおかげとら)に助けを求め・・・

というより、城もプライドも捨てて景虎に泣きついたというのが実際のところですが。


とはいえ、この憲政の行動により由緒ある「上杉」の姓と「関東管領」の肩書を得た景虎は

「毘沙門天の化身・上杉謙信」へと華麗なるクラスチェンジ(?)を果たすわけです。

彼の行動がなければ、謙信の人間離れした活躍も見られなかった、ともいえるかもしれません。

ちなみに、彼の最期は「謙信死後の跡継ぎ争いに巻き込まれて落命」というものでした・・・。


その7:長尾 晴景(ながお はるかげ)

長尾晴景

上杉謙信つながりで、もう一人「残念な人」を紹介。

長尾晴景は越後の大名・長尾為景(ながおためかげ)の長男で、謙信の兄です。

父・為景の死後、長尾家を継ぐことになった晴景ですが

生まれつき病弱で、トップとしての決断力・行動力にも欠けていたという彼は

強烈なリーダーシップを発揮した父のように越後を治めることはできず、

当時は寺に預けられていた弟・景虎の力を借りてどうにか越後を統治します。


しかし、優れた武将に成長した景虎を長尾家の主に推す声は日に日に高まり、

晴景はやむなく当主の座を退き、景虎に長尾家の行く末を託すことになりました。

その後の景虎改め上杉謙信の活躍ぶりと比べると、どうしても晴景の「残念ぶり」が際立ちますが

逆にいえば、晴景が活躍していたら謙信の出る幕は無かったということにもなるので

有能かどうかはともかく、興味深い人物だと思っています。


その8:林 秀貞(はやし ひでさだ)

林秀貞(通勝)


織田信長に古くから仕えた彼も、ある意味「残念な人」です。

①「うつけの信長」に愛想をつかした件

秀貞は、信長が元服するまでの世話係を命じられていましたが

ご存知のとおり「うつけ」と呼ばれた信長の数々の奇行に手を焼き、

「これが織田家の当主になってはダメだ」と考えてしまいます。

その後、同じ考えに至った重臣の柴田勝家らと共謀して

信長の弟・織田信勝を当主にするべく信長に反抗しますが、あえなく敗北。

信長に許され、その後も織田家に仕えることになりますが・・・。


②20年前の話を理由に追放された件

秀貞は合戦よりも政治面で織田家を支えた武将だったといいます。

派手な活躍はありませんが、彼の名前は当時の資料の随所に見ることができます。

しかし、信長による天下統一事業が進む中、彼の身にまさかの悲劇が。

信長は、優秀な人材はその身分にかかわらず重用しましたが

逆に働きの良くない武将には厳しく、重臣であってもいきなり追放することもありました。

そして、秀貞自身も突然に追放の憂き目に遭ってしまいます。

理由は「昔、自分に刃向かったから」、つまり20年も前の①の話を蒸し返されたのです。

その他「組織の若返り」なども理由のようですが、秀貞にとってはまさかのリストラでした。


③長年、名前を間違えられていた件

そんな秀貞は、少し前まで名前をよく間違えられていました。

ゲームなどでは、彼を「林通勝(みちかつ)」と表記することが多かったのです。

最近の研究で、これは同時代の別人が名乗った名前であることが分かっています。

戦国武将の名前が間違って伝わるケースは彼に限った話ではないのですが、

全く関係のない別人と間違えられるというのは、少し気の毒な感じもします。


その9:尼子 晴久(あまご はるひさ)

尼子晴久

最後は「残念」という程ではないのですが、地元の武将ということでひとつ。

私の出身地・出雲(島根県)などを治めた戦国大名です。

中国地方ではやはり毛利元就が有名で、毛利家に敗れた尼子家は

あまり注目されることのない、マイナーな大名家と見られていると思います。

それでも最近は、尼子家臣・山中幸盛(鹿介)が注目されたりしていますが。


ゲームだと「戦闘力はそれなりでも頭は良くない」という評価が多いです。

「史実で元就の謀略に引っかかり続けた」というイメージからだと思いますが

特に大河ドラマで「毛利元就」が放送された頃に発売された作品ではそれが顕著でしたね・・・。

元就の謀略をゲームで再現するには、相手の智謀が低くないとできないので

尼子一族はそろって「智謀の低い武将の集まり」として設定されていましたから・・・。

晴久の祖父・経久(つねひさ)は、元就も恐れたほどの知略を誇った武将だったのですけど

いかんせん時代が古くてなかなかゲームに登場しないのが残念です(最近はそうでもないですが)。


前の記事にも書きましたが、地元の人物というのは歴史に興味を持つ上で良い題材になると思います。

人物ゆかりの土地や史跡にも足を運びやすいですし、情報も手に入りやすいので

有名な人物に限らず、興味を持った人物を調べてみると面白い発見があるかもしれませんよ。


すっかり長々と語ってしまいました・・・すみません。

でも、好きなことを記事にするのはやはり楽しいですね。

これからもたまに、こんな感じの記事を書きたいと思っています。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。



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