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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】本能寺の変! の後始末

こんばんは。

6月2日木曜日の「そのブログ、雑食系につき」です。

1582年の今日は、「本能寺の変」が起こった日です。

昨年のこのブログでも、それについて書きました。

こちら → 【戦国時代】本能寺の変

天下統一目前だった織田信長が、家臣の明智光秀に討たれたこの事件。

なぜ光秀が突如謀反を起こしたのか、その真相は今も闇の中です。

信長が倒れた後、天下の実権を握ったのは羽柴(のち豊臣)秀吉でした。


信長の息子たちや織田家の有力家臣を差し置いて、

なぜ秀吉が天下取りに大きく近づけたのかというと

彼が本能寺の変の後にとった3つの行動がありました。


一つ目は、謀反を起こした光秀を討伐したこと。

中国地方の毛利氏攻めにかかっていた秀吉でしたが、

光秀謀反の報を聞くやいなや、すぐに光秀討伐に動きました。

常識外れの強行軍、今の世に言う「中国大返し」です。

山崎の戦いで光秀を破ったことで、まずは他者を一歩リード。


二つ目は、「清洲会議」で織田家の主導権を握ったこと。

特に、織田家の跡取りとして当時まだ3歳だった

信長の孫・三法師(のち秀信)を推挙し、それが通ったことです。

反発も当然ありましたが、自ら光秀を破ったこともあって

うまく反対意見を丸めこむことができたのです。

これで、秀吉の意向が織田家の戦略に直に反映されることになります。


そして3つ目、これがあまり語られないのですが

信長のお葬式を執り行ったことが挙げられます。

1582年10月15日、京都の大徳寺にて

秀吉が喪主を務めて信長の葬儀が行われました。

信長の遺体は見つからなかったので、秀吉は

信長の等身大の木像を造らせて棺に納めたと言われています。

葬儀には、京都の町の人も大勢参列しました。

秀吉は、信長の葬儀を取り仕切ったことで

一般の人にも「自分が信長の後継者である」と知らしめることができたのです。


ということで、本能寺の変の後始末を完璧にこなした秀吉が

天下統一へと突き進んでいくわけですが、

秀吉自身にも「実は黒幕では?」という疑惑があるんですよね。

事件の後の手際があまりにも良すぎるし・・・。

まぁその辺は、歴史ファンそれぞれの推理と興味に任せるとして。

あと、「真田丸」には天海って出てk(プスッ) うっ! バタン


・・・・・・。


家康どの
「今日は以上じゃ。」



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