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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】今さらですが。

こんばんは。

この土日はいかがお過ごしでしたでしょうか。

私はちょっと用事があって実家に戻ってました。

さっき帰ってきて、このブログを書いています。


さて、今日お昼に放送されたNHKの「のど自慢」は

和歌山県九度山(くどやま)町からの生放送でした。

この「九度山」という地名にピンときた方は、

かなりの確率で歴史や戦国時代が好きな方だと思われます。


九度山は、現在放送中の大河ドラマ「真田丸」でその生涯が描かれる

戦国武将・真田信繁(幸村)とその父・真田昌幸が

関ヶ原の合戦(と同時期に起こった第二次上田合戦)後に流刑となった地です。

その詳しい経緯は今後のドラマでのお楽しみということにしておいて、

今日は真田信繁に関する『今さら・・・』な話をしようと思います。


このブログや「真田丸」をご覧の皆さんはとうにご存じでしょうが

真田信繁という武将は、一般には「真田幸村」の名で知られています。

戦国時代を題材にした本やゲームでも、そのほとんどで「幸村」が採用されています。

しかし、信繁本人が「幸村」と名乗ったという記録は、実は一つも残っていません。

つまり、厳密に言うと(かなり夢の無い話になりますが)

「真田幸村」という名の戦国武将は存在しなかった、ということになります。


ではなぜ、本人の知らない所で「幸村」という名前が広まってしまったのか。

これには様々な要因が考えられますが、あくまで考察の一つとして書くと

根本には「権力者(徳川幕府)への遠慮」があったのではないかと思います。


ご存じの通り、信繁は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方として大いに奮戦し

江戸幕府初代将軍・徳川家康をさんざん苦しめました。

(特に夏の陣では、家康が自害を考えるほどに追いつめたともいいます)

しかしあと一歩及ばず力尽き、豊臣家も滅亡に追い込まれました。


一方、家康を「神君」として崇拝する風潮が作られた江戸幕府の統治下では

家康に弓を引いた者は「逆賊」として厳しい評価を受けることになりました。

関ヶ原で家康に敗れ「豊臣家を崩壊させた逆臣」と酷評された石田三成がその典型です。

真田家は信繁、そしてその父の昌幸が家康に敵対していましたので

徳川家についた信繁の兄・信之(※)は相当肩身の狭い思いをしたようです。

(※)もとは「信幸」だが、幕府への臣従の意を示すため真田家代々の「幸」の字を捨てたという


庶民の間でも、家康に刃向かった者について表立って語る事はできなかったようですが

信繁が大坂で見せた活躍ぶりは、水面下で人づてに語り継がれていきます。

やがて、一般向けに発行された『難波戦記』という軍記物(今で言う時代小説?)の中で

信繁をモチーフにした「真田幸村」という人物が登場し、大坂の陣での活躍が描かれます。

正確には「信繁」という本名を使うのがはばかられたための仮名、といえるかもしれません。

この設定が後世の書物や伝聞にも受け継がれ、現在に至ったと考えられます。


ちなみに、なぜ「幸村」という名前になったのか、にも諸説ありますが

よく言われるのが「真田家代々の『幸』」+「妖刀『村正』の『村』」という説です。

『村正』は、家康の父親が家臣に斬られた際に使われるなど

家康や徳川家にとっては何かと因縁のある名刀で、

信繁が「反徳川」の立場を貫いたことの象徴として

軍記の作者が『村』の字を名前に用いた、という見方もできます。


いずれにせよ、「幸村」の名で一躍有名になった信繁が

400年余り経った現在でも人気を保っているのは

ここまで語り継いできた多くの人々の存在があってこそだと思います。

裏を返せば、将来の世代にまで語り継いでいけるかどうかは

今の私たち(特に歴史が好きな人、歴史研究に関わる人など)次第なので

私も及ばずながら、このブログやツイッターなどを使って

その一助ができればいいな、と考えています(ちょっと大げさ?)。


というわけで、今日はここまで。

これから「真田丸」を見ます。明日のレビューもお楽しみに。



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