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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【真田丸】舞台裏の大名たち。②


こんばんは。

今日は昨日に引き続き、大河ドラマ「真田丸」に描かれなかった

有力大名たちが秀吉に臣従する過程を書いてみたいと思います。

これらの大名や武将は、今後の展開次第で名前が出てくる可能性もありますので

ドラマを見る際の豆知識として見て頂ければ幸いです。


では、いきます。

中国・四国を平定した秀吉は、九州にも征伐軍を送る準備を進めます。

戦国時代の九州では、大友・島津・龍造寺の3大名家が勢力を伸ばしていましたが

この頃には島津家が他の2家を圧倒し、豊臣家にも挑戦的な態度をとっていました。

追い詰められた大友家が秀吉に援助を求め、九州征伐が幕を開けます。


1586年、豊臣軍の先鋒隊と島津軍は豊後・戸次(へつぎ)川で激突します。

平定されたばかりの四国から駆り出された兵が中心で、士気のあがらない豊臣軍に対し

戦意十分で地の利もある島津軍は有利に戦を進め、この先鋒隊を打ち破りました。


しかし、すでに日本の大半を支配下に置いている秀吉は、全くあわてません。

明けて1587年、秀吉は主力部隊などおよそ20万の大軍を編成し、進軍を開始。

4月に入り、九州各地で戦闘が開始されると、さすがの島津軍もみるみるうちに劣勢に。

わずか1ヶ月ほどで、本拠地の薩摩(鹿児島県)まで押し返されてしまいました。

そして、島津家当主(※)・島津義久(よしひさ)が秀吉に降伏。九州征伐は終わりました。

(※)降伏時、義久は弟の義弘(よしひろ)に当主の座を譲っていたとする説もある


こうして見ると、わずか2年あまりの間に中国・四国・九州を平定した秀吉。

豊臣家の圧倒的な力に対抗できる大名は西日本にもいなかった、ということですね。

3か月間の徹底抗戦の末に滅んだ北条家も、かなり粘ったといえるのではないでしょうか。

ちなみに、島津や長宗我部が対秀吉戦でおおいに兵力を消耗したのに対し、

上杉や毛利はほとんど秀吉と戦わずに臣従したので、余力はそれなりにあります。

これが後の関ヶ原の戦いにも関係してくるのですが・・・それはまた別の機会に。


では、ドラマもブログも次回もお楽しみに~。



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