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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】山崎の戦い(後編)
※このブログの戦国ネタが初めての方は、まずこちらをご覧ください。

頑張れ、なでしこジャパン!(あいさつ)

カメルーンとの試合を見ながら更新してます。
早速先制点が入って、幸先いいですね。
日本がんばれ~


さて。今日の記事は、昨日の続きとなります。

本能寺の変の後、明智光秀羽柴秀吉の行動を追って

その両者が激突する「山崎の戦い」までのドキュメント、その後編です。

前編はこちらから。

――――――


「お気を確かになされませ。今こそ、天下を取る好機ですぞ。」


軍師・黒田官兵衛のこの言葉で我に返った秀吉は、

誰よりも先に光秀を倒すべく、早速行動を開始します。

まず、包囲中の高松城を救援するために来ていた毛利軍に対し、

高松城主の切腹などを条件に停戦を申し入れます。

京へと引き返す際、毛利軍に背後を襲われては困るからです。

(ちなみに毛利側は、この時点では信長の死を知らなかったようです)


この時、高松城は秀吉による水攻め(※)に苦しめられていて、

毛利軍全体としても織田軍に対して劣勢だったことから、この提案を受け入れます。 
  ※水攻め:城の周囲に堤防を築き、水をせき止めて城を浸水させるという作戦

これを受けて、高松城主の清水宗治(しみずむねはる)は

水没間近の高松城近くに浮かべた小船の上で切腹をしたといいます。


それを見届けた秀吉は、全軍を京に向けて進軍させます。

距離にして約200km。これを秀吉軍はわずか1週間ほどで踏破しました。

これは、当時の軍隊の常識では考えられないスピードでした。

後の世に言う「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」です。


秀吉はこの行軍の間にも、織田家の他の武将に向けて

「信長は光秀に襲われたが無事である」というウソの情報を流し、

謀反人・光秀を討つための協力を呼びかけました。

これが功を奏したのか、近畿地方の西部や中国地方にいた

織田家の武将の大半が秀吉のもとに合流しました。


秀吉のこれらの行動は、光秀にとって完全な誤算でした。

さらに悪いことに、頼みとしていた筒井順慶や細川藤孝からも

色よい返事が得られていなかったのです。(※)

結局、光秀はほぼ自身の配下武将のみで、秀吉軍を迎え撃つことになりました。
(※)ちなみに、この時の筒井順慶の行動から
   「洞ヶ峠を(ほらがとうげ)を決め込む」ということわざが生まれたといわれています。
   意味や詳しい経緯は、興味のある方は調べてみてください。



6月13日、山城(やましろ、現在の京都府南部)・山崎の地で両軍は対峙しました。

秀吉軍はおよそ4万、対する光秀軍1万6千。(例によって兵数には諸説あり)

結果からいえば、秀吉軍の圧勝に終わりました。

勝因としては、一つは2倍を超える兵力の差。

もう一つは、山崎の地の近くにあった天王山(てんのうざん)

秀吉軍が先に制圧したことだと言われています。

余談ですが、例えばプロ野球で「この3連戦は首位攻防の天王山だ」という言い回しをしますが

『ここを押さえた方が勝つ』というところから来た言葉なんですね。


一方、惨敗を喫した光秀は、再起を図るために戦場から落ち延びますが、

途中で落ち武者狩り(合戦に敗れた武将を襲い、武器や鎧を奪おうとする農民たちの集団)に襲われ、

命を落としてしまいます。

本能寺の変で歴史の主役に躍り出てからわずか11日。

俗に「光秀の三日天下」と言われる、あっけない最期でした。


これにより、信長の後継者争いは秀吉が主導権を握りました。

ただ、信長の息子は自害した信忠だけではありませんし、

織田家の重臣の中で筆頭格の柴田勝家(越後上杉氏との戦いのため北陸にいた)や

長年織田家と同盟を結んでいた徳川家康なども黙ってはいません。

この後も、政治と合戦の両面で勢力争いが繰り広げられることになります。


すみません、分けても長くなりました。

この続きは、またいつか。




コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)
たいへん楽しく拝見いたしました。

秀吉には黒田官兵衛という軍師がいたから
そして、光秀の誤算があって
成立したんですね。

歴史が全く分かりませんので
わかりやすく短くまとめていただいて
いつも大変参考になっております。

2015/06/14(日) 21:03:21 | URL | bykidsweet (#-) [ 編集]
Re: タイトルなし
kidsweet さん

まこな。です。
コメントありがとうございます!

ご指摘いただいた点について、補足いたします。
興味がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

・黒田官兵衛の進言について

窮地に陥った秀吉がこれだけ迅速な行動をとれたのも、
官兵衛の冷静な判断力があったからともいえます。

しかし、実際に天下人となった後の秀吉は
このときの官兵衛の一言を引き合いに出して
「官兵衛は自分の座を狙っている」とも発言したそうです。
実際、官兵衛はその活躍ぶりにも関わらず
晩年はわずかな領地しか与えられませんでした。

『切れすぎる』のも、必ずしも良いこととは言えないかもしれませんね。


・光秀の誤算について

秀吉の「中国大返し」ももちろんなのですが、
光秀の最大の誤算は、他の武将を味方につけられなかったことでしょう。

特に、細川藤孝は自分の息子が光秀の娘(後の『細川ガラシャ』)を
嫁にもらっていたにも関わらず、中立の態度をとりました。
その結果、細川家は戦国の世を生き抜き、現代まで続きます。
子孫には、元総理大臣の細川護熙氏がいます。

歴史に「もしも」は禁物といわれますが、
もし藤孝が光秀に味方していたら、
ガラシャや細川元総理の運命も大きく変わっていたでしょう。

そういった部分も含めて、歴史は私たちを惹きつけてくれます。

これからも、一人でも多くの方に戦国時代の魅力を知って頂くために
文章をつづっていきたいと思います。

長文失礼いたしました。
2015/06/14(日) 22:30:07 | URL | byまこな。 (#-) [ 編集]
まこな。様
ご丁寧な回答ありがとうございます。

黒田官兵衛も多分に漏れず
’切れすぎる’ところから
警戒されてしまったんですね。

つめをかくすぐらいがいいのですかね。

味方につけるための根回しも必要ですね。

私は歴史がにがてで、
もしもに関して、ご考察いただけると
私としては、とても参考になります。

ありがとうございました。
2015/06/15(月) 07:02:33 | URL | bykidsweet (#-) [ 編集]
Re: タイトルなし
kidsweet さん

まこな。です。
いつもありがとうございます。

> 私は歴史がにがてで、
> もしもに関して、ご考察いただけると
> 私としては、とても参考になります。
>
私はたまたま戦国時代に興味を持っていますが、
それ以外の時代の歴史については得意ではありません…。

そのため、このブログの内容は専門的な視点からの考察というより
自分の知識や考え方を再点検する感じで書いていますので、
本当に参考程度にとらえて頂ければよろしいかと思います。

その中で、興味のある出来事や人物に出会うことができたら、
本やインターネットで調べてみることをお勧めします。
きっと、新たな発見ができるはずです。

今後ともよろしくお願いいたします。
2015/06/15(月) 22:03:52 | URL | byまこな。 (#-) [ 編集]

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