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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】大内氏と尼子氏② ~戦国時代の中国地方7~
※このブログの戦国ネタが初めての方は、まずこちらをご覧ください。


どうもこんばんは、まこな。です。


中国地方の戦国史、今日はその7回目。

なかなか更新できなくてすみません。

前回の予告通り、今回は戦国時代の山陰の雄・尼子(あまご)氏を取り上げます。

地元のことなので、少し調子に乗って書いてしまうかもしれませんが

もしそうなってしまったらご容赦ください


尼子氏は、もともと出雲などの守護(しゅご、第5回を参照)を務めていた大名・京極(きょうごく)氏の家臣で、

出雲の守護代(しゅごだい・守護から領国経営の実務を任された武将)という立場でした。

守護代は、主に複数の国の守護を務める有力大名が、自身が京に滞在している間の

代理の領主として、または自身が直接治める以外の国に配置することが多く、

後にここから戦国大名となった武将は、尼子氏の他にも数多く存在します。

例えば、尾張の織田氏や越前(えちぜん、現在の福井県東・中部)の朝倉氏などがその代表です。

(正確には、信長を出した織田家は守護代の家の、さらに家臣の家柄なのですが…。)


そんな尼子氏を戦国大名の座に押し上げたのは、尼子経久(あまごつねひさ)という武将です。

経久は、京極氏の配下として振る舞いながら、独自に領内の有力者の懐柔(かいじゅう)や

領地の収入源を自身のものとして確保する政策に力を注ぐなど、

いずれは独立して自分が大名になることを狙っていたといいます。


一度はそれを感づかれ、経久は京極氏によって守護代の任を解かれ、

さらに城からも追放されてしまいますが、

さすがは戦国の世に名を残した人物、この程度の事ではへこたれません。

彼は自分を支持する在野の人物らと協力して後任の城主を城から追い出し、

京極氏の影響力を排して、見事出雲の支配者の座につきました。

一説には、経久たちは毎年正月に城を訪れる旅芸人の一団に扮し、城への潜入に成功した後、

新年の祝賀ムードで油断しきった城主や家臣たちを脅し、城を乗っ取ってしまったと伝えられています。


経久はその後、出雲の国人(こくじん、第4回を参照)や近隣諸国の小勢力を制圧し、

あるいは味方に引き入れながら、山陰地方を中心に勢力を拡大していきました。

この時、尼子氏に従った小勢力の中には、安芸の毛利氏も含まれていました。


また、尼子家には「新宮党(しんぐうとう)」と呼ばれる一団がおり、

経久の一族を中心に、戦闘を得意とする武将を編成して尼子軍の主力を為していました。

彼らの活躍も、尼子氏躍進の要因の一つとなりました。


そして経久の最盛期には、尼子氏は大内氏を上回る11か国に勢力を伸ばしたといわれています。

一度は浪人に身を落とした経久にこのような離れ業が可能だったのも、

自身の能力次第で成り上がることができる「下剋上」の風潮があったからこそなのです。

このあたりが、戦国時代が私たちを惹きつける魅力の一つなのかもしれません。


ということで、駆け足ですが尼子氏の紹介を終わります。

次回は、再び毛利元就が登場します。お楽しみに。




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