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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】毛利元就、当主となる ~戦国時代の中国地方8~
※このブログの戦国ネタが初めての方は、まずこちらをご覧ください。


今日は土曜日。

シリーズ物を進めたいと思います。

中国地方版戦国史、8回目は再び舞台を安芸の毛利家に移し、

毛利元就が毛利家の当主となるまでをお話ししたいと思います。


さて、前回の記事で少し触れましたが

安芸の毛利氏は、出雲の大名・尼子経久の台頭により

その勢力下に組み込まれていました。

元就は尼子氏の指示で、まだ幼い当主を補佐する形で

もう一つの大勢力、大内氏に近い勢力に攻撃を仕掛けたりしています。


そんな中、毛利家にまたしても一大事が。

毛利家の当主で、元就の兄・興元(故人)の子だった幸松丸(こうまつまる)が

わずか9歳で病にかかり、亡くなってしまったのです。

度重なる出陣で幼い体に無理がかかったのでは、と言われています。


毛利家は新しい当主を決めなければなりませんが、

まだ9歳であった幸松丸には、当然ながら跡継ぎはいません。

候補者としては、叔父の元就ともう一人、元就の弟の元綱(もとつな)がいました。

2人は父は同じですが、母親が違うという関係でした。


現代の感覚であれば、年上の元就が後を継ぐのが自然な流れですが、

戦国時代には、跡継ぎに関する明確な法律やルールはありませんでした。

何より、この時代の大名家の当主は合戦や敵の謀略から家を守らなければならないので、

「より優れた能力の持ち主を当主に据える」というのが一般的な感覚だったのです。

また、兄弟など多数の候補者がいる場合にはまず父親の決定権が強く、

場合によってはこれに母親の地位(正室か側室か、など)やその意向、

さらには有力な家臣の思惑などがからむ場合もあったようです。


今回の毛利家の場合、元就らの父・弘元はすでに亡くなっており、

さらに元就元綱は母親が違うので、家臣も元就派と元綱派に分かれて対立。

後継者の決定が難航するのは明らかな情勢でした。

ある日元就は、尼子氏と頻繁に連絡をとりあっていた元綱派の家臣の間に

「元綱を当主にするために、元就を亡き者にしよう」

という計画があるようだ、との情報を耳にします。

どうやら、尼子経久は元就の力量を見抜き、

元就が当主になればいずれ毛利家は独立するのではないか、という警戒心を抱いていたようです。


元就は、苦渋の決断を下します。

元綱の居城に夜襲を仕掛け、元綱とその近臣たちを討ち取ったのです。

敵の策略があったとはいえ、半ばだまし討ちのような形で弟を手にかけた元就。

これも戦国の世の定めでしょうか…。

こうして元就は、27歳で正式に毛利家の当主となりました。


さらに、元就はこの騒動の裏で糸を引いていたと思われる尼子氏との関係を絶ち、

尼子氏と対立する周防の大内氏との関係を強化していきます。

元就は、臣従の証として長男の少輔太郎(しょうのたろう)を大内家の当主・義隆のもとに送りました。

少輔太郎は後に義隆から1字をもらい、「隆元(たかもと)」と名乗ります。


尼子氏の支配から脱し、大内氏によしみを通じた毛利元就。

ところが、その元就を尼子軍の猛攻が襲います。

城に迫る10倍の敵を前に、元就が繰り出した奇策とは!?

次回「吉田郡山城の戦い」に、ご期待ください。




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