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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】30代の彼らは・・・(前編)

おはようございます。

珍しく、朝の時間帯からの更新です。

久しぶりに戦国時代の話を書きたいと思いながらもネタが見つからず、

起きたらちょっとアイデアが浮かんだのでひとまず書いてみます。


ブログの更新をお休みしていた間に、また一つ歳をとりました。

隠す理由もないので書きますと、四捨五入して40になる年齢です。

30代も前半が終わり、いよいよ「オッサン」待ったなしという感じの独身男です。


で、ふと思ったのですが「人間五十年」の時代に生きた有名な戦国武将たちにも

(早死にした人でなければ)30代の頃はあったわけで。

よく知られている10人を選んで、どんな事があったのかちょっと調べてみました。

なお、年齢は通説における生年に基づき、誕生日は考慮せずに満年齢を計算しています。


①織田信長(1534年生まれ、1564年に30歳)

1564年(信長30歳)、自分の妹・市を近江の大名・浅井長政に嫁がせ、同盟を結んだ。

美濃の斎藤龍興に対する共同戦線を張ることが目的だったとされる。

その3年後(信長33歳)、斎藤家の本拠・稲葉山城を攻略し、地名を「岐阜」と改めた。

また、この頃から「天下布武」の印を使うようになったと言われる(意味の解釈には諸説ある)

1568年(信長34歳)、京の政変により流浪していた足利義昭を岐阜に迎え入れ、ともに上洛。

義昭を15代室町幕府将軍に就任させ、自らはその背後で権勢を高めようとした。

1570年(信長36歳)、離反した浅井氏とその同盟国・越前の朝倉氏の連合軍と

近江・姉川で戦い、徳川家康の軍勢の奮闘もあって勝利をおさめた。

1573年(信長39歳)には室町幕府を事実上の滅亡に追い込み、政治権力をほぼ掌握した。


②豊臣秀吉(1537年生まれ、1567年に30歳)

30歳の当時は「木下秀吉」と名乗り、信長に仕えていた。

1570年(秀吉33歳)、信長が越前の朝倉義景を攻めた際に

同盟を破棄した浅井軍が背後から襲い掛かる危機に見舞われる。

秀吉は撤退する織田軍の殿(しんがり※)を志願し、見事その任を果たす。

1573年(秀吉36歳)、浅井氏の本拠・小谷城の攻略戦でも功績をあげて

近江・今浜を領地として与えられ、信長の一字を使いこの地を「長浜」と改名する。

また、これと同じ時期に姓を「羽柴」と改めている。

織田家の重臣であった柴田勝家と丹羽長秀から、一字ずつをもらったという。

(※)殿・・・退却する自軍の最後尾につき、敵の追撃を食い止めるポジション。死傷率が高かった。


③徳川家康(1542年生まれ、1572年に30歳)

本拠の三河と今川氏から奪取した遠江の領国経営を進める一方、

信長の同盟者として畿内方面にも軍を進めることがあった。

1572年(家康30歳)、武田信玄の上洛軍が遠江に侵攻。

浜松城に籠城するが、城の脇を通過する武田軍の背後を突こうと出陣する。

しかし、この動きを読んでいた武田軍に迎撃され、大敗を喫する(三方ケ原の戦い)。

命からがら帰城し、戒めのために自らのみじめな姿を絵に書かせた逸話は有名。

1575年(家康33歳)、再び徳川領に侵攻してきた武田勝頼を迎え撃ち

信長の軍勢と協力してこれを撃破する(長篠の戦い)。

1579年(家康37歳)、信長から武田氏との内通の疑いをかけられ

潔白を証明するために妻・築山殿と長男・信康を処断する(理由には諸説あり)。


④武田信玄(1521年生まれ、1551年に30歳)

父を追放して甲斐の支配者となった信玄は、

20代の頃から信濃攻略に着手したが、村上義清などの抵抗に阻まれていた。

1551年(信玄30歳)、家臣・真田幸隆(幸綱とも)の調略により

村上氏の重要拠点・砥石城を攻略。北信濃地方への勢力拡大を加速させる。

1553年(信玄32歳)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が信濃へ侵攻。

信玄に領地を奪われた村上氏など信濃の諸氏からの要請を、景虎が聞き届けてのことだった。

信玄は川中島付近に布陣し迎え撃とうとするも、このときはにらみ合いのみで終わる。

その後も緊張状態は続くが、1561年(信玄40歳)には本格的な衝突に発展。

「第四次川中島の戦い」と称される、信玄の生涯を代表する合戦となった。


⑤上杉謙信(1530年生まれ、1560年に30歳)

もとは越後守護代・長尾氏の家系に生まれ、「長尾景虎」と名乗った。

室町幕府に協力的で、1559年(謙信29歳)には上洛を行っている。

1560年(謙信30歳)、所領を追われた関東管領・上杉憲政を保護していたことから

急速に勢力を伸ばす相模の北条氏を制止するため、関東地方に出兵する。

翌1561年(謙信31歳)、憲政から正式に関東管領の職を引き継ぎ、「上杉政虎」と改名。

その後も毎年のように関東に出兵し、関東管領の務めとして北条氏へのけん制を続けた。

一方、武田氏との信濃をめぐる戦いも続いていたが、1564年(謙信34歳)を最後に収束。

対立が続いた北条氏とも1568年(謙信38歳)頃に同盟を結び、自身の養子まで迎えている。

領土拡大よりも家臣団の掌握(※)や経済政策、対外関係の維持に力を注いだ年代だったといえる。

(※)20代の頃、「家臣が自分に従ってくれない」という理由で引退を宣言し、寺に引きこもった経歴がある

なお、出家して「謙信」と名乗るのは1574年(謙信44歳)頃とされる。


10人と言っていたのですが、調べながら書くとなかなか時間がかかりますね。

とりあえず今回は前編ということで、残りの5人は次回の更新で書くことにします。

リーダー(大名)として活躍した人が多かったですが、裏では苦労もしたのだと思います。

そういった部分を解き明かしていこうとするのも、歴史を学ぶ面白さかもしれません。


では、また近いうちに後編でお会いしましょう。

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