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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
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【戦国時代】清洲会議(前編)
こんにちは、まこな。です。

さて、今日は6月27日。

今日のテーマはこれにちなんで、

1582年のこの日に行われたといわれる「清洲会議(きよすかいぎ)」です。


数年前に映画にもなった「清洲会議」ですが、

先日記事にした「本能寺の変」「山崎の戦い」に続く

戦国時代の天下人争いをめぐる出来事です。

そこに関与した主な人物の思惑と動き、その結果について

今日と明日の2回に分けてまとめていきたいと思います。




まずは、これまでの経緯のおさらいから。

本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれた後、

中国地方から引き返した羽柴秀吉によって光秀の勢力は壊滅。

次の関心事は、信長の跡を誰が継ぐかということでした。


信長の長男で、後継者に指名されていた織田信忠(のぶただ)は、

本能寺の変の際に二条城(現在の京都市)で明智軍に襲われ、自害。

他に信長の息子で有力だったのが、次男の織田信雄(のぶかつ)

三男の織田信孝(のぶたか)の2人でした。(※)

2人はそれぞれ、信長によって他家に養子に出されていたので

その姓を使って「北畠(きたばたけ)信雄」「神戸(かんべ)信孝」という名前で

紹介されることもありますが、本ブログでは「織田」姓を用います。

(毛利元就の子で他家の養子となった吉川元春・小早川隆景の兄弟と同じ境遇ですね)

※余談ですが、この兄弟は「信孝を次男、信雄を三男」とする説もあります。
 本文中の紹介は『生まれたのは信孝が先だったが、母親の地位が低かったので
 信雄より格下の三男とされた』という通説によるものです。
 また、信雄はこの頃まで「信意(のぶおき)」と名乗っていたという資料もあります。


さて、信長と信忠を同時に失った織田家のかじ取りを誰に任せるのか。

その決定権を持っていたのは、織田家の重臣たちでした。

そこで、織田家に古くから仕え、重臣の中でも筆頭格であった

柴田勝家(しばたかついえ)の呼びかけで、会議が開かれることになりました。

織田家が長く支配していた尾張の清洲城(愛知県清須市)が会場となったため、

「清洲会議」と呼ばれます。


この会議、名目上は織田家の後継者を決める会議ですが、

実質的には重臣たちの主導権争いという意味合いがありました。

信長らの死で織田家の支配体制は実質崩壊していたので、これは無理もありません。

そのため、重臣たちはいかに自分の領地を確保するか、

他の重臣を抑えて自分の言い分を通すことができるか、

あるいは自分の言いなりになる後継者を立てられるか、ということに関心を持っていました。


さて、どのような話し合いが持たれたのでしょうか。

例によって、ここで後編に続きます。





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