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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」 プロローグ・3 揺れる室町幕府

こんにちは。

毎週土曜日は連載企画「落日 ~室町幕府・終焉への道~」の記事をアップします。

今日は通算3回目、プロローグの締めとして「応仁の乱」に至るまでの室町幕府の迷走ぶりをご紹介します。

「応仁の乱」をきっかけに室町将軍の政治権力が一気に崩れた、と記憶しておられる方も多いかと思います。

私自身もそうでしたが、調べてみると実際にはそれ以前からゴタゴタが続いていたんですよ、というお話です。


室町幕府の黄金期といえる繁栄を築いたのは、やはり3代将軍の足利義満です。

台頭しようとする守護大名の勢力を巧みに削ぎ落とし、幕府による政権を盤石なものとする一方

明(みん、今の中国)との貿易の推進や、金閣寺に代表される「北山文化」の振興にも力を入れました。

さらには、武士としては平清盛以来となる太政大臣(だじょうだいじん、朝廷における最高位)の位に昇進し

まさに「我が世の春を謳歌する」と表現できそうな繁栄ぶりを見せました。


義満の存命中に将軍の職を譲られた4代目・足利義持は、堅実で無難な政権運営を見せました。

義満の死後、関東で反乱が起こった時にも冷静に対処し、大きな混乱は起こりませんでした。

実は室町幕府で最も長い期間将軍を務めたのは、この義持なのです(在位28年)。

義持にとっての一番の心配事は、跡取り息子の義量(よしかず)が生まれつき病弱だったことです。

おまけに、義量は大の酒好きであったと伝えられており、義持は本人に直接注意するだけでなく

家臣に対しても「義量に酒を勧めてはならない」という命令を出したほどだったと言われています。


それでも義量が17歳になると、義持は将軍の地位を彼に譲り、5代将軍・足利義量が誕生します。

とはいえ義持も政治の方針や進め方には度々口をはさんだようで、それが面白くない義量の酒好きは治りませんでした。

なんで未成年が酒飲んでるんだ!というツッコミもごもっともですが、今とは法律が違うのでご承知のほどを。)

そして、弱い体に酒の飲みすぎが祟ったのか、ついに義量は重い病に倒れ、将軍就任から2年後に19歳で亡くなってしまいます。

将軍位を退いた後に出家していた義持は悲しみながらも、義量には跡を継がせる子どもがいなかったことから

新たな将軍を立てることはせず、自分が再び政治のかじ取りを行うことで混乱を収束させようとしました。


しかし、1428年に義持が亡くなると、将軍候補となる足利家の男性がいなくなってしまいます。

初代将軍・足利尊氏から続いてきた直系の血筋は、5代目の義量で絶えてしまったのです。

この緊急事態に幕府の重臣たちが打った対策は、「義満の子どもたちの中から選ぶ」というものでした。

そこで、いずれも幼い頃に寺に預けられ、今では僧として成長した4人の義満の息子が呼び出されました。

そして、4人は「結果に異論を唱えない」という誓いを神社で立てた後、将軍職を決めるくじを引きました。

見事に次期将軍の地位を引き当てたのは、京都の青蓮院(しょうれんいん)で高僧となっていた義円(ぎえん、義圓とも)でした。

当の義円は断ろうとしましたが、「これは神様の意思だ」という重臣たちの説得に折れ、将軍就任を承諾します。

こうして義円は還俗(げんぞく、僧侶が寺を出て一般社会に戻ること)して「足利義教(よしのり)」となり、6代将軍に就任しました。


青蓮院でも「大変に優秀な僧侶」として評判だったという義教は、将軍としてもその手腕を存分に振るいました。

特に、将軍位が空位になったことで政治的影響力を強めていた管領や有力守護に対しては、義満の頃のような強い態度で臨み

政治の仕組みや進め方は将軍自らが決める、という幕府本来の機能を取り戻そうとしました。

しかし、一部の人たちの間では『義教のやり方があまりに強引すぎる』という不満も出始めていました。


特に、義教と同じ足利一門でありながら将軍にはなれず、関東地方の統治を任されていた足利持氏(もちうじ)

「寺で育った義教より、自分の方が将軍にふさわしいはずだ!」と義教の活躍に不満を募らせていました。

一説には、持氏は宗教界の権威であった比叡山延暦寺に『義教を呪ってほしい』と依頼していた、ともいわれています。

こうした持氏の挑発に業を煮やした義教は、ついに関東に出兵し、持氏の一族を滅ぼしてしまいます。

室町幕府の政策で関東に派遣されていた持氏を、将軍自らが討伐するという異例の事態。

これが「応仁の乱」とは別に、関東地方の戦国時代が始まるきっかけの一つとなったのですが、それはまた別の機会に。


さらに義教は、自分を呪ったとされる比叡山延暦寺に対しても、強い態度を示しました。

比叡山のふもとにある門前町・坂本に火を放ち、謝罪に訪れた延暦寺の使者も処刑するなどしました。

これは個人的な恨みだけでなく、宗教勢力が政治に介入するのを防ぐための手段だったとも推測されます。

歴史ファンには有名な、織田信長による比叡山焼き討ち(1571年)より100年以上も前の話ですが

「歴史は繰り返す」とはよく言ったもので、義教の生涯には信長との共通点が多いように見えてきました。


そして義教の最期も、信長が本能寺で明智光秀に討たれた(本能寺の変)のとよく似ていました。

播磨(はりま、今の兵庫県)など3か国の守護に任命されていた有力守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)

長年幕府と将軍を支えてきましたが、義教のあまりに強引な政権運営に恐怖を覚えはじめます。

特に義教は守護大名家の家督相続にも積極的に介入し、時には当主を暗殺してまで交代させるということもあったため

「次は自分が排除される番ではないか」と疑心暗鬼に陥った満祐は、酒宴と称して自宅に義教を招くと

待ち伏せしていた家臣たちに義教を襲わせ、討ち取ってしまいました。 1441年、義教48歳の時でした。


この直後、幕府軍の討伐を受けて満祐は切腹、赤松家は取り潰しとなります(後に戦国大名として復活)。

しかし、義教を失った幕府の痛手はあまりにも大きく、混乱は簡単には収まりそうにありませんでした。

義教の跡を継いで7代将軍となった義勝(よしかつ)は、わずか9歳(満8歳)の幼子であり、政治には全く介入できません。

そこで義教政権の管領だった細川持之(もちゆき)が政治の主導権を握り、

義教の手で抜け出せかけていた『将軍不在の政治』に逆戻りしてしまうことになるのです。


さらに悪い事は続き、義勝は将軍就任から8か月後に急死(赤痢による病死とみられるが、諸説あり)。

その跡を継ぐ8代将軍には、義勝の弟だった三寅(義政の幼名)が抜擢されることになります。

しかし、この時すでに政治は完全に将軍の手を離れ、管領や有力守護のものと化していました。

元服して正式に8代将軍に就任した足利義政の権威は、最初から「お飾り」のように扱われていたのです。


・・・と、いささか長くなりすぎましたが、プロローグはこのへんで終了です。

今日のまとめを置いておきますので、本文を見返しながら復習してやってください。

室町将軍 応仁の乱への系譜

次回からはいよいよ本編ということで、義政の人物像と「応仁の乱」への関わり方を見ていきます。

それでは、また次の土曜日に。


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