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1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・1 足利義政の無気力政治

こんばんは。

毎週土曜日は、連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」の記事をアップしています。

前回までのプロローグに引き続き、今回からは第1章「滅びゆく権威」と題してお話を進めていきます。

室町幕府が始まってから約100年余り、6代将軍・足利義教(よしのり)が守護大名に暗殺され

その子で7代将軍となった義勝(よしかつ)も、就任から1年足らずで亡くなるという異常事態に見舞われる中で

8代目の将軍として歴史の表舞台に現れたのが、義勝の弟であり第1章のキーパーソン、足利義政(よしまさ)その人です。


義政といえば、歴史の教科書や歴史関連ブログで「『応仁の乱』を引き起こした、政治に無関心な将軍」と紹介されることも多いです。

管領や有力守護大名、正妻の日野富子(ひのとみこ)などによって政治に関与することができず、芸術や建築に没頭し

将軍職を辞した晩年に、銀閣寺に代表される『東山文化』を興したことの方が業績として取り上げられたりしています。

しかし、義政が政治のできない「ダメ将軍」と見られているのは、本人だけのせいだったのでしょうか?

今回の記事では、義政の生い立ちや当時の社会情勢などものぞき見しつつ、彼の素顔を推理してみたいと思います。


足利義政は1436年、当時の将軍・足利義教の3男として生まれました。

義教にはすでに跡取り息子で義政の兄・義勝がいたため、次の将軍候補とは見られておらず

将軍家の親戚筋であった公家の烏丸(からすま)家に預けられて育ちます。

一説には、義政はここで和歌(連歌)や蹴鞠など公家社会の娯楽に触れ、若い頃にはそれらを趣味としていたようです。

戦国時代にも、大内義隆や今川氏真などが公家の文化や趣味を尊重し、自らもそれにはまり込んでしまったがために

謀反を起こされたり、家の滅亡を招いてしまったりしたこともあり、武士の子として望ましい姿とはいえないものでした。

この経験も、義政が武家社会に呼び戻され、うまくいかなくなった際に無気力を起こさせた要因の一つと考えられる気がします。


そして、冒頭で紹介した通り義教の暗殺、そして義勝の夭折(ようせつ、幼い時に死ぬこと)と想定外の事態が重なり

義政は8歳にして次期将軍に内定、14歳の時に元服(げんぷく、武士として成人すること)して正式に室町幕府の将軍に就任します。

それでも、将軍になりたての頃の義政は「祖父(義満)や父(義教)を見習って、頑張るぞ」と意気込んでいたようです。

騒乱状態が続く関東地方の情勢に積極的に干渉したり、『奉公衆』と呼ばれる幕府の直属軍を再編成するなど

管領や守護大名たちの力を借りなくても政治はできる、というところを見せたかったのでしょう。


しかしそこは少年将軍の悲しさ、ひとクセもふたクセもある周囲の大人たちが黙っているわけがありません。

将軍が事実上不在になっていた間、政治の実権を握った管領は今更それを手放そうとはしませんし、

有力守護大名たちもまだ若い義政を軽く見て、幕府や将軍の指示に従わないことも増えていきました。

また、義政の母の実家であり、足利家とも関係の深かった日野家から迎えた正室・日野富子には

義政も母親への遠慮もあってか強く意見を言うことができず、次第に政治や政策にも介入を許すようになってしまいます。

こうした状況は京の市民にも透けて見えたようで、街中にはこんな落書きがされていたという逸話もあります。

「今の幕府には、『三魔(※)』がとりついて政治を操っている」 

(※)三魔・・・義政の側室(諸説あり)・お今(おい)、義政の育ての父・烏丸(からす)資任、側近の有馬(あり)持家、の3名を指すとされる


こうして、義政が目指していた「義満や義教の頃のような将軍専制」の夢はあっけなく打ち崩され、

「政治なんて、自分がいなくても回るんだから別にいいか・・・」と思ったかどうかは分かりませんが

政治の世界より、自分の思い通りになる趣味や楽しみの世界に生きがいを見出すようになったのではないでしょうか。

そして、「将軍なんて早く引退して趣味に没頭したい」という思いが、応仁の乱勃発に深く関わってくるのですが、それは次回で。


最後に、もう一つだけ彼の無気力さを助長したと疑われる事柄を紹介して、この項の締めとします。

義政が8代将軍として政務をとった1450年~60年代は、異常気象や災害が相次いだ時期でした。

京を中心とする現在の近畿地方で豪雨災害や洪水による被害、さらに地震などの災害が

幕府や公家などの記録に残っているだけでも、ほぼ毎年のように発生していたことが分かっています。


また最近の研究では、この時代の地球は「小氷河期」にあったことが分かってきていて

日本でも慢性的な天候不順と気温の低下、それに伴う作物の不作や食料不足が深刻となっていました。

特に、1460年前後に発生した「寛正の大飢饉」は特にひどい有様で

京の街中には周辺地域から食料を求める民の流入が止まらず、8万人以上が市内で飢え死にしたとされています。


こうした惨事に対しても、義政は有効な政策を打ち出せなかったとされています。

それどころか、この時期の義政は室町将軍代々の邸宅である通称『花の御所』の改修工事に全精力を注いでおり

当時の天皇からお叱りを受けても、意に介さなかったといいます。

これでは『ダメ将軍』そのものですが、義政は義政で「自分は政治を動かせないから」と諦めていたとしたら、どうでしょう。

まして、災害や天候不順による食料不足は、解決しようがないじゃないか、という一種の無常観が混ざっていたとしたら。

「どうせ人生思うようにならないんだから、自分の居場所くらい好きに作らせてよ」という、義政の魂の叫びが聞こえそうで不憫に感じます。

皮肉にもその願いは応仁の乱の終息後、『東山文化』という形で花開き、後世に残ることになるのですが・・・。

意欲を失った義政を縛ろうとする政治と権力の鎖は、まだまだ彼とその周りの人々を翻弄することになります。


次回は、『応仁の乱』の開戦に関わった人物と出来事の紹介となります。 来週の土曜日をお見逃しなく。


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