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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・2 応仁の乱!の前触れ

こんばんは。

毎週土曜日は「落日 ~室町幕府・終焉への道~」の更新日です。 そろそろ覚えてくれましたか?


前回は、戦国時代の幕開けともいわれる「応仁の乱(※)」勃発時の室町幕府将軍・足利義政について紹介と推測をしてみましたが、

今回はいよいよその「応仁の乱」が起こるに至った背景や、関わった人物たちをまとめていきたいと思います。

(※)終戦時には年号が「文明」に変わっていたことから「応仁・文明の乱」を用いる専門家やメディアもあるが、この特集では「応仁の乱」で統一


まず、前回のおさらいの意味で、この頃の室町幕府の状況を整理しておきましょう。

6代将軍・足利義教(よしのり)の暗殺、さらに7代将軍・足利義勝の早死にと、不測の事態が続いたことで

若くして8代将軍の座につくことになってしまった足利義政は、次第に政治への関心を失ってゆき

管領(将軍の補佐役)・細川勝元や義政の正室・日野富子らが中心となって政治を動かしていました。


それでも、義政には幕府の政局に関わる重要な権限がありました。

それは、管領や守護大名など有力な武家の家督(跡取り)について、裁決を下すことでした。

相続に関する明確な法律や決まり事がなかった当時は、子が複数いる家では

誰に家督を継がせるかというのが重要な問題で、これを巡って争いが起こることもありました。

これを「御家騒動(おいえそうどう)」といいますが、詳しくは後日別記事にまとめます。

義政の父・義教もたびたび有力な武家の跡継ぎ争いに介入し、裁決を下したことが度々あり

それは義政の代になっても慣例として残っていた、いわば『将軍の特権』だったのです。


ところが、これが応仁の乱につながるいざこざを呼ぶことになってしまいます。

きっかけは、管領家の一つ・畠山(はたけやま)家で起こった跡継ぎ争いです。

勝元の前に管領を務めた要人・畠山持国には子どもがなく、自分の弟の子である畠山政長を養子に迎え、跡を継がせようとしていました。

しかし、ほどなくして持国の側室が男の子を出産。 畠山義就と名付けられ、跡継ぎ候補に名乗りを上げました。

持国は義就を跡継ぎとしましたが、とうぜん政長や彼を支持した畠山家の家臣たちはこれに反発します。

さらに持国が亡くなった後は、畠山家は政長を推す派閥義就を推す派閥とに分断されてしまいました。

結局、最終的な決定を将軍である義政から下してもらい、争いを鎮めようということになったのです。


義政の判決は「政長を正式な畠山家当主とし、義就は追放する」というものでした。

実はこれ、義政本人の判断というよりも、管領・細川勝元が政長を支持していたため、口添えをしたものと考えられています。

これで丸く収まればよかったのですが、将軍を軽く見ていたのかどうなのか、義就はこの決定に納得しません。

そこで義就は、一族で8か国の守護を務める有力守護大名・山名持豊(宗全)に助力を頼みます。

持豊の方も、勝元が権力を握っている現状を面白く思わなかったこともあり、これを承諾。

ここに、「細川勝元を支持する勢力(東軍)」「山名宗全(※)に味方する勢力(西軍)」という応仁の乱の対立軸が形成されることになります。

(※)「宗全」は出家した僧としての名乗りですが、こちらの方が有名なので以後「山名宗全」で統一します。


では、東西両軍の総大将となった勝元宗全は、それほどまでに仲が悪かったのでしょうか。

応仁の乱が始まる前、勝元は宗全の娘を妻として迎えており、親戚としての付き合いもあったでしょうから

始めからソリが合わないとか、いがみ合っていたというワケではないようです。

しかし、畠山家の御家騒動以外にも、両者の間で意見が食い違う問題は発生していました。

それは、かつて義教暗殺の実行犯として取り潰された守護大名・赤松家の再興をめぐってのことでした。


義教が暗殺された直後、現場にほど近い但馬(たじま、現在の兵庫県北部)や因幡(いなば、現在の鳥取県東部)を拠点としていた

山名軍は宗全自らが総大将となり、幕府軍の主力として赤松領に侵攻しこれを制圧しました。

その恩賞として、宗全には旧赤松領であった播磨など3か国の守護職が与えられ、山名家の勢力は8か国まで拡大。

京に近い地域でこれだけの勢力を持つことになった宗全が、政治に介入してくることに危機感を覚えた勝元は

一度は滅ぼされた赤松家の血をひく人物を探し出し、いずれ再び旧領を与えて宗全に対するくさびにしようと動きはじめます。

その動きを知った宗全は、当然怒ります。 一度もらった褒美が、取り上げられるかもしれないのですから・・・。

こうした経緯も、応仁の乱の対立軸の形成につながったといえそうです。


本当はこの後、『応仁の乱』の直接の原因ともいわれる足利将軍家の跡継ぎ争いについても触れたかったのですが

文章が長すぎて読まれないのも残念なので、これは次回の冒頭で紹介することにします。

今日のまとめと次回の予告として、いつもの図を置いておきますのでお納めください。

応仁の乱 対立軸まとめ1

この続きは、次の土曜日に更新します。

そちらもどうぞ、お見逃しなく~。

それでは本日も、お読みいただきありがとうございました。


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