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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・3 応仁の乱! 本番

こんばんは。

土曜日恒例の連載記事「落日 ~室町幕府、終焉への道~」 今週もはじまります。

前回の記事では、『戦国時代の始まり』と評されることもある応仁(・文明)の乱について、

その開戦に関わったを思われる人物の対立関係を紹介してみました。

今日はその続きで、応仁の乱における一番の"争点"ともいえる『足利将軍家の跡継ぎ争い』の模様と

開戦1年目、1467年(応仁元年)に何が起こっていたのかを中心に書いていきたいと思います。


まず、前回のラストで紹介した主要人物の対立関係図をもう一度ご覧ください。

応仁の乱 対立軸まとめ1

応仁の乱では、幕府の管領(政権の補佐役)を長年務めた細川勝元をリーダーとする東軍

中国地方東部を中心に8か国の守護として勢力を誇った山名宗全率いる西軍が争うことになりました。

そして、足利将軍家の跡継ぎ争いも、この両者がそれぞれの主張をぶつけ合うための材料として持ち上げられたのです。


以前の記事でも書いた通り、8代将軍・足利義政は政治への意欲を失っていました。

「将軍なんて早く引退して、悠々自適に過ごしたい」と思った義政でしたが、彼には跡継ぎにできる男の子どもがいません。

そこで義政は、幼い頃に寺に預けられ僧となっていた弟の存在に目をつけ、彼に自分の跡継ぎになるよう説得します。

最初は戸惑い断った義政の弟でしたが、義政の度重なる説得に折れ、還俗(げんぞく)して「足利義視(よしみ)」と名乗り、次期将軍に内定しました。 

ようやく念願の跡継ぎと趣味ざんまいの余生が手に入り、義政もご満悦だったことでしょう。

応仁の乱が始まる3年前、1464年のことです。


ところが・・・ 翌1465年、義政の夢は水の泡と帰してしまうことになります。

義政とその正室・日野富子との間に、待望(?)の男の子(のちの足利義尚)が生まれたのです。

義視を説得したときには「もし後で男児が生まれても、必ず義視を将軍にするから!」と約束していた義政でしたが

政治にもたびたび口出ししていた富子から「あなた、もちろんこの子を次の将軍にするわよね?」と迫られ、困ってしまいます。

決断を下せない義政を見て、富子は山名宗全に子どもの後見を頼み、宗全もこれを承諾します。

実は義視にはすでに細川勝元が後見人としてついており、宗全は勝元への対抗心からこの申し出に承諾したとも考えられています。

この時点で応仁の乱に至る対立関係はほぼ完成し、「勝元+義視+畠山政長」を主要メンバーとする東軍と

「宗全+義尚(+富子)+畠山義就」を主要メンバーとする西軍の対立は、避けられないものとなっていったのです。

なお、義政は義視を推していた意味では東軍寄りですが、本来は将軍として両者の仲裁をするべき立場なので、ここでは除外しています。


そして迎えた1467年、事態はいよいよ風雲急を告げます。

最初に動いたのは、かつて義政から謹慎を命じられた畠山義就です。

前年の暮れに宗全の誘いを受けた義就は、本拠地の河内(かわち、現在の大阪府南東部)から軍勢を率いて京に入っていました。

これに驚いたのか、義政は年始に毎年行っていた当時の管領・畠山政長宅への訪問をキャンセルし

宗全の屋敷に滞在していた義就に年始のあいさつを行います。 

さらに、義政は管領の職を政長から義就に交代する人事を発表、政長には自宅も義就に引き渡すように命令します。

一度は「政長が畠山家の当主だ」と認めたはずなのに、義政のブレまくりな態度はこの後も混乱のもとに・・・


あまりにひどい仕打ちを受けた政長は、1月17日の夜中に自宅を焼き払うと、18日には京の北にある上御霊社に陣を構え

義政に抗議するとともに、事によっては義就と一戦交えようという態度を見せました。

対する義就も、政長が陣を張ったという知らせを受け上御霊社へ進軍、これが「応仁の乱」最初の戦闘となりました。

上御霊社は将軍の住む御所のすぐ近くにあり、戦闘による被害が御所に及ぶのを恐れた義政は

「この戦は畠山家の内輪の争いだから、他の大名は手出ししてはならない」という命令を出しました。

命令を守り政長に加勢しなかった勝元に対し、宗全は命令を無視して義就とともに政長の陣を攻めました。

合戦は宗全の加勢を得た義就軍の勝利に終わり、敗れた政長は勝元の屋敷に保護されることになります。

そして、命令を守ったのに「政長を見捨てた臆病者」という悪評を背負ってしまった勝元の心にも、「宗全許すまじ」という怒りの火がついてしまいました。


それから約4か月にわたり、勝元・宗全の両者は各国の守護大名たちに兵の動員を呼びかけました。

互いに自分に味方する軍勢の兵を京に集め、将軍・義政に自分の正当性をアピールする目的だったとも言われます。

5月の終わりの段階で、東軍の軍勢はおよそ15万西軍の方は約9万まで膨れ上がったとされています(もちろん諸説あり)。

当時の京の人口が20万~22万だったというデータもあり、まさに一触即発という雰囲気が漂っていたといえます。


そして、5月26日には東軍と西軍の一部が小競り合いを始めたことをきっかけに戦線が徐々に拡大、

5月28日に一応の終息を迎えるまでに多くの寺社や民家が焼け落ちるという被害が出ました。

さらに、10月には応仁の乱最大の激戦ともいわれる「相国寺の合戦」が発生し、多数の死傷者が出ました。

それでも、両軍ともに決定的な勝利を得ることはできず、次第に兵力や補給の不安も出てくるようになります。

頼みの将軍・義政は一応の正当性を東軍に認めてはいるものの、その実効性はほとんど無く、跡継ぎの結論も出ていません。

そして、この後10年にわたってドロ沼の争いが繰り広げられることになっていくのです・・・。


次回は、「応仁の乱」がとにかく説明しづらいとされる原因の一つと思われる

「東軍と西軍が入れ替わっちゃった事件」について、見ていきたいと思います。

私もしっかり予習をして記事作成に挑みますので、来週もどうぞよろしくお付き合いください。


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