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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・4 応仁の乱! グダグダ編

こんばんは。

毎週土曜日は、当ブログ渾身(こんしん)の連載企画「落日」をお送りしております。

『応仁(・文明)の乱』から始まる(とされる)戦国時代に翻弄された、室町幕府の足取りを見ていこうという企画ですが

何しろその応仁の乱がややこし・・・いやいや興味深すぎて、なかなか次の話へ進めません。

去年あたりから雑誌やテレビで『今、応仁の乱が熱い!』などと言っていましたが、調べ始めると確かに面白いですね(人間関係や利害関係の複雑さ、とか)。

加えて、それをいかに”歴史に興味が無い”人にも伝えるか、というテーマとも向き合いつつ頭をひねる日々です。

そういうわけで、毎回それなりに”難産”なブログ記事を、今週も無事にお届けできます。

今回は、前回の予告で紹介した「東軍と西軍が入れ替わっちゃった事件」の主役でありながら

世間一般における知名度は非常に低い、そんな男にスポットを当てます。


今回の記事の主役は、8代将軍・足利義政(よしまさ)の弟で、元・お坊さんの足利義視(よしみ)

足利将軍家では、跡継ぎ(基本は長男)以外の男の子は小さいうちに寺に預けてお坊さんにする、というしきたりがあり

義勝や義政という兄がいた義視も、幕府に何もトラブルがなければ立派なお坊さんとして一生を全うしたのでしょう。

しかし、運命のイタズラなのかどうなのか、彼が生きた時代に応仁の乱が起こったことで、波乱の人生となってしまうのです。

今回のお話は、義視が還俗(げんぞく、お坊さんが寺を出て一般人になること)して足利家に戻ってきたところから始まります。


義視の兄で現職の将軍である義政は、何度も言うように政治への興味関心を失い、隠居を考えていました。

しかし跡を継がせる男の子がいない義政は、お坊さんになっていた弟の義視を何とか説得し、自分の跡継ぎと決めました。

ところが、その翌年に義政とその妻・日野富子との間に元気な男の子(後の足利義尚)が誕生。

義視には「必ず次の将軍にするから!」と約束した一方、妻からの「我が子を将軍に!」というプレッシャー(※)も心配な義政。

ここまでは前回の記事でも書いた通りですが、事態はここからさらに複雑になります。

(※)ベストセラーとなった『応仁の乱』著者の呉座勇一先生によれば、
   「義視の妻は富子の妹であり、『富子は義視を敵視していた』という一般的な説明は成り立たない」とのこと



応仁の乱 足利義視のグダグダ人生


事件が起こったのは、1466年。 応仁の乱が始まる前の年、幕府内に不穏なウワサが流れたのです。

「義視は早く将軍になりたくて、義政に謀反を起こそうとしているらしい・・・」

そのウワサは当然義政や義視の耳にも届き、これにはさすがの義政も激怒。 もし事実ならば義視を討つ、とまで言い出します。

一方、身の危険を感じた義視は細川勝元の屋敷へ逃げ込み、兄の怒りが収まるのを待ちました。


その後、義政や細川勝元らがウワサの出所を調べた結果、首謀者は義政の側近であった伊勢貞親(いせさだちか)だったことが分かります。

実は貞親はまだ幼い義尚の養育係を務めていて、義尚を将軍にして自分が権力を握るため、義視の存在が邪魔だったのではないか、と言われています(諸説あり)。

これには勝元だけでなく、そのライバルだった山名宗全も「さすがにやり過ぎだ」と憤りを覚え、二人で義政に貞親の処分を要求。

有力者二人に迫られては義政もうなずくしかなく、貞親は京から追放されることとなりました。

これが「文正の政変」と呼ばれる事件ですが、後に義視の運命を再び左右することになろうとは・・・


さて、どうにか義政と和解した義視でしたが、翌1467年には応仁の乱が幕を開けます。

義視は細川勝元と親密な関係にあり、とうぜん勝元がリーダーを務める東軍を支持する立場をとりました。

一方の勝元も、1月に起こった畠山軍どうしの戦いで宗全に遅れをとった(前回の記事参照)分を挽回すべく、

どうにかして室町幕府に東軍の後ろ盾になってもらい、「官軍」として大義名分を得たいと考え、様々な工作を行ったようです。

それが功を奏したのか、6月には将軍・義政から幕府軍が用いる「旗」を受け取り、一応「官軍」となることに成功します。

これと前後して、次期将軍として義視を推す態度も明確にし、義視を西軍討伐の総大将として擁立することも決めました。


勝元という有力者がバックについているからとはいえ、義視もさぞかし張り切ったことと思われます。

この時期の義視は幕府内で西軍寄りと思われる武将や役人を追放、あるいは処断するなどしており、

「自分こそが次の将軍である!」という権威や影響力を確立させたかったのだと考えられています。

(ただし、義視みずからが戦場に赴いて指揮をとったり敵の兵と戦ったりしたことはないようです。)


ところがどっこい、そう簡単に事が収まらないのが「応仁の乱」のややこしいところ。

幕府から「賊軍」と見なされ、劣勢に立たされていた西軍の大将・山名宗全にも奥の手がありました。

それは、開戦時から助力を頼んでいた守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)の存在です。


戦国時代の大内氏といえば、公家文化に没頭して家臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれた

大内義隆(よしたか)のイメージから、大したことないと思う方も多いかもしれませんが

室町時代の大内氏は、周防・長門(現在の山口県)を中心に中国・四国・九州北部にまたがる大勢力を誇り

幕府の政治にもたびたび影響をおよぼした、日本でも指折りの有力守護大名だったのです。

1467年8月、その大内氏が西軍に加勢し、3万という大軍を率いて上洛(京に入ること)したという情報が流れると

大内氏の威信を恐れた東軍や幕府内の武将の中からも、西軍に鞍替えしようとする者が次々と現れました。

そんな中、義視がとった行動とは・・・


「東軍総大将の地位を捨てて、逃げる。」


という、何とも無責任なものでした。 これには勝元も呆れていたかもしれません。

義視は京を脱出すると、伊勢(現在の三重県)でいくつかの城を転々とし、京での合戦が一段落するのを待ちました。

業を煮やした義政の説得によって義視が京へと戻ってきたのは、1468年9月のことです。

合戦が長期化し、将軍家の跡継ぎ問題もウヤムヤになりかけていたので、一度話を整理する必要もあったのでしょう。


ところが(もう何回目だこれ)、義視にとってどうしても許せないことが起こります。

それは、以前「義視が謀反を起こす!」というウワサを流して追放されていたはずの伊勢貞親が、

いつの間にか義政の側近として復職していたことでした。

どうやら、政治家として有能だった貞親を、義政が許して復帰させたらしいのです。


貞親が兄の近くにいたら、またいつ自分があらぬ疑いをかけられるかもしれない。

それに、そんな奴を近くに起きたがる兄貴も兄貴だ・・・!



「お前を絶対次の将軍にする!」という義政の約束も、今の義視にはもうどうでも良くなっていました。

再度の家出を決意した義視は、京を脱出して比叡山へと身を隠します。

しかし、その10日ほど後、彼は山名宗全と共に西軍の陣地の中にいました。

どうやら義視の家出を聞きつけた宗全が、義視に西軍入りを説得していたようなのです。


というのも、前述のとおり「賊軍」のレッテルを貼られた西軍が「官軍」の東軍と互角に戦うには

兵力の面もさることながら、東軍に匹敵する大義名分が必要だと宗全は考えていました。

そこで、疎んじられたとはいえ将軍候補だった義視を抱き込み、自分たちの幕府を作ってしまえばいい、と。


こうして、義視は”西軍を正当と認める幕府”の将軍に祭り上げられ、本家の室町幕府と同じ政治機構を備えた”第二の幕府”が出現することになったのです。

もちろんこれを認めるわけにはいかない義政は、義視と西軍の幕府を『朝敵(朝廷、つまり日本にとっての敵)』とし、ここに義政と義視の関係は完全に決裂。

跡取りについても義政は手元に残った義尚を推す形になり、開戦以来の対立の構図が覆されることになったのです。


・・・自分で書いてて言うのもどうかと思うけど、長すぎましたね今回。

2回に分けても良かったのかなぁとも思いましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。

次回はもうちょっとコンパクトにまとめたい、応仁の乱終息に向けた流れを見ていく予定です。

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