そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
日記、雑談、戦国、FX・・・まだまだ増えるかも? 気の向くままに言葉をつづります。
【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・5 応仁の乱!の後始末

こんばんは。

いつもの連載企画、今回は金曜日の公開となりました。

「落日 ~室町幕府、終焉への道~」応仁の乱編、今回が最後のつもりです。

足掛け11年にわたって続いた大乱の終息と、そこで行われた後始末の様子を見ていきます。

前回の反省を踏まえ、コンパクトにまとめていきたいと思いますが、果たして?

それでは、今回もしばしお付き合いください。


室町幕府における政治の主導権争いと、将軍家や守護大名家の跡継ぎ争いが積もり積もって勃発した応仁の乱

前回の記事では、将軍・足利義政の弟で、「後継者にする」という約束を反故にされたと思い込み

東軍から西軍に鞍替えしてしまった足利義視(よしみ)の動向を中心に、応仁の乱のグダグダぶりを紹介しました。

この間も京の市街地だけでなく全国各地で両陣営による小競り合いが発生し、国内は荒れていく一方でした。

そもそも「何がどうなったら勝ち」という明確な勝利条件が見えないため、とりあえず目の前の敵を叩くという状況が続いていたのです。

現地で戦う兵士や武将だけでなく、両軍の指揮官すらもこの戦いの意義を見出せなくなってきていました。


応仁の乱 対立軸まとめ2


乱の勃発から6年目となる1472年、西軍を率いる山名宗全は、東軍のリーダーである細川勝元に対し

「日本全体が疲弊しているし、そろそろ戦いも終わりにして仲直りしないか?」と和睦を提案しました。

以前は義視を将軍として第二の幕府を立ち上げ、西軍の正当性を主張してきた宗全でしたが

戦いに終わりが見えず、また自身も70歳という高齢だったため、生きているうちに一応の整理をつけたかったようです。

勝元にしても、東軍が優勢な状況での和睦であれば異論はなく、「乱を終わらせたい」という思いは宗全と同じでした。


しかし、トップの二人が合意しても実際に戦っている大名や武将たちが首を縦に振らなければ、戦いは終わりません。

実際、東軍では赤松政則(山名氏に領地を奪われた)、西軍では大内政弘や畠山義就が和睦に反対したとされています。

そうこうしているうちに、翌1473年3月に宗全が没し、その2か月後には勝元も世を去ってしまいました。

応仁の乱における両陣営を主導してきた2人の死で、ますますこの戦いの意義は薄れていきます。

両者の死から1年後の1474年、細川氏と山名氏は正式に和睦を果たし、ここに両者の対立は解消されました。

細川氏の代表者は勝元の子の細川聡明丸(後の政元)、山名氏の代表者は宗全の孫・山名政豊でした。


これと前後して、応仁の乱の重要な争点となっていた「将軍家の跡継ぎ争い」にも、大きな動きがありました。

1473年の12月、将軍・足利義政は自分の実子である足利義尚(よしひさ)に将軍職を譲ることを表明したのです。

「義視か義尚か」で東西両軍の主張が分かれた論争にも、一応の決着がついた形です。

細川氏と山名氏が和解し、将軍家の跡継ぎ争いも決着したなると、東西両軍が争う理由はもう無いようにも見えますが、

それでも応仁の乱が終わらなかったのは、戦いをやめたくてもやめられない事情を抱えた人間が(主に西軍に)いたからです。


まずは、義政の跡継ぎ争いに敗れる形になった足利義視

義政の側近・伊勢貞親が流した噂のせいで幕府にいづらくなった(前回参照)という事情はあったものの、

勝手に義政のもとを離れ、あまつさえ本家の幕府に敵対することになってしまった自分は、今さら兄に許してもらえるのか。

とりあえず、「すべては貞親の流した噂が始まりだったんだ・・・」という趣旨の釈明の手紙を兄に送ることにした義視。

それを見た義政も、すでに貞親が亡くなっていたこともあり、義視本人にも悪気があったわけではないと判断し、許すことにしたようです。

(兄弟ふたりが会談し、義視の罪を問わないことを正式に約束したのは1478年のことだそうですが。)

とはいえ西軍の諸将に持ち上げられている状態の義視は、すぐに東軍を支持する幕府に帰ることもできません。

乱の末期、義視は西軍支持者で義視の処遇にも同情的だった、美濃の土岐氏を頼って京を離れていったのでした。


続いて、山名宗全の"切り札"として大軍を擁して西軍に参加していた大内政弘

自分の軍勢が打ち破られた訳でもないのに、東軍に降伏しなければならないことに納得ができませんでした。

しかも、今の西軍は大義名分のない”賊軍”ですから、このまま戦いが終われば守護大名としての自分の立場も危うい。

そこで、政弘がとった手段は「大内氏の財力による幕府への献金作戦」でした。


瀬戸内海や関門海峡などに多数の港を支配する大内氏は、明(中国)との独自の貿易ルートを確立していました。

そこから得られる金銭や貴重品の数々は、大内氏の経済力と軍事力を支える要因となっていたのです。

これに対し、室町幕府は長引く戦乱の影響で収入源と支出増が重なり、財政難に陥っていました。

『義政の妻・日野富子が蓄財や金貸し事業に積極的だった』という通説も、実は幕府の財政を立て直すためだったともいわれる)


政弘は降伏への支度金として幕府に多額の献金を行う見返りに、大内氏への処分が寛大なものになるよう交渉しました。

その結果、大内氏の領地や守護の地位はそのまま維持され、政弘自身も一切責任を問われないことになりました。

この条件に納得した政弘は京から軍勢を引き上げ、本国へと帰っていきました。 1477年11月のことです。

教科書などでは、この大内軍の撤収をもって応仁の乱の終わりとされることが多いです。


そして、一番この戦いに積極的に関与したと思われる畠山義就の場合。

彼のモチベーションは畠山政長を倒して畠山一族の主になる!」というものだったため

細川と山名が和睦しようが、将軍家の跡継ぎが決まろうが、それらは戦いをやめる理由にはなりませんでした。

それどころか、彼の宿敵である政長が義政から「義尚はまだ子供だから、管領になって面倒見てね」と頼まれたことで

義就の政長への敵対心は一気にヒートアップし、もはや応仁の乱すら関係なくなってしまいました。


義就が政長の城を攻めるために京から離れたすきに、大内軍などが京から撤退して応仁の乱が終結。

つまり、応仁の乱の一因になったはずの畠山氏の跡継ぎ争いは、決着するどころかますますこじれて

応仁の乱が終わった後も『場外乱闘』のような形で続いていくという、なんとも不毛な結果となったのでした。

この10年ほど後に起こる『山城の国一揆』も、この両者の争いがからんでいるんですよね・・・ どこまで根に持つ男なんだ、義就。


というわけで、長かった応仁の乱の解説も、どうにかこれで終わります。

次回はようやく本題の室町幕府に戻って、9代将軍となった足利義尚の治世を見ていきます。

第1章「滅びゆく権威」の最終回にするかもしれません。 次週もお楽しみに。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村





コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)

■ コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

▼この記事へのトラックバック(あれば表示)