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【戦国時代】シリーズ「落日」第1章・終 義尚の治世と、世襲問題再び

こんばんは。


さて、前回は金曜日更新となった連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」でしたが、今週は本来の土曜日に更新です。

畠山一族どうしの争いに端を発し、将軍家の跡継ぎ争いも深く絡む形で足掛け11年続いた「応仁の乱」が終息し、

今日の記事の主役は、8代将軍・足利義政から9代目の将軍に指名された、義政の子・足利義尚(よしひさ)となります。

果たして義尚は、応仁の乱で傷ついた室町幕府と足利家の威信を取り戻すことができたのでしょうか? 早速みていきましょう。


前回の記事でもご紹介した通り、義尚は応仁の乱において義政の弟・足利義視(よしみ)と次期将軍の座を争うことになりました。

1473年12月、義政が「次の将軍は義尚にする」と声明を出した時点で義尚陣営の勝利が決定的となったのですが、

当の義尚はわずか9歳(満8歳)であり、将軍になる意味や行使できる権力について、全くといっていいほど理解していなかったと思われます。

そのため、しばらくは義政やその妻・日野富子、そして富子の兄で幕府重臣の日野勝光(かつてる)らが幕政を動かしました。


それから数年経って応仁の乱がひとまず終息し、義尚も青年といえる年齢に成長したことで、幕府も落ち着きを取り戻しはじめます。

1479年、義政は義尚に将軍の本業を任せられる状態になったと判断し、義尚の「判始(はんはじめ)」の儀式を行います。

これは、将軍の後継者が自分の花押(かおう、今で言う署名代わりの印)を、幕府が発行する公文書に初めて添えることを言ったもので

後継者の「将軍としての独り立ち」を意味する、室町幕府が代々慣例として行っていた儀式のようです。

長いこと政治の世界から離れたいと思っていた義政も、ようやく政界から完全引退・・・とはなりませんでした。


なんと義政は、義尚が正式に将軍になった直後から、政治の進め方にあれこれ口出しをし始めたのです。

経験の浅い義尚を助けたいという思いからか、あるいは憧れの存在である祖父・義満のように裏舞台から政治を動かす『大御所』を演じたかったのか

その真意はわかりませんが、現役の頃はあれだけ『政治の世界から離れたい』と思っていたはずなのに

後進に道を譲って周囲からのプレッシャーがなくなった途端に介入したがるなんて、なんとも現金な話です。

これには義尚もありがた迷惑といった具合で、親子仲はあまり良くないものだったようです。

義政と義尚が同じ女性に惚れてしまい、その取り合いで親子ゲンカになったというエピソードも残っている)


幕府内での不協和音だけでなく、日本国内でも応仁の乱を引きずる形で世の乱れがくすぶっていました。

京にほど近い山城国(現在の京都府南部)のとある地域では、まだ決着していなかった畠山一族の争いに嫌気が差した住民が

大規模な国一揆(くにいっき)を起こし、畠山政長・義就の両陣営の国外退去と国人による自治を求めて立ち上がりました。

また、京から離れた加賀国(現在の石川県南部)では、浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)の教えを守る本願寺の門徒たちが結束し

「一向一揆(いっこういっき)」と呼ばれる軍勢を結成、守護の富樫(とがし)氏を攻め倒すという事件も起きました。

世の安定を取り戻したい幕府をあざ笑うかのように、世相は混乱を深めるばかりの状況となっていました。


そんな中、将軍としての指導力を見せたい義尚はある行動に出ます。

それは『将軍自らが軍勢を率い、幕府に反抗する勢力を倒して威光を取り戻す』というものです。

そのターゲットは、近江国(現在の滋賀県)南部を支配する守護大名・六角氏に決まりました。

六角家は勢力増強のために領内にある寺社や公家の荘園を横領し、幕府による返還命令も無視し続けた、というのがその理由です。

約2万の幕府軍を率いて京を出陣する義尚の武者姿を一目見ようと、京の住民が沿道にごった返したともいわれています。


しかし、近江での戦いは一進一退の戦況となり、幕府軍の遠征は1年以上も続きました。

幕府軍の士気も下がり始めた1489年、まさかの事態が発生してしまいます。 それは・・・


義尚、陣中で病に倒れ急死(享年25)。


大将を失った幕府軍はどうにか京へと撤退しましたが、それより問題なのが『次の将軍をどうするか?』です。

まだ若かった義尚には跡継ぎになる子がおらず、例によって足利家の親族の中から適任者を見つけることになりました。

そして、次の将軍候補として名前が挙がったのは2人。

一人目は、義政の弟・義視の子で、父とともに美濃に滞在していた足利義材(よしき)

もう一人は、これも義政の弟・足利政知(まさとも)の子で、京の天竜寺に入れられ僧侶となっていた清晃(せいこう)

ちなみに、ここで初めて出てきた足利政知という人物は、義政の命令により関東地方に出張中。

後に『戦国大名の元祖』とも言われる北条早雲の出世物語にも関わる人なのですが、ここでは説明を省きます。


もちろんここも、将軍候補者本人たちの意思ではなく周囲の大人たちの目論みがものを言う場面です。

義尚の両親だった義政・富子夫妻は、義材を支持。 管領を長く務めた幕府の重鎮・畠山政長も、義材を支持しました。

出家している人物をわざわざ還俗させるより、幕府のことをよく知っている義視を父に持つ義材が有利であるのは確かです。

一方、清晃を支持したのは細川勝元の子で、若くして管領職を務めた経験もある細川政元でした。

応仁の乱で東軍の大将だった勝元を父にもつ政元は、西軍の中心人物だった義視の子どもが将軍になることに反対でした。

また、細川家と同じ『三管領家』の一つである畠山家の家長・政長が、これ以上発言力を持つのも面白くないと考えたようです。


結局、次の将軍は義材と決まり、義視と義材の親子は美濃から京へ戻ってくることになります。

ところが、この時期になって足利家に不幸が重なります。

まず1490年1月に、8代将軍・義政が死去。 同じ年の10月には、義材の母で富子の妹・日野良子が亡くなり、

翌1491年1月には義材の父である義視もこの世を去ります。 4月には清晃の父・足利政知も亡くなりました。

(余談ですが、しつこく畠山政長の首を狙っていた畠山義就も、1490年12月にひっそりと世を去っています)


足利家の中核を担ってきた要人が次々といなくなり、第10代将軍に就任して間もなく孤立する形となった足利義材。

そして、この時を狙っていたかのように、細川政元の前代未聞のたくらみが着々と動き始めていたのでした。

そして、室町幕府が存亡の危機に立たされる「明応の政変」へと進んでいくのです・・・。


というあたりで、本シリーズの第1章「滅びゆく権威」は結びとします。

第2章は「流浪する将軍」というタイトルで、戦国時代の荒波に翻弄され続ける将軍家の苦闘ぶりを見ていきたいと思います。

なお、次回の記事は章の変わり目の小休止として、「室町・戦国時代のお家騒動」をテーマに記事を書く予定です。

この後もどうぞご期待ください。

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