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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・2 操り人形と臥薪嘗胆、2人の将軍

こんばんは。

今週も、土曜日がやってまいりました。

シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」は、前回から第2章「流浪する将軍」に入りました。

前回の記事では、管領(かんれい)として将軍を補佐する役割だったはずの細川政元(ほそかわまさもと)が京で反乱を起こし

室町幕府10代将軍・足利義材(あしかがよしき)を将軍位から追い落とし、さらにその身柄を拘束した『明応の政変』をご紹介しました。

今回は、次のターニングポイントとなる『細川政元の暗殺』までの時代の流れを見ていきます。(←あら、ネタバレ!)


前回までのおさらいになりますが、政元が義材に対して反乱を起こしたのは、応仁の乱における先代の因縁が深く関わっていました。

政元の父・細川勝元は応仁の乱で東軍のリーダーを務め、細川一族は一貫して室町幕府寄りの態度でした。

一方、義材の父・足利義視(あしかがよしみ)は8代将軍・足利義政の弟でありながら

西軍の大将・山名宗全(やまなそうぜん)の誘いに乗って室町幕府を離れ、両軍の対立を長引かせました。


応仁の乱が終わると、義政の跡を継いだ9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が若くして亡くなったため

年頃に成長した義材が次の将軍に適任だと判断され、その父である義視も政治の中枢に関与する権力を得る事になりました。

政元には、一度は幕府(および東軍)に背いた義視が幕府の政策を左右するという現状が、許せなかったのかもしれません。

明応の政変が起きた時には義視は亡くなっていたのですが、その息子を将軍の座から引きずり下ろすことで溜飲を下げた、というところでしょうか。


また、この政変で細川家と同じ三管領家過去記事で解説)の一つである畠山家の有力者・畠山政長(はたけやままさなが)を亡き者にしたのも、政元にとって大きな成果でした。

畠山家は応仁の乱の後も内紛状態が続き、その当事者で最後の生き残りだった政長が死んだことで、政界に介入する力をほぼ失いました。

また、もう一つの三管領家・斯波(しば)家も応仁の乱で大きく力を削がれていました。

そのため、三管領家で唯一勢力を保った細川家が管領の地位を専有する状態となり、政元の権力は揺らぎようのない強固なものとなったのです。


政元は、義政の弟・足利政知(あしかがまさとも)の子である足利義澄(あしかがよしずみ)を第11代将軍として擁立しました。

それまでの将軍がある程度自分の意思で政治を動かすことができたのに対し、義澄は政元によって政治に介入する手段を奪われ、政元の『操り人形』と化してしまいました。

もともと政治家として優れた才能を持っていたという政元には、『自分のやることに反対しない人間』が将軍になった方が、好都合だったのです。

『幕府の最高権力者である将軍と、それを補佐する管領』という室町幕府の大原則が、政元によって完全に覆されたわけです。

これが、最近になって『明応の政変』が起こった1493年戦国時代の始まりと考えるべきだ」と主張する研究者が増えている根拠でもあります。

(余談だが『戦国大名の元祖』と称される北条早雲が、大名として独り立ちしたのも1493年だったといわれる)


一方、『明応の政変』で将軍職から追放された義材は、その後どうなったのでしょうか。

出陣中の河内から強制連行され、京に軟禁されることになった義材ですが、彼は完全に孤立したわけではありませんでした。

政元のあまりに強引なやり方に反感を覚えた武士たちは義材を支持し、彼らの助けを得て義材は軟禁先を脱出。

しかし、もはや京には義材の居場所はなく、義材は不本意ながら再起をかけた「都落ち」を選択することになります。

彼が目指したのは、今は亡き側近・畠山政長の領国で、その守護代を務めた神保(じんぼ)氏が治める越中(えっちゅう、現在の富山県)でした。

義材はこの地で政元を打倒するための策を練ったとされ、当時の人は彼のことを「越中公方(くぼう※)」と呼んだともいわれています。

(※「公方」は将軍とほぼ同じ意味の、当時の呼称)


時は流れ、明応の政変から6年後の1499年。

越中で兵力と英気を養った義材は、将軍位復帰を目指して越前(えちぜん、現在の福井県)を経て京を目指します。

一方、「義材挙兵」の報を受けた政元も黙ってはおらず、幕府やそれに従う守護大名の兵を動員し、両軍は近江(おうみ、現在の滋賀県)で激突。

その結果は政元陣営の圧勝に終わり、敗れた義材は再び逃亡の身となってしまいました。

義材が次に頼ったのは、応仁の乱で西軍の主力として活躍(?)し、父・義視とも交流があった周防の大内氏でした。


まさに「臥薪嘗胆(がしんしょうたん、苦しみに耐えて再起を誓うこと)」といった感じの義材ですが、それが報われる日は来るのでしょうか?

そして、将軍さえも自分の意のままに操り、もはや『向かう所敵なし』の政元も、

実は大きな”弱み”を抱えており、それが彼の命を縮めることになろうとは・・・!


次回「政元 死す」  御家騒動、スタンバイ! (←遊○王かよ)


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