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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・4 細川政元亡き後のグダグダ ~ショーグン・リターンズ~

こんばんは。

皆さまお待ちかね(待ってねーよ)、連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」のコーナーです。

前回の記事では、室町幕府10代将軍・足利義材(よしき)を京から追放し、傀儡(かいらい)として足利義澄(よしずみ)を11代将軍に擁立したことで

幕府の実権を完全に掌握して『我が世の春を謳歌(おうか)する』状態を築いた細川政元(ほそかわまさもと)の最期までをお伝えしました。

このとき、西暦1507年。 皆さまご存じの戦国時代の英雄たちが生まれるまでにはもう少し間がありますが

彼らが活躍する背景には、この特集で紹介している室町幕府の衰退と権力争いの構図があるわけですので

もうちょっとだけ、この知らない名前ばかりのゴタゴタ劇にお付き合い頂きたく存じます。


さて、暗殺された細川政元には実の子どもがおらず、3人の養子をとって育てておりました。

このうち、政元の後継者に事実上内定していたのは、細川家の分家から養子に入った細川澄元(すみもと)でした。

それに対し、一番先に政元の養子に迎えられ、一時期は政元の後継者として期待されていた細川澄之(すみゆき)は面白くありません。

以前の記事で紹介した通り、この時代の大名家における親子間の相続は

跡継ぎになれた子とそうでない子で「天国か地獄か」くらいの差を生むものでしたので

澄之本人だけでなく、彼の親族やその家臣たちの中にも「何としても澄之を跡継ぎに!」という思いが高まっていました。

ついには「跡継ぎは澄元」と言い続けて譲らない政元を、澄之の家臣が暗殺するという悲劇が起こってしまったのです。


その後、澄之の家臣たちは澄元本人も亡き者にしようとしましたが、身の危険を察知した澄元は京を脱出。

近江(現在の滋賀県)に逃れた澄元は、「養父を討った謀反人・澄之を討つ」という名分を掲げ、親族や近隣地域の兵を集めました。

さらに、政元の3人目の養子である細川高国(たかくに)も澄元を支持して澄之を討つべきだと主張し、澄之は細川家中で孤立することになります。

結局、政元の死からわずか2か月後には澄之は澄元・高国の連合軍から猛攻撃を受け、あえなく自害。 

養父を亡き者にしてまで家督を狙った澄之の野望は、あっさり潰えてしまいました。


これで澄元の当主就任が決定的になったかというと、そうでもありませんでした。

「澄之を倒すべし」という意見では一致していた高国も、当然のように細川家の当主の座を狙っていたのです。

優勢な澄元に対し、一発逆転を狙った高国が頼った相手というのが・・・ テレビならここでCMに行きそうなもんですが、そのまま続けます。


高国は、応仁の乱でも大きな影響力を発揮した西国の大大名・大内氏の力を借りることにしたのです。

その財力・軍事力もさることながら、大内氏にはもう一つの『武器』がありました。  前将軍・足利義材(この頃は『義尹(よしただ)』と改名)の存在です。

澄元が現将軍・足利義澄を擁している関係上、高国がそれに対抗するためには別の将軍候補を擁立することが重要だったのです。

対する大内氏の当主・大内義興(よしおき)も、政元が倒されて京が混乱している今こそ、大内氏が中央政治に介入する絶好のチャンスだと考え、高国との連携を承諾。

こうして、細川澄元・足利義澄という政元の路線を受け継ぐ勢力と、細川高国・足利義尹+大内義興による対抗勢力がぶつかり合う構図ができあがります。


翌1508年、澄元陣営と高国陣営による戦いが勃発しましたが、高国が味方につけた大内氏の影響力はやはり大きく

大内氏の大軍を恐れた近畿地方の大半の武将が高国に味方したことで、澄元と足利義澄は京を追い出され、近江へ逃げます。

そして大内義興とともに京に入った足利義尹は、この年の7月に将軍の地位に就き、流浪の身から『返り咲き』に成功したのです。


しかし、これは『将軍経験者どうしによるドロ沼の争い』という、前代未聞の動乱の序章に過ぎなかった・・・。

次回、『船岡山(ふなおかやま)は燃えているか!?』にご期待ください(サブタイトルは変更になる場合があります)

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