そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
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【人生(仮)】自分が望まない未来を避けるために、今何ができるのだろうか?

こんにちは。

仕事が休みで自宅に居がちになると、いろいろと考えることが多くなってしまいます。

今日はそんなグルグルした思いについて、新カテゴリー【人生(仮)】の力を借りて書いてみます。


ここ最近、仕事から帰って決まってみてしまう動画があります。

ある意味ちょっと刺激が強いかもしれませんので、ご注意ください。



今からおよそ20年前に制作されたドキュメンタリー番組が元ネタらしいのですが

内容をまとめると、失業をきっかけに妻子と住む家を失った50代(当時)の男性が

70代(当時)の母親が受け取る年金から家賃や生活費の援助を受け、アパートの一室で一人で暮らす様子が描かれています。

「人生に疲れた」と言って仕事を探すのも諦めて引きこもり、母親が知り合いの便利屋に頼み込んで働かせてもらっても長くは続かず

最後には母親からの援助も打ち切られることになり、社会との唯一の接点だった便利屋の男性からも罵声を浴びせられ・・・という所で終わっています。

2017年現在、この男性は(生きていれば)70歳を過ぎているはずですが、どうしているのでしょうか?


私がこの動画(と男性)から目を離せないのは、他人事とは思えないからかもしれません。

取材当時と現在、そして将来を単純に比較することはできないかもしれませんが、

少なくとも日本では『働く』ということに対する物理的・精神的なハードルが果てしなく上がっていっている気がします。

表向きは「人手不足」といいながら、実際に不足しているのは「海外や同業他社との競争に勝ち抜ける能力や技術を持った人材」だけで

これまで高く評価されてきた「テストや通知表で好成績を収め、偏差値の高い大学を卒業した」人でも苦戦しているばかりか

「少し前なら、どこかの会社で採用されていた」はずの多くの人間が、もはや正社員としては通用しないようになってきています。

(個人の資質だけでなく、経済成長の頭打ちや経費節減の名目で人件費を減らす企業など、構造的な問題も大いに絡んでいますが・・・)


まして、歳を取れば取るほど仕事の能力を身につけ、その分待遇や収入の向上が期待できた「年功序列」の原則が崩れ

今は多くの企業で「成果主義」を全面に押し出し、「即戦力求む!」といって優秀な新卒者のみを正社員のターゲットに絞り

その他大勢の人員は解雇や調整がしやすい契約社員・派遣社員として雇い入れ、業績が悪くなればそこから切り捨てる。

彼らを「使える人材に育てる」という考えは無く、「使えなくなったら新しいのと替えればいい」と消耗品のように扱う。

これらが私の偏った見方に過ぎなければいいのですが、昨今のテレビや新聞の報道からはそんな雰囲気を感じるのです。


本題に戻すと、この映像の男性がここまで落ちぶれてしまったのは、本人だけの責任だったのかなぁ、と。

確かに、ひとつのトラブルで(長年勤めたであろう)職場を捨て、そのストレスを妻や子どもにぶつけたのはまずかっただろうし

失業者や求職者が受け取れるはずの給付金を受け取っている様子もなく、ハローワークや役所などにも足を運んでいないとなると

金銭面だけでなく人間関係や体調にも不調が出てきて、「人生に疲れた」となっても自業自得じゃないか、と感じる自分がいます。

まして50を過ぎて働こうとせず、親のスネをかじっている状態ですから「しっかりしろ!」と周りが言いたくなる気持ちも分かります。


それでも、20年後に50代になった私が、この男性とそっくりになっている可能性だって、否定はできないのです。

私も長年追いかけていた教職の道を諦め、その過程で心身の調子も崩し、不安定な雇用形態で生活を成り立たせています。

今の職場も知り合いの紹介が無ければ縁が無かっただろうし、下手をすれば現在も無職が続いていた恐れもありました。

とはいえこのまま進展が無ければ、年をとればとるほど仕事の当てもなくなり、社会的に肩身の狭い存在に落ちていくのは目に見えています。

繰り返しになりますが「若いうちに社会で結果を出せなかった人」は、「歳を取ったら仕事をしたくても雇ってもらえない人」になっていく未来が迫っているのですから(あくまで私自身の観測です)。


・・・では、この男性はどうすれば良かったのか。  いくら考えても、納得のいく答えは出ません。

なぜなら「あの時こうすればよかった」は結果論に過ぎず、どんなに優れた人間でも過去を変えることはできないからです。

「我慢して職場にしがみついていれば・・・」 「妻に謝ってヨリを戻せていたら・・・」 「もっと働く意欲を見せていたら・・・」

これらの「たら」「れば」をいくら並べても、過去をやり直せるわけではないし、苦しい現状が劇的に良くなることもないのです。

それは、私や他の人の人生においても全く同じで、自分の過去の失敗に起因する負債は、自分で抱えて生きていくしかありません。

もちろん周りの誰かに相談して借金や悩みなどを軽くすることは大事ですが、最後に責任を負うのは自分自身でなければならないのです。


こういうと「貧困やワーキングプアも自己責任なのか!?」と問い詰められそうですが、私はむしろ「自己責任」という言葉は嫌いで

何らかの助けを求めている人には周囲から手が差し伸べられるべきだし、そういう社会であってほしいと思っています。

でもそれはその人の「現状」を立て直し、「将来」を良くするための行為であって、その人の「過去」を埋め合わせることは誰にもできない。

「もっと勉強していたらこんなことにはならなかった、だから自己責任だ」

「もっと仕事ができるように努力していたら、こんなことには(以下略)」

「もっと人生を頑張っていたら(以下略)」


こういう事を言う人はネット上にごまんといますが、その人の過去にいくら文句を言ってもどうしようもないじゃないですか。

他人を批判しているようで、実は自分自身や国の社会制度への怒り・不満も込められているのかもしれませんが

どうやったら現状を抜け出せるか、将来を少しでも良くするためにはどうすればいいか、を考えた方が建設的なような。

それを考えることは、自分自身の現状や将来をよりよくする練習にもなるのでは。


植松努さんの言葉を借りれば『だったらこうしてみたら?』と今からできることをやってみて

一人でも多く、一つでも多くの夢が叶ったら、それはその人にとっても社会にとっても、きっと素敵なことですよね。

そのために、今ある負債ばかりを見つめるのではなく、今ある財産(人的・物的・精神的)を活かすことを考えていきたいと思います。

明日の仕事からでも、それを実践していけたらいいな・・・と思いつつ、今日はここまでとします。

ありがとうございました。

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