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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・7 ついに戦国時代の本番? 12代将軍・足利義晴の数奇な運命

こんばんは。

土曜日ということで、今度こそ本当に(汗)シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りします。

第2章に入ってからは室町幕府とその将軍の動きよりも、それを影で操りたい細川家一門内での争いがメインになっていましたが

今回紹介するのは、室町幕府の将軍としては久々に(?)その存在感を発揮することになる、12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の前半生です。

それではさっそく、前回の復習も兼ねて彼がこの世に生を受けたところから見ていくことにしましょう。


足利義晴は1511年に、11代将軍・足利義澄(よしずみ)の子として生まれました。

幼名(成人する前の名前)は『亀王丸(かめおうまる)』と名付けられ、この記事でもしばらくはこの名前を使用します。

義晴には後に紹介する足利義維(よしつな)という兄弟がいますが、どちらが兄だったのか専門家の間でも意見が分かれています。 

ここでは詳しい説明は割愛しますが、この義維も後に義晴の人生を大きく左右することになるので、その名前を憶えておいてください。


さて、亀王丸(義晴)が生まれた当時、義澄は前の将軍・足利義尹(義稙)細川高国に将軍の地位を追われ、京から近江に落ち延びていました。

それでも義澄は将軍返り咲きを狙い、自分を支持して高国と対立した細川澄元と連携をとり、京と将軍位を奪回するため挙兵します。

ところが・・・以前の記事で紹介した通り高国軍との決戦を前に義澄自身が急死したうえ、

その直後に行われた『船岡山の合戦』でも義澄・澄元軍は高国軍に惨敗を喫してしまいます。

その後、亀王丸も高国に捕まったものの、まだ生まれて間もない幼子のため命は取られず、

播磨(現在の兵庫県)・備前(岡山県)などを治める守護大名・赤松氏に身柄を預けられることになりました。


しかし、将軍家との深い縁から亀王丸の命をつないでくれた赤松氏も、その後思いがけない不運(?)に見舞われてしまいます。

赤松氏の家臣でありながら、備前で力をつけた守護代(守護の配下でその地域の責任者)・浦上(うらがみ)氏が

主家の赤松氏に反旗をひるがえし、合戦になった挙句、赤松軍は家柄では格下の浦上軍にまさかの敗北。 これぞ下剋上

その戦のどさくさで、亀王丸も赤松氏の城から追い出され、浦上氏に連れ去られてしまったのです。 なんと過酷な運命でしょう・・・


一方その頃、京では室町幕府における権力を独占したはずの細川高国も、人に言えない悩みに頭を抱えていました。

その動機は、(お飾りの)将軍として奉じていた足利義稙(よしたね)「アンタとはもうやってられん」将軍職を投げ出し、京から逃げ出してしまったことでした。

しかもその出奔(しゅっぽん、逃げ出すこと)の時期が、新しい天皇の即位式が行われる直前という最悪のタイミング・・・

代々、天皇即位の式典は室町幕府将軍が取り仕切る決まりになっていたのですが、それをすっぽかしての脱走劇に天皇は激怒。

天皇に詰め寄られ、困った高国がどうにか代役を務めて天皇の機嫌を取った、という逸話もあるほどです。

ちなみに義稙の父親は、応仁の乱で東軍の総大将を投げ出し西軍に担がれた足利義視・・・ 歴史は繰り返すというか、血は争えないというか。

逃げ出した義稙は、あろうことか高国の宿敵だった澄元(すでに死去)の子・細川晴元に救いを求めたものの、その2年後に死去しました。


高国が一番困ったのは『将軍がいないと、自分の権力も危うくなる』という点でした。

そもそも管領職の権威は室町幕府と将軍あってのもので、将軍が京にいないのをいいことに

自分が好き勝手に政治を動かそうとしても、他の守護大名達が黙っていないだろうというのが、目に見えていたからです。

将軍家の血を引き、なおかつ自分に逆らおうとしない人物。 高国が求めた、そんな都合のいい人物が・・・いました。

高国が目を付けたのは、そう。 かつて自分が(間接的に)死に追いやった足利義澄の子・亀王丸その人でした。

『亀王丸はまだ子どもだし、適当に機嫌をとっておけば、自分に逆らおうなどとは考えないはず・・・』 高国の目が光りました。

こうして1521年、浦上氏のもとで肩身の狭い思いをしていた亀王丸は、高国に丁重に迎えられ上洛を果たします。

そして、その年のうちに元服(成人になる儀式)をして「足利義晴」と名乗り、11歳で室町幕府第12代将軍に就任しました。

こうして、自身の政権を延命させたい高国がかつての宿敵の子を将軍として奉ずるという、奇妙な主従関係が出来上がったのでした。


再び舞台は変わって、高国軍に敗れて配下の勇将・三好之長(ゆきなが)を失った阿波細川家出身の細川澄元陣営では

澄元の遺児・細川晴元(はるもと)と之長の遺児・三好元長(もとなが)が中心となり、打倒高国への執念をくすぶらせ続けていました。

実は彼らには、高国に替わって政治の主導権を握るための『奥の手』があったのです。

それこそが義晴と血を分けた兄弟であり、船岡山の合戦の後に義晴と生き別れて阿波細川家に預けられた足利義維の存在でした。

晴元と元長は、もし京で権威を振りかざす高国の足元が揺らぐことがあれば、すぐさま阿波から軍勢を率いて上洛し

あわよくば高国を追放して義維を将軍に擁立、つまり自分たちが政治の中心に舞い戻ることを企んでいたのでした。


・・・この状況って、何となく『応仁(・文明)の乱』に似ていると思いませんか?

政治の主導権を巡って対立する二つの勢力が、互いに将軍候補を擁立して軍勢をぶつけ合う機会を伺っているという・・・。

しかも今回の動乱で対立しているのは、応仁の乱では(一応)一枚岩だった細川氏の一族。

中央の政治がこんな体たらくですから、各地の守護や守護代、さらに在地の領主までが好き勝手しても止める者もなく・・・。

世はまさに"戦国乱世待ったなし"というところまで煮詰まってきていたのです・・・。


今回の記事はここまでといたします。

次回、ついに高国・義晴陣営晴元・義維陣営の対立が、京の街を巻き込む全面戦争に発展・・・か?(←どこぞのスポーツ新聞かよ)

来週もどうぞお楽しみに。

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