FC2ブログ
そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】大内義隆、出雲を攻める~戦国時代の中国地方10~
まこな。です。

久々に戦国時代ネタいきます。

「戦国時代の中国地方」、10回目です。

※10回到達を機に、この企画のまとめページをつくりました。

ページ左側の「カテゴリー」→「戦国時代まとめ」からご覧いただけます。

お時間のある時にどうぞ。

‐‐‐‐‐‐



尼子軍が安芸・吉田郡山城攻略に失敗した1541年。

その尼子氏を山陰地方の強豪に育て上げた尼子経久(つねひさ)が

出雲・月山富田城(がっさんとだじょう)で亡くなりました。84歳の大往生でした。

長男は経久より先に戦死していたので、

尼子家は経久の孫の尼子晴久(はるひさ)が継ぐことになりました。


それまで、経久の強力なリーダーシップに率いられてきた出雲の国人衆の中からは、

安芸での大敗で武将としての統率力に疑問符のついた晴久が新たな主となったことを

不満に思い、周防の大内氏に味方しようとする者が現れました。

これに反応するかのように、周防の大名・大内義隆は1543年、

尼子氏と雌雄を決するべく、出雲への侵攻を決意しました。


この知らせは、大内氏との関係を深めていた安芸の毛利元就のもとにも伝わりました。

毛利軍の兵は少数であり、先の尼子軍との戦いの影響も完全には癒えていませんでしたが、

強大な勢力を持つ大内氏からの誘いであれば、断る訳にもいきません。

元就は兵を率い、義隆に従って出雲へと侵攻しました。


出雲では、先に書いたとおり大内氏に味方しようとする国人勢力の助けもあり、

大内・毛利軍は順調に兵を進めていきました。

そして、尼子氏の本拠である月山富田城を包囲したのです。


ところが、この月山富田城は吉田郡山城と同じく険しい山の上にあり、

大内軍はなかなか城に近づくことができません。

また、城を守る尼子晴久も安芸での敗戦から学んだのでしょう、

むやみに兵を突撃させることはせず、じっと守りを固めて迎え撃ちました。

こうして戦況は一進一退となり、時間だけが過ぎていきます。


そんな中、事態を急変させる動きが起こります。

一度は尼子氏を見限って大内氏に味方していた出雲の国人衆が、

晴久の善戦ぶりを見て、再び尼子に加勢しはじめたのです。

たちまち月山富田城の包囲は崩れ、尼子軍の反撃が始まります。

当然、大内軍は混乱に陥りました。


このような合戦中の裏切りや寝返りなどは、

戦国時代においては割と頻繁に起こっていたようです。

特に今回のような小規模な国人領主の場合、

合戦の勝敗よりも自分たちの生き残りが第一のため、

常に有利な側に味方しようと考え、行動していたからです。

「武士は二君に仕えず」という言葉もありますが、

戦国の世ではそうも言っていられなかったようです。
(もちろん、戦国の世にも忠義を大切にした武将は存在しますが…)


こうなってしまっては、元就も逃げるほかありません。

しかもここは敵の領内、文字通り命がけの退却劇となりました。

元就は、家臣を自身の影武者として囮(おとり)にするなどして、

まさに命からがら安芸へ逃げ延びていきました。


一方の大内義隆もどうにか周防・山口までたどり着きましたが、

自身の跡取りとしてかわいがっていた養子の晴持(はるもち)が退却中に事故死。

義隆の落ち込みは激しく、これ以降尼子攻めを言い出すことはなくなりました。

それどころか、山口の自宅にこもり、趣味の世界に没頭するようになります。


こうして、大内氏と尼子氏が相次いで力を衰えさせる中、

元就に勢力拡大のチャンスが巡ってくることになります。

次の転機は約10年後、1551年に訪れますが、

それについては次回お話しすることにいたしましょう。




コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)
出雲の国人衆のインセンティブは、義理、人情よりも自らの生き残りだったのですね。囚人のジレンマではないですが、他人に頼るといいますか、あまり信頼しすぎるのはよくないですかね。期待しないと、やってくれた時の喜びが大きいですね(笑)
常に他人に対して感謝する気持ちでいられるのかもしれません。

記事楽しみにしております。
2015/07/06(月) 22:21:55 | URL | bykidsweet (#-) [ 編集]
Re: タイトルなし
kidsweet さん

いつもありがとうございます!

> 出雲の国人衆のインセンティブは、義理、人情よりも自らの生き残りだったのですね。

戦国時代においては、それぞれの武将が自分の領地や家族を守るために
より強いものの下につく、というのが一般的な考え方でした。
それに飽きたらず、実力を行使して下剋上を果たした武将もいます。

本来であれば武士を統括するはずの幕府の力が弱っていた時代だからこそ
このような風潮が生まれたともいえそうです。

とはいえ、戦国の世では義理や人情が完全に無視されていたかというとそうでもなく、
それらを天秤にかけた上での決断というのが、歴史のドラマ性を作っているのかもしれません。

特にドラマやゲームでは、主への忠義や武将同士の友情?を描いた作品が人気ですし、
見る方も感情移入しやすいですよね。歴史に興味を持つ入口としては良いと思います。

少し話がズレましたかね…すみません。

> 期待しないと、やってくれた時の喜びが大きいですね(笑)
> 常に他人に対して感謝する気持ちでいられるのかもしれません。
>

確かに、見返りを求めて何かをするというよりも、
「返ってきたらもうけもの」という気持ちでいた方が
心おだやかに過ごせるかもしれませんね。
「ギブアンドテイク」「困った時はお互い様」とも言いますし。

> 記事楽しみにしております。

ご期待に沿えるように頑張ります!

それではまた。
2015/07/07(火) 18:54:12 | URL | byまこな。 (#-) [ 編集]

■ コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する