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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・8 高国vs晴元、ようやく決着! 天王寺に散るのは、どっちだ?

こんばんは。

毎週土曜日のこの時間は、連載シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りしています。

応仁(・文明)の乱に端を発し、幕府の中枢を揺るがし続けた権力争いにも、今回ようやく一つの決着がつきます。

互いに(自身の言いなりになる)将軍候補者を擁立して、その裏で権力を握ろうとした細川高国細川晴元

果たして、相手を政界から葬り去って最後に笑ったのはどちらなのでしょうか? さっそく見ていくことにしましょう。


前回の記事が終わった時点で、権力の中枢により近い位置にいたのは、高国の方でした。

高国は10代将軍・足利義稙(よしたね)に逃げられた後、その替わりとして足利義晴(よしはる)を12代将軍に立てて政権を維持していました。

一方、高国の追い落としを図る細川晴元は、父・澄元(すみもと)の実家がある阿波(徳島県)で再起の時をうかがっていました。

晴元にとって心強い味方は、重臣の三好元長(みよしもとなが)と、義晴の生き別れのきょうだい・足利義維(よしつな)です。

高国と義晴の政権に何か不祥事が起これば、その機に乗じて京へと攻め込み、義維を将軍につけようと画策していたのでした。

歴史は繰り返すといいましょうか、かつての『応仁(・文明)の乱』を思い起こさせる一大決戦の時が迫っていました。


そして、今日の『その時』は突然訪れます(←昔の歴史番組のパクリじゃねーか)

1526年、京にほど近いある国の守護を務める高国のいとこが、自分の重臣に言いがかりをつけて自害させる事件が発生します。

処刑された重臣の兄弟らがこれに怒り、高国陣営からの離反を表明すると、その国内はおろか京にも動揺が走りました。

高国の一族が支配する領地では、国人(こくじん、中小の領地を持つ武将たちの勢力)たちが高国の退陣を求めて次々と挙兵

この時を待っていた晴元と元長も、即座に阿波から兵を率いて海を渡り、近畿へと進軍します。

これに各国の反高国派も続々と合流し、1527年に起こった「桂川の戦い」で晴元率いる反高国連合軍は高国軍の主力部隊を撃破。

窮地におちいった高国は義晴を連れて京を脱出、近江へと落ちていきました。


京に入った晴元は当初の目論見通り、義維を新たな将軍にするよう朝廷に働きかけました。

ところが、朝廷もたびたび将軍が入れ替わる事態に頭を痛めていたのか、はたまた高国への遠慮があったためなのか

義維をすぐに次の将軍とは認めず、代わりに歴代の将軍が若い頃に任命された「左馬頭(さまのかみ)」の官位を与えただけでした。

とはいえ、高国・義晴が京にいない今、政治を動かせる立場にあるのが晴元と義維であることに変わりはありません。

義維も「近い将来、将軍になれるならいいか」と納得し、晴元らとともに畿内上陸後の拠点とした堺(現在の大阪府堺市)に戻りました。

これ以降、晴元らは京ではなくこの堺を本拠地として畿内の政治に参加したため、義維を「堺公方(さかいくぼう)」と呼ぶこともあります。


これで立場が逆転した晴元と高国ですが、高国も当然諦めた訳ではなく、相変わらず両者のにらみ合いは続きました。

そして再び、歴史が大きく動く『今日のその時』が・・・(←だからやめろって)


晴元が上洛し、義維が「堺公方」となってから4年後の、1531年。

逆襲の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた高国が、ついに動き出しました。

憎き晴元から京を奪回するため、高国が今回協力をもちかけた相手は、備前守護代の浦上(うらがみ)氏でした。

前回も登場した浦上氏は、義晴がまだ「亀王丸」と名乗っていた時代にその身柄を保護していた家です。

浦上氏の当主・浦上村宗(むらむね)も、かつて世話をした義晴が政権に復帰すれば優遇してもらえると思ったのか、これを受け入れます。

また、晴元の重臣・三好元長が政治の進め方を巡って晴元と険悪な関係になり、阿波へ帰っていたことも高国には良い材料でした。


こうして、高国軍は東から、そして浦上軍は西から、それぞれ堺と晴元の首を目指して進軍を開始します。

軍団の”かなめ”である元長がおらず、兵力も少ない中で2方面から攻められた晴元は苦戦を強いられます。

さしたる抵抗もなく摂津国(現在の大阪府北部)・天王寺まで進出していた高国軍の勝利は、時間の問題かと思われました。


ところが・・・勝ちを確信した高国に、2つの誤算が襲い掛かります。

1つは、晴元の危機を知った三好元長が、すぐに阿波から堺へと戻ってきてしまったこと。

そしてもう1つは、共同戦線を張る浦上軍に裏切りが発生し、戦線が崩壊してしまったことです。


浦上軍を裏切ったのは、赤松晴政(あかまつはるまさ)という武将でした。

赤松氏はもともと備前・播磨などの守護を勤め、浦上氏を家臣として従えていた名門ですが

晴政の父・赤松義村(よしむら)は浦上氏に下剋上を起こされ、最後には命まで奪われてしまいます。

その跡を継いだ晴政の時代には、赤松氏は完全に浦上氏の支配下に置かれてしまっていたのでした。


『父の仇である村宗に、なんとか一矢報いたい』という想いを知ってか知らずか、晴政に裏切りを持ちかけた晴元。

もちろん晴政はこれにすぐさま応じ、晴元軍と対峙する高国・浦上軍の主力の背後を衝いて、大混乱に陥れます。

これで息を吹き返した晴元・元長の主力部隊も攻勢に転じ、戦況は一気に逆転しました。

1531年6月4日、播磨・大物(だいもつ、現在の兵庫県尼崎市)で決戦となり、高国・浦上連合軍は無残に壊滅。 晴元陣営の大勝利となったのでした。

浦上村宗は乱戦の中で討ち死に。 高国も数日後に捕まり(※)晴元の前に引き出され、切腹となりました(享年48)。

※戦場から落ち延びた高国は、尼崎の町の藍染屋の”かめ”に身を隠していたところを発見された、という逸話がある


こうして・・・細川政元の死から20年余りにわたって続いた跡継ぎ争いにも、ようやく終止符が打たれました。

しかし、この争いに生き残った細川晴元には、さらに大きな"難題"が待ち構えていることを忘れてはいけません。

自身が擁立した足利義維と、高国を失ったとはいえ(一応)正式な将軍である足利義晴との関係はどうなるのか。

また、頼れる重臣・三好元長も、一度は晴元の命令に背いて阿波へ帰ってしまっており、晴元に忠誠を誓っているとはいえない様子。

さらには、これから訪れる"戦国時代"に名を馳せることになる、勇将・智将たちが次々と生まれていることも・・・。

(1521年、武田信玄誕生。 1530年、上杉謙信誕生。 そして1534年、織田信長誕生。)


というところで、この連載の第2章「流転する将軍」も次回がいよいよ結びとなります。

室町幕府12代将軍・足利義晴は、細川晴元・三好元長とどのように付き合っていくのでしょうか。

そして、時代は着々と戦国の世へと進んでいきます・・・  室町幕府滅亡まで、あと40年余り(←これも昔あったよなー)

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