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【戦国時代】シリーズ「落日」第2章・終 権力闘争の果てに待っていたものは、群雄割拠の戦国乱世。

こんばんは。

6月から毎週土曜日に更新してきた連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」

今回の記事をもって、全3章のうちの第2章『流浪する将軍』が終了となります。

応仁(・文明)の乱を皮切りに絶え間なく続いた、室町幕府内部での権力闘争。

時の最高権力者であったはずの将軍・足利氏の権威は地に落ち、政治の実権は管領(かんれい)職を務める細川氏の手に渡りました。

その細川氏も一族内での抗争を繰り返した結果、一応は細川晴元(ほそかわはるもと)の覇権が確定しました(おおまかな経緯は前回記事を参照)。


しかし、彼らが近畿地方一帯を巻き込む泥仕合を繰り返している間に、地方の状況は一変していました。

『もはや幕府や管領などあてにならん!!』とばかりに、各地の守護大名やその配下の守護代、さらには名もない領主に至るまで

自らの手腕で領地を経営し、さらには近隣の地域を勝ち取っていこうとする者たち、すなわち『戦国大名』が次々と立ち上がっていたのです。

そこで今回は、これまであえて触れてこなかった戦国時代以前の近畿地方以外の状況について、まとめて見ておこうと思います。

一つひとつの事例にはあまり深入りはしないようにしますので、興味のある方は例によって各自で補習をお願いいたします。


第2章で語った時代に最も活躍した戦国武将というと、やはり北条早雲(ほうじょうそううん)でしょうか。

私たちのよく知る戦国時代において、長らく関東地帯を支配した北条一族の祖であり、”下剋上の元祖”としても知られる存在です。

その生涯や功績については、以前こんな記事でも取り上げているので、ここでは割愛します。

実は彼が戦国大名として名乗りを上げられたのは、この時代の関東地方が混沌とした情勢だったことが要因として大きいのです。


もともと関東地方を治めていたのは、”鎌倉府(かまくらふ)”という室町幕府の出張所的な機関で、その長官も将軍と同じ足利氏の一族から選ばれました。

しかし、次第に将軍を務める足利本家との対立が深まり、6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の時代には一度滅ぼされてしまいます。

その後和解して再興されたものの、今度は長官の部下である”関東管領(かんとうかんれい)”を代々務めた上杉(うえすぎ)氏が幕府や鎌倉府の言う事を聞かなくなり、

”誰が本当の関東地方の責任者なのか”を延々と争った結果、幕府による関東地方の統治機能は完全にマヒする事に。

こうしたゴタゴタが続く関東地方で大名として旗揚げした早雲は、瞬く間に相模(さがみ、現在の神奈川県)を制圧し、戦国大名として歴史にその名を残すことになるのです。

このへんの話も『似たような名前の多さ』とか『人間関係の複雑さ』とかで非常にややこしいのですが、

機会があったら今回の特集の”スピンオフ”的な感じで記事にしたいと思っています。

早雲の”ライバル”として何度も戦った関東管領の副将(?)・太田道灌(おおたどうかん)など、放っておくには惜しい人物も登場しますので。


さてさて・・・この後はどうしましょうか。

地方でくくるのもいいですが、戦国大名が持つそれぞれの背景でくくった方が分かりやすいですかね。

では、まずは室町時代に”守護大名”だった家がそのまま戦国大名化したところから。

シリーズの過去記事で何度も登場した大内(おおうち)氏は、その代表格ですね。


大内氏については、このシリーズでも応仁の乱で活躍した大内政弘(まさひろ)と、その子で足利義稙を将軍に返り咲かせた大内義興(よしおき)の事をお伝えしました。

その背景には、周防・長門(すおう・ながと、ともに山口県)を中心とした広大な領地と強大な経済力・軍事力がありました。

そして、足利義晴の時代には義興の子・大内義隆(よしたか)が当主となっていましたが、この義隆がまぁなんというか・・・はい。

本人の名誉のため(!?)ここでは詳しく書きませんが、戦国大名としてあまりいいイメージではないのは確かです。

山口県は幕末・維新の長州藩のイメージが強すぎることも、大内氏が今一つ有名になれない要因なのか・・・ いえ、独り言デスヨ?


他に”守護大名”から戦国大名になったのは、甲斐(山梨県)の武田(たけだ)氏、駿河(静岡県)の今川(いまがわ)氏、近江(滋賀県)南部の六角(ろっかく)氏

播磨(兵庫県)の赤松(あかまつ)氏、但馬(兵庫県)・因幡(鳥取県)の山名(やまな)氏、豊前(大分県)の大友(おおとも)氏、薩摩(鹿児島県)の島津(しまづ)氏など。

ちょっと特殊な経緯(※)ですが、幕府から陸奥(むつ)国守護の職を与えられていた伊達(だて)氏もこれに含まれると思います。

(※)戦国時代の”陸奥”は現在の青森・岩手・宮城・福島の4県にまたがる地域の総称であり、当時の伊達氏が支配したのはその中の一地域にすぎない。


続いては、地域の支配者だった守護大名に成り代わって、戦国大名にのし上がった家を紹介。

守護大名の配下であり、多忙な守護本人の代わりにその地域の統治を任されていた”守護代(しゅごだい)”の中からも、独立し大名となる者が現れました。

代表的なのが、越前(福井県)で斯波(しば)氏の守護代だった朝倉(あさくら)氏

応仁の乱のさなか、主家である斯波氏が御家騒動のゴタゴタで領国経営もままならない状況になったところに

越前守護代であった朝倉孝景(たかかげ)が立ち上がり、そのまま越前の支配者となったものです。

まさに絵に描いたような”下剋上”ですが、これも幕府の支配力や(一部の)守護大名の権威が弱まったことによるものでしょう。


同様の経緯で守護代から戦国大名化したものでは、後に上杉謙信を世に送り出す越後(新潟県)の長尾(ながお)氏をはじめ

越中(えっちゅう)の神保(じんぼ)氏、備前(岡山県)の浦上(うらがみ)氏、出雲(島根県)の尼子(あまご)氏などが挙げられます。

また、”戦国時代最大の英雄”ともいえる織田信長を輩出した尾張(愛知県)の織田(おだ)氏も、もとは斯波氏に仕える守護代の家柄で

もっと言うと信長の祖先は守護代を務めた本家の出ではなく、分家筋から織田氏を率いる存在になっていったのです。 これも一つの”下剋上”ですね。


おしまいに、守護でも守護代でもない、まさに”草の根”のごとく立ち上がった戦国大名たちを見ておきます。

この中で一番の有名どころは、安芸(広島県)を拠点に中国地方をほぼ統一するに至った毛利(もうり)氏かと。

前述の大内氏・尼子氏という二大勢力に挟まれた状況から、戦略と智謀を駆使して毛利氏を地方の覇者に押し上げた毛利元就(もとなり)の人生は、まさに戦国ロマンそのもの。

”稀代(きだい)の謀将”ともいえる元就のサクセスストーリー(?)は、こちらからご覧になれます。 ずいぶん昔の記事ですが・・・


ほかに地方の一領主から戦国大名の地位を手に入れた武将では、近江北部の浅井(あざい)氏や信濃(長野県)北部の村上(むらかみ)氏

土佐(高知県)の長宗我部(ちょうそかべ)氏に肥前(佐賀県)の龍造寺(りゅうぞうじ)氏など、多彩な顔触れ。

少し時代は違いますが、去年の大河ドラマで一層有名になった真田(さなだ)氏も、はじめは信濃の地方領主でした。


そして、忘れてはいけないのが美濃(岐阜県)を支配した斎藤道三(さいとうどうさん)

この人は北条早雲と並んで伝説が多い人なのですが、それについてはこの記事を参考にしてもらうとして

美濃の守護だった土岐(とき)氏をあっさり追い出して城持ち大名になったその手腕は、当代の武将の中でも一級品です。


早雲や道三をはじめ、いずれも負けず劣らずの武勇と智謀を駆使する、戦国武将たちの戦い。 後世の人間から見たら、やはり面白いというかワクワクするというか。

そう考えると、これまで語ってきたドロドロした権力闘争劇などは、あまり人の興味をひかないんでしょうかねぇ・・・ この連載続けてていいのだろうか


と、ちょっと弱音を吐いたところで今回の記事は以上です。

次回は章の変わり目ということで、また番外編的な話題を一つ挟んだ後、第3章『最後の煌(きら)めき』へと続きます。

果たして、足利将軍家が迎える結末とは。 そして、歴史は彼らをどう評価しようというのか・・・。


ご期待ください。


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