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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・1 運命の子・足利義輝 ~”天文法華の乱”のさなかで~

こんばんは。

もう11月に入ってしまいましたが、毎週土曜日の週1連載「落日 ~室町幕府、終焉への道~」は続いていきます。

果たして年内に終わるのかどうか、ペース配分的には微妙なところですけども、まぁ自分が納得できる形で結びたいとは思います。

今回からついに第3章「最後の煌(きら)めき」ということで、これまで何とか命脈を保ってきた室町幕府にも、容赦なく戦国時代の洗礼が襲い掛かります。

今日はその第1話として、その荒波に敢然と立ち向かった13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の登場となります。

第2章の最終盤でお話しした内容をおさらいしつつ、彼が生まれた頃の情勢を整理してみましょう。


足利義輝が生まれたのは1536年の3月で、織田信長より2歳年下ですがほぼ同世代となります。

その4年前の1532年、室町幕府管領職・細川氏の当主の座を巡る争いに一応の終止符が打たれました。

阿波細川家から出た細川晴元(ほそかわはるもと)が、ライバルの細川高国(たかくに)を破り、政治の実権を手に入れたのです。

義輝の父親で、当時の室町幕府将軍であった足利義晴(あしかがよしはる)は、もとは高国に擁立され晴元とは敵対していましたが

高国が敗れたことで、晴元が支持していた”堺公方”こと足利義維(よしつな)に将軍の座を追われる恐れが出てきていました。


ところが、晴元の重臣で高国討伐にも大きな功績があった三好元長(みよしもとなが)は、かねてより晴元に不満を抱いており

晴元も晴元で『いずれ元長は謀反を起こすのではないか』と疑心暗鬼になりかけていました。

自分の武力だけでは元長を倒せないと考えた晴元は、畿内で大きな武力を持つ”ある相手”に協力を持ち掛けます。

それが、摂津(大阪府)の石山本願寺を拠点とする『一向一揆』の軍勢でした。


『一向一揆』というと、加賀(石川県)で守護大名を倒して『百姓の持ちたる国』を実現したことや

のちに織田信長の天下統一事業に真っ向から対立し、およそ10年にわたる激闘を繰り広げたことで知られていますが

この時期の畿内においても、一向宗(浄土真宗)を信仰する民衆たちで組織された軍団は大名たちの脅威となっていました。

晴元は本願寺の法主(総責任者)である証如(しょうにょ)に元長討伐の協力を依頼し、証如もこれを承諾。

こうして、一向一揆の大軍を敵に回した元長はなすすべなく敗れ、そのままこの世を去ってしまいました。


これで晴元の天下が揺るぎないものになったかというと、そうでもありませんでした。

元長との戦いの中で”一向一揆の脅威”をまざまざと見せつけられた晴元は、『これを敵に回しては自分の身も危ない』と考え

『一向一揆の力を削ぐため、別の勢力に叩いてもらおう』という、なんとも本末転倒な作戦に出ます。

そこで晴元が目をつけたのは、一向宗と並んで畿内の民衆に支持されていた”法華宗(日蓮宗)”でした。

今の時代では想像できませんが、当時の有力なお寺は自衛と勢力拡大を目的に、僧侶や信者を武装させて兵力としていたのですね。


ともあれ、”信仰を奪い合うライバルを叩けるなら好都合”と法華宗も晴元の誘いに乗り、一向一揆の重要拠点である山科本願寺を攻め滅ぼしてしまいました。

さらに1533年、晴元と法華宗の軍勢は石山本願寺を包囲。 威勢を失った証如は『しばらくおとなしくします』と和睦に応じることを余儀なくされます。

ちなみに、このとき晴元の使者として石山本願寺に赴き証如との交渉をまとめたのが、若干12歳の三好長慶(みよしながよし)だったともいわれています。

また、証如は表面上は恭順を誓いながらも、山科本願寺を陥落させられた反省から石山本願寺の守りを固め、後に信長をも苦しめる大要塞に仕立て上げていくのですが・・・これはまた別の話。


で、義晴はその間どうしていたのかって? すっかり忘れておりました。

実は義晴、三好元長が一向一揆に滅ぼされたゴタゴタの中で晴元とちゃっかり和解を果たしております。

というのも、足利義維の”堺政権”は元長の存在があってこそ成り立っていたようなもので、元長の死でその価値は暴落。

義維本人も堺から四国への”都落ち”を余儀なくされており、晴元も残った義晴を将軍と認めるしかなくなったのでした。

1534年には、長らく逃亡していた近江(滋賀県)から7年ぶりに京に戻り、その2年後に義輝が生まれることになるのです。


ところがところが、その義輝が生まれた年に待っていたのは、前代未聞の大騒動でした。

ライバルの一向宗を実力行使で蹴落とした法華宗は、ますます盛んに信仰を伸ばし”向かう所敵なし”の状態でした。

その風潮は法華衆を信仰する町人の間にも広まり『法華宗徒に税を払う義務はない』と言い出すなど、勝手な振る舞いをするように。

さらに”法華宗徒にあらずば人にあらず”ではないですが、あからさまに他の宗教を下に見る僧侶や宗徒も増えていたといいます。


こうした法華宗の増長を見かねて、当時並ぶもののない伝統と影響力を持つ”宗教界の権威”比叡山延暦寺がついに動きます。

延暦寺は自前の僧兵に加え、京周辺の寺社や大名たちにも呼びかけて大軍を組織。

1536年7月、満を持して京へと攻め上った反法華衆連合軍は、街中の主な法華宗の寺院を残らず焼き払いました。

その火は街中にも燃え広がり、この騒乱での死者は法華宗の信者だけでも1万人を超えると言われています。

そしてこの後数年間、京の街で法華宗の信者を見かけることはなかったといいます・・・。

これが後の世に”天文法華の乱”として語り継がれる、応仁(・文明)の乱にも匹敵するほどの災難となったのです。


しかし、本当の”災難”は、室町幕府がこの一連の騒動に効果的な対応を打てなかったことかもしれません。

将軍・義晴も法華宗との和解を目指して説得に当たったようではありますが、法華宗側は聞く耳を持たなかったようで・・・

これって今の世界情勢に似ている気がしないでもない・・・ いえ独り言ですよ独り言ですとも

そして、生まれて間もない義輝の目には、この京の騒乱はどのように映っていたのか・・・。

義晴の跡を継ぐのが確実とされていたとはいえ、それがいばらの道であることは想像に難くありません。

果たして義輝の、そして室町幕府の運命やいかに!? 次回『剣豪将軍・義輝誕生(仮)』にご期待ください。

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