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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・3 三好長慶、野望の芽生え ~父の無念を胸に秘め・・・?~

こんばんは。

今日は、どうしても言いたい事があるらしいこの方々のご紹介から。

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「信玄! 我々の名が歴史の教科書から消えるというのはまことか!?」


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「口惜しいことよのう、謙信。 されど、これも時代の流れじゃろうて。」



・・・細かい事情には踏み込みませんが、最近そういうニュースを聞いたという方も多いでしょうか。

賛否両論あるようですが、私自身は『歴史を学ぶ道具は教科書だけじゃないから・・・』と思うのです。

特に今の時代は、知識を得るためならテレビやネットなども活用できるわけで、後からいくらでも勉強できますし。

たぶん大学入試改革の一環としての位置づけもあるのでしょうが、『歴史嫌い』を増やすことだけは避けてほしいものです。


と、ここからようやく今日の本題、シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」の続きです。

教科書から省かれるどころか”まず載ってさえもいない”細かすぎる話ですが、どうぞお付き合いを。

前回は室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が登場したところで終わりましたが

戦国の世が本格的に始まったことで、その義輝と室町幕府にとって最大の脅威となった男がいました。

その男の名は、三好長慶みよしながよし、”ちょうけい”と読まれることもある)。

過去記事でも紹介した通り、三好家は室町幕府の管領・細川家に重臣として代々仕えてきた一族でしたが

長慶の祖父(または曾祖父)の之長(ゆきなが)、そして父の元長(もとなが)と二代続けて不本意な形で命を落としました。

特に、元長が討ち死にした一向一揆との戦いを裏で操ったのが、細川家の当主・細川晴元であったために

長慶は表面上の主君である晴元を『父の仇』として、復讐の機会をうかがうことになるのです・・・。


父・元長が一向一揆の軍勢に敗れて戦死した1532年、長慶はまだ10歳の少年でした。

元長の死を受けて三好家を継ぐことにはなったものの、細川家の庇護を受ける形になります。

しかし武将としての能力は確かなものだったらしく、以前の記事にも書いた通り

後に晴元と敵対した本願寺の法主・証如との和睦の使者として、話をまとめたのが12歳の時でした。

その後も晴元からその才能を評価され、之長や元長と同様に細川家の重臣として認められたようです。


しかし・・・長慶の心には『いつか、父の仇・晴元を討ってみせる』という志がありました。

それを演出することになるのが、これから紹介する2人の人物です。

まず一人目は、晴元と同じ細川氏の一族ながら不遇をかこっていた細川氏綱(うじつな)

晴元に敗れて死んだ細川高国の養子で、実の父親も晴元に攻め滅ぼされた過去がありました。

氏綱は長慶より先に晴元への反旗を翻し、鎮圧するため出陣した長慶と何度か戦ったこともあるようです。

この時点では長慶と氏綱は敵同士だったのですが、もう一人のキーパーソンが二人を引き合わせることになります。


その二人目の重要人物は三好政長(まさなが)といい、長慶の三好本家に対して分家の出身です。

そのためか代々の三好家当主と意見や行動が食い違うことがあったといい、長慶の父・元長とも反りが合わなかったようで

一説には、一向一揆を扇動して元長を討つように晴元に進言したのが、この政長だったともいわれています。

三好家の家督を継いだ長慶も若いうちは政長を立てていたものの、成長してからは邪魔な存在と思うようになり

ついに1548年、政長と決別することを決めた長慶は主君・晴元のもとを去り、細川氏綱と共闘することを決めます。

こうして『細川晴元・三好政長チーム』『細川氏綱・三好長慶チーム』による政治の主導権争いが始まるわけであります・・・。

この連載でもう何度目だと私もいい加減うんざりしてきますが、今も昔も政局を巡る戦いは絶えないものなのですかネ・・・。


というあたりで、今回はおしまいです。

次回は義輝の出番もあるかナ、と考えていますので、来週をお待ちあれ。

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