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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・4 三好一族、強さの秘密 

こんばんは。

先週は体調不良により更新できなかった連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」が帰ってきました。

前回の記事では、室町幕府を実質的に支配する細川晴元(はるもと)の家臣でありながら

その晴元への復讐を誓い、彼のもとを離れることを決めた三好長慶(みよしながよし)の動向についてお伝えしました。

長慶は、同じ三好一族の”長老”的な存在であった実力者・三好政長(まさなが)が晴元と親しくしていることを口実に

”あんたらとはもうやっとれんわ!”とばかりに晴元の下を離れ、晴元・政長陣営との対決姿勢を明確にしたのでした。


同じく晴元に恨みを抱いていた細川一族の武将・細川氏綱(うじつな)と手を結んだ長慶は

1549年、摂津(せっつ、現在の大阪府北部)国は江口の地で政長の軍と戦い、これを撃破。 首尾よく政長を討ち取ることに成功します。

一方、頼みにしていた政長を失うと同時に、長慶の勢いと実力を思い知らされた晴元は肝を冷やしたのか

13代将軍・足利義輝(よしてる)とその父で先代の将軍・足利義晴(よしはる)を連れて、京から近江へと逃げてしまいました。

(都合が悪くなると京を捨てて近江へ逃げる幕府関係者・・・ このパターンも、もうお馴染みですよネ)

晴元を京から追い出した長慶と氏綱は意気揚々と京に入り、長らく晴元が握っていた政治の主導権を奪い取ったのです。

とはいえ、将軍・義輝はいまだ晴元の手中にあり、その晴元も逆襲の機を狙っていたので、まだまだ乱世は続くのですが・・・。


さて、今日はここで少し視点を変えて、三好長慶の強さの秘密に迫ってみましょう。

もとは細川晴元の家来に過ぎなかった長慶が、瞬く間に晴元に取って代わるだけの力を持つに至ったのか。

一つには、細川政元(まさもと)の代から続く一族どうしの権力争いによって、細川氏の勢力基盤が弱体化したことがあります。

そして、今日特にお知らせしておきたいのは、長慶が”兄弟たち”の力を存分に活かし、三好家繁栄の地盤を固めたという点です。


長慶には、特に後世まで名前の知られている弟が3人ほどおりました。

(おそらく)すぐ下の弟は三好義賢(よしかた※)といい、長慶に負けず劣らず文武に優れた武将だったといいます。

(※)近年、この「義賢」という名前は誤りであったことが指摘されているが、本連載では一般的によく知られている「義賢」を用いる

長慶が畿内で晴元・政長軍との戦いに専念できたのは、この義賢が三好家の本国である阿波(現在の徳島県)をよく治めていたことが要因の一つといえます。

また、その下の弟2人は、長慶の戦略的な意向により近隣の有力武士の家へ養子に出されています。

淡路島に本拠を置き、強力な水軍を持つ安宅(あたぎ)家を継いだ安宅冬康(あたぎふゆやす)は、三好家の水軍衆を束ねて畿内と四国の連携をとる役割を果たします。

また、讃岐(現在の香川県)の国人・十河(そごう)家の当主となった十河一存(そごうかずなが、かずまさ)は兄弟の中で最も武勇の誉れが高く

たびたび長慶に従って戦場に立ち、その活躍ぶりは敵の将兵から「鬼十河(おにそごう)」の異名で恐れられたほどといいます。

以前このブログでも紹介した毛利元就の養子戦略をほうふつとさせる、見事な一族の結束により

長慶は心置きなく晴元らに立ち向かい、そして京を手中におさめることができた、といえると思います。


・・・え、三好家といえばもう一人、大事な男を忘れてないかって?

はい、もちろんこの後登場する”あの男”ですよね。 三好家の繁栄と衰退(あ、ネタバレ)を見届け、そして将軍・義輝を・・・

おっと、”これ以上はダメ”とのお達しが出たので(←誰からだよ)、続きは次回ということで。


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