FC2ブログ
そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・7 三好一族を襲う悲劇の連鎖 ~容疑者?松永久秀の事件簿~

こんばんは。

年末の慌ただしい空気の中、いつも通りお送りするのは「落日 ~室町幕府、終焉への道~」です。

ここ数回の主役は、室町幕府の実権をほぼ手中に収めた戦国大名・三好長慶と、その家臣で影響力を伸ばしていた松永久秀

そして今回は、そんな両者の確執とすれ違い(?)が生んだ悲劇について、ご紹介していきます。

『また三好の話か、信長登場はよ』というツッコミも聞こえてきそうですが、いましばらくのご辛抱を。


さて、室町幕府13代将軍・足利義輝を表向きは政治の中枢から追い出したものの

彼を亡き者にするまでの覚悟はなかった長慶は、これも形だけの管領・細川氏綱を影で操りながら

頼れる弟たちの力も借りて、畿内から四国東部にかけての三好一族の領国を支配していました。

織田信長が桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った1560年の時点で、”最も天下に近い大名”であったことは間違いありません。


ところが・・・ 順風満帆に見えた三好政権に、”まさかの事態”が次々と襲い掛かります。

その”まさか”の端々に、松永久秀の関与が疑われる部分もあるのですが・・・ ひとつひとつ検証していきます。


”まさか”その①  兄弟一の武人・十河一存(そごうかずなが)死去  容疑度・☆☆☆

1561年4月、長慶を支えた弟の一人で、最も武勇に優れていたという”鬼十河(おにそごう)”こと十河一存

わずか30歳の若さで急死してしまいます。 死因は病死とも、乗馬中に転落したためとも伝わります。

一部の逸話によれば、一存は長慶の兄弟の仲でも久秀と特に仲が悪かったといい、久秀による暗殺説もあるようです。

いずれにせよ、三好一族の一人として影響力を持っていた一存の死は、結果的に久秀が三好政権に割って入るスキを与えたともいえます。


”まさか”その② 長慶の片腕・三好義賢(実休)が討ち死に 容疑度・☆

1562年3月、和泉国(いずみ、現在の大阪府南西部)は久米田(くめだ)の戦いにおいて

長慶のすぐ下の弟で、長慶にとって”片腕”とも言えた政権の重鎮・三好義賢(よしかた、別名”実休”)が戦死します。 享年37。

三好軍と戦ったのは、かつて名門守護大名だった畠山氏の生き残り・畠山高政と、紀伊を拠点にした傭兵集団・根来衆(ねごろしゅう)の軍勢で

その①で挙げた十河一存の死を”三好政権に対する反転攻勢の好機”と見て、挙兵したとみられています。

時を同じくして、京には高政とともに反三好の旗を掲げた六角氏の軍勢も攻め込んでいたとされています。

この戦いの前後における久秀の動向は明らかではないのですが、当時の記録にも”討ち死に”と記されていることから

久秀が義賢の死に関わった可能性は低いと考えられます。

しかし、この敗戦で和泉を畠山軍に奪われた長慶の権勢は、一気に失速していくことになります。


”まさか”その③ 長慶の跡取り息子・三好義興(よしおき)の早死に 容疑度・☆☆

1563年8月、長慶にとって唯一の息子であり、跡取りとして大事に育てていた三好義興が亡くなります。

享年はわずか22。 これも当時の記録によれば死因は”病死”ですが、ごく一部に”久秀による暗殺”とする説があります。

義興は長慶の優れた才能を受け継ぎ、一族だけでなく朝廷や幕府内からも将来を期待されていた逸材だったと言われています。

とうぜん父親である長慶の落胆は計り知れず、これを境に現代で言う”うつ”の症状を患った可能性も指摘されています。


”まさか”その④ 一族の生き残り・安宅冬康(あたぎふゆやす)を・・・ 容疑度・☆☆☆☆

長慶を中心に盤石の結束を誇った三好一族も、一存・義賢・義興と立て続けに中心人物を失ったことで

”櫛の歯が欠けたように”弱体化の一途をたどり、必然的に松永久秀の台頭を許すようになっていきます。

そして1564年5月、長慶の兄弟で唯一の生き残りであった安宅冬康が

『謀反の疑いあり』として長慶に呼び出され(※)、その場で自害させられてしまいます。 享年37。

しかし後に冬康の潔白が伝えられると、長慶は大いに嘆き、同時に自身の短慮を悔いたともいわれています。

(※)長慶に『冬康謀反』の噂を吹き込んだのが久秀であった、とする説が有力だが、もちろん異説も多々ある


こうして、散々なまでに食いちぎられてしまった三好一族の結束。

ついには1564年7月、心身ともに弱りきった長慶自身も死の床につき、そのまま帰らぬ人となりました。 享年43でした。

(こうしてみると、”人間五十年”といわれる当時の人々の寿命が、割と妥当性があることが伺えますね)

三好家を継いだのは十河一存の子で、長慶の養子になっていた三好義継(よしつぐ)でしたが

すでに三好家の実権は松永久秀と、いわゆる”三好三人衆”によって掌握されてしまっていました。


そして、長慶とは違って”目的のためなら手段は選ばない”久秀による、空前絶後の・・・(サンシャイン池崎の声で読まないこと)

もとい、室町幕府史上かつてない危機が訪れようとしていました。  次回”不如帰(ほととぎす)の涙”、 年内最後の更新をお待ちあれ。


にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村




コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)

■ コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

▼この記事へのトラックバック(あれば表示)