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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・8 不如帰の涙 ~一振りの刀に託す、室町幕府再興の夢~

こんばんは。

年末の慌ただしい中ですが、シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」の記事が始まりますよ。

今回は第3章中盤のハイライトとも言うべき、室町幕府が存亡の危機に立たされる大事件のお話です。

・・・え、今までもさんざん煽って結局滅んでないじゃないか、って? まぁ確かにそうですけど、今回のはヤバイんですって。

何しろ、今回室町幕府とその将軍・足利義輝(よしてる)が敵に回したのは、”戦国最強の極悪人”とも称される・・・

いかん、また煽り気味になっておる。 ここらでちょっと冷静になって、順を追ってお話ししましょうか。


前回の記事でもお伝えした通り、幕府と将軍をほぼ手中に収めて政治を意のままに動かしていた

三好長慶(みよしながよし)率いる三好家でしたが、その家臣・松永久秀(まつながひさひで)による数々の破壊工作によって(諸説あり)

長慶が頼みにする兄弟や縁者が次々と不慮の死を遂げたあげく、長慶自身も失意のうちに帰らぬ人となってしまいました。

三好家は長慶の養子・義継(よしつぐ)が当主となりましたが、彼自身まだ若かったこともあり、家中の実権は久秀と”三好三人衆”に移ることになります。

一方の室町幕府にとって、長年の脅威であり続けた長慶の死は”室町幕府による政治の復権”へ向かう好機でもありました。

特に、父で先代の将軍だった足利義晴が細川氏や三好氏に翻弄され続け、将軍の役目を果たせなかった無念を誰よりも知っている義輝は

今こそ三好氏の支配から脱し、本来あるべき”日本の統治機構”としての幕府の姿を取り戻そう、と決意を新たにするのでした。


ところが・・・ 幕府を立て直そうとますます張り切る義輝の存在は、久秀や”三人衆”にとって苦々しいものに映っていました。

彼らとしては、直接的に幕府を滅ぼすつもりはないにしろ、将軍自らが政治を取り仕切るようになっても困るわけで。

あくまで将軍は”お飾り”として、自分たちの言いなりになってくれる”(ある意味で)素直な人物”である必要があったのです。

そして、久秀たちにはその心当たりがありました。 皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか?

かつて、細川氏の一族による骨肉の争いに巻き込まれ、京から阿波へと逃れてきた「足利義維(よしつな)」という人物の名前を。

詳しくはこちらの記事で書いていますが、義晴とは血のつながった兄弟で、義輝の”おじ”にあたる人物です。

一時は”堺公方”と呼ばれて権力を握ったこともありましたが、病気のため政界を引退し、息子である足利義栄(よしひで)が跡を継いでいました。

久秀と”三人衆”は、阿波で生まれ育った義栄が中央政治に疎いのをいいことに、彼を義輝の代わりの”素直な将軍”に仕立て上げてしまうことを画策。

かくして、事態は風雲急を告げることになるのです・・・。


1565年5月18日、三好義継と”三人衆”、さらに久秀の長男・松永久通(ひさみち)らは、約1万の兵を率いて上洛。

翌19日の未明、彼らは義輝の居所であった二条御所(にじょうごしょ)を取り囲み、義輝への面会を求めます。

しかしそれはもちろん方便で、門が開くと同時に御所内へとなだれ込む三好軍の兵たち。

その騒ぎで目を覚ました義輝。 近習から『三好殿、ご謀反!!』の急報を告げられ、事の重大さを悟ります。

鎧兜を身につける暇も与えられず、寝間着のままの義輝を十重二十重に取り囲まんとする三好軍。

功を焦った一人の兵士が義輝めがけて斬りかかりますが・・・ 次の瞬間、倒れていたのは兵士の方でした。

枕元に置かれた愛刀で造作もなく兵士を斬り捨てた義輝は、遠巻きに自分を囲む兵たちを一喝します。

「この義輝を”剣豪将軍”と知っての狼藉(ろうぜき)か! 命が惜しくば下がっておれ!」


実はこの義輝、室町幕府の最高権力者でありながら、当代随一の剣術の使い手でもあったのです。

当時の武将なら誰もが護身のため、また武士の務めとして、幼い頃から剣術や兵法を一通り学ぶものですが

やはりそこは武家の頂点に君臨した足利家のこと、そのレベルも他の武士の家より高いものだったようです。

特に義輝は剣術にかけては並々ならぬ素質を持っていたようで、彼が剣の教えを乞うた人物というのが

世の人々から”剣聖”と称えられたという剣術の達人・上泉信綱(かみいずみのぶつな)であり、

後にはその信綱からも”優れた剣の使い手だ”と認められるほどの腕前だったといいます。

(余談ながら、戦国時代をテーマにしたゲームでも、義輝自身が戦う際には部隊の戦闘力にボーナスがつくことがあったりします)


・・・話は二条御所に戻ります。

どれほどの時間が流れたか、義輝の周りには自身が斬り捨てた兵の屍が無数に横たわっています。

兵たちの血や脂で刃が汚れるたびに新しい刀に持ち替え、絶え間なく襲い掛かる敵兵をひたすら斬って捨てた義輝。

しかし相手は1万もの大軍、加えて義輝自身の体力も消耗が激しく、まさに多勢に無勢。

ついに自分の命運が尽きたことを悟った義輝は、後世に”辞世の句”と伝わる一首を口ごもります。


『五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 

                   我が名をあげよ 雲の上まで』



次の瞬間、義輝の四方から覆いかぶさってきたのは、部屋の畳でした。

正攻法ではいつまでも義輝を討ち取れない、と三好軍の兵たちが思いついた、苦肉の策です。

あえなく畳の下敷きにされた義輝。 その上から、無数の刀と槍とが突き刺され・・・


こうして、室町幕府13代将軍・足利義輝は、彼が夢見た幕府の復権を果たすことなく力尽きました。 享年30。

室町幕府の現職将軍が殺害されるのは、6代将軍・足利義教(よしのり)が暗殺された『嘉吉の乱(1441年)』以来のことでした。

義輝を亡き者にした三好義継と”三好三人衆”は、自身の手駒である足利義栄を”(傀儡の)14代将軍”にすることを画策するのですが・・・


え、今回はやけに描写がクサすぎるんじゃないかって? 現実にこんなドラマみたいなシーンがあったのか、って??

まぁ、義輝はブログ主が好きな戦国武将の一人でもありますし、今回紹介したような勇ましい逸話も後世に残っている人物なので

これまでの回より若干話を”盛った”というか、史実(とされる学説)からは外れる部分もあったかもしれません。 そこはお詫びします。


それともう一点。 二条御所での義輝襲撃の場面に、松永久秀が登場していなかったことにお気づきでしたでしょうか?

私もこの記事を書くために調べて初めて知ったのですが、この事件に関して広く知られていた

”義輝を討った首謀者は、松永久秀である”という情報は、実は現在では否定されつつあるようなのです。

当時の資料によると、義輝が襲撃された日に久秀は京におらず、大和(やまと、現在の奈良県)にいたと記されており、今風に言えば”アリバイ”があるのです。

もちろん、長男の久通を襲撃軍に随行させていたことから、”全く知らぬ存ぜぬ”であった可能性も限りなくゼロに近いのですが

少なくとも”久秀が率先して犯行に及んだ”という従来の説とは食い違いが生じ、言ってみれば『グレー』の域を出ない話になってきます。

いずれ新たな発見や学説も出てくるかもしれませんが・・・ 今のところは諸説あり、あとはそれぞれの興味と想像にお任せ、としておきましょう。


といったところで、ついに”将軍殺害”の凶行に及び、これも今風に言えば”レッドライン”を超えてしまった久秀(と三好一派)。

このまま日本はまたしても混沌の渦に飲み込まれてしまうのか、はたまた救世主となる存在が彗星のごとく現れるのか?

室町幕府の栄枯盛衰(”枯”と”衰”だけ?)をたどってきた歴史の旅もいよいよ佳境、次回は年明けの更新となります。 乞うご期待。

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