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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・番外 戦国時代の元号事情

こんばんは。

本日は今年最初の土曜日ということで、いつもより気合いを入れて

シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」をお送りしようと意気込んでおったのですが

ネタ集めと文章構成に手間取り、自分で納得できる内容が期日までに書けなかったのと

第3章が当初の予定以上に回数が重なり、前回の『義輝暗殺』で一区切りがついたことから

一度仕切り直しの意味も込めて、また番外編的なお話で”箸休め”をしていただこうと考えた結果、こうなりました。

これが仕事だったら、許されることではないんですけども・・・ 楽しみにしている方には、誠に申し訳ありません。


では、気を取り直して・・・コホン。

今年は西暦2018年、元号(げんごう)で言うと平成30年になります。

平成が始まったのは1989年1月8日、あと2日でちょうど30年の節目を迎えるわけですね。

そして、天皇陛下が来年4月末をもってご退位なされるということで、”平成”に替わる新しい元号の話もちらほら(あぁ、また鬼が笑ってるよ)

で、その元号っていうのはもちろん戦国時代にも存在しておりまして・・・というのが、今日の話題です。


日本の歴史上、最初の元号は何だったか、皆さんはご存じでしょうか?

これは歴史の教科書でもお馴染みの『大化の改新』の”大化(たいか)”だとされています。 西暦645年から始まりました。

その後、天皇が替わった時はもちろんのこと、政治体制に大きな変化があった時、台風・地震などの自然災害があった時、

あるいは疫病の流行や彗星の出現など、今とは比較にならないほど短期間で新しい元号が生まれては消えていきました。

(調べてみても、平安・鎌倉・室町時代あたりの約600年間で10年以上続いた元号は、10個あるかないかしかない)


戦国時代の始まりとされる『応仁の乱』で知られる”応仁(おうにん)”の年号も、実はわずか3年ほどしか使われませんでした。

次の”文明(ぶんめい)”は19年まで続き、その間に一連の騒動が終息したので、最近は『応仁・文明の乱』とも呼ばれますね。

で、少し空いて次の有名な年号は”明応(めいおう)”。 室町幕府管領・細川政元によるクーデター『明応の政変』が起きました。

現在ではこちらを”本当の戦国時代の始まり”と主張する向きも強いですが・・・ 今日の本筋ではないので置いておいて。


そして、皆さんご存じの織田信長や武田信玄、上杉謙信など戦国時代の群雄たちが出揃うのが”天文(てんぶん)”の年間です。

1532年から1555年までの足掛け24年間と、当時としてはかなり長く使われた元号で、その間には色々なことがありました。

こちらの記事でも紹介した、法華宗と一向宗の最初の激突が起こったのが天文元(1532)年。

その4年後の”天文法華の乱”や、奥州の伊達家を中心としておよそ6年続いた政争”(奥州)天文の大乱”など、全国各地で戦乱の機運が高まっていきます。

その一方で、1543(または42)年の”鉄砲伝来”や1549年の”キリスト教伝来”など、海の向こうから”刺激”がもたらされたのも天文年間のことでした。

私たちがよく知っている戦国時代の基本イメージは、この天文年間に出来上がっていったと考えることができるでしょうか。


その後は”弘治”(こうじ、1555~1558)⇒”永禄”(えいろく、1558~1570)⇒”元亀”(げんき、1570~1573)と続き、

本連載の一応のゴールとなる『(事実上の)室町幕府滅亡』を契機として生まれた元号が”天正(てんしょう)”

この改元には織田信長が関与したとする説もあり、その信長が討たれた『本能寺の変』の1582年は、”天正10年”になります。 

そう考えると、信長が”天下人”として君臨したのはわずか10年ほどであった、といえなくもないです。


天正の後、江戸時代が始まるまでの元号は少なく”文禄”(ぶんろく、1593~1596)⇒”慶長”(けいちょう、1596~1615)⇒”元和”(げんな、1615~1624)⇒・・・ となります。

信長の跡を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉、そして関ケ原の戦いで勝利した徳川家康によって

世を揺るがすような事件や災害が減り、改元する理由も少なくなったとも言えるのではないでしょうか。


あ、この項の最後に、調べて見つけた面白い(かどうかは読者判断ですが)話をひとつ。

戦国時代とは全く関係ないんですけど、江戸時代に”明和(めいわ)”という元号があったそうで。

1764年を”明和元年”とするこの元号、9年ほど続いた後に次の”安永(あんえい)”に改元されたそうですが

一説にはこの改元、『明和9年』⇒『めいわくねん』⇒『迷惑年』で縁起が悪い、という理由だったとも。

実際、この年には江戸で大規模な火災があったり、自然災害が全国で多発したりと”縁起でもない”一年だったようですが・・・ 作った時に気づかなかったのだろうか

ともあれ、日本人は今も昔も縁起を気にするというか、ダジャ・・・いや言葉遊びが好きな民族なんだなぁと思ったのでした。


というわけで、今日はどうもすみませんでした。

次回こそは本編の記事を気合い入れて書きますんで、来週の土曜日もお待ちしております。

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