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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・10 ついに登場!織田信長 ~義昭との出会いと、”天下布武”の真意~

こんばんは。

早いもので、1月最後の土曜日となりました。 ついさっき年が明けたと思っていたのに・・・

ともあれ、本ブログの土曜日連載「落日 ~室町幕府、終焉への道~」は今週も平常通りの更新です。

前回の記事では、室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)が三好家の兵によって暗殺され、

その三好家に保護されていた足利の分家の親族・足利義栄(よしひで)が14代目の将軍に収まったところまでご紹介しました。

今回は、義輝の実の弟・足利義昭(よしあき)が15代目の将軍となるまでにたどった苦難の道のりと

その果てに待っていた、戦国時代最大の英雄・織田信長との出会いまでを見ていきたいと思います。


前回のおさらいになりますが、足利義輝が暗殺された時点で、義昭は”覚慶(かくけい)”と名乗るお坊さんでした。

ところが、覚慶が義輝の弟であることを知る三好家の兵が寺院にまで押し寄せ、覚慶は囚われの身となってしまいます。

それでも、足利将軍家と義輝に忠誠を誓った幕府の家臣たちが、監視の目をかいくぐって覚慶を助け出し、そのまま逃亡。

将軍暗殺という”幕府への重大な反逆行為”を働いた三好家に対して、共に立ち向かってくれる大名家の支援を仰ぐことにしたのです。


今さらの話かもしれませんが、室町幕府(足利家)そのものが持つ軍事力は、他の有力大名に比べれば非常に小さいものでした。

代々の室町幕府の将軍は、軍事力が必要な時には配下の守護大名たちの兵力を従え、幕府に敵対する大名などと戦ったのです。

もちろんそれは”応仁・文明の乱”以前の、守護大名が(表面上は)幕府の命令に従って動いていた時代の話で、

彼らが自らの力で領国の支配権を勝ち取った”戦国大名”となってしまってからは、幕府が直接動かせる兵力は無きに等しい状態だったのでした。

(幕府軍の最高司令官である義輝が無防備な状態で討ち取られてしまったのも、この軍備システムの欠陥が一因ともいえる)


そんなわけで、覚慶改め義昭とその家臣一行による”幕府復興スポンサー”探しの旅が始まったのですが、これが一筋縄ではいきませんでした。

最初に頼ったのは、京に近い近江(滋賀県)南部を支配下に置き、幕府とも長年親密な関係にあった六角(ろっかく)氏でした。

しかし、この頃の六角氏は実質的な当主(※)である六角義賢(よしかた)と重臣たちの不和により混乱していただけでなく

かつて従属させていた近江北部の大名・浅井氏からも攻撃を受けており、義昭たちを支援できる状態ではありませんでした。

(※)六角家の当主の座は義賢の子・義治(よしはる)に移っていたが、家中の政治の実権は義賢が握っていたという。


六角氏からの支援を諦めた義昭たちは、続いて若狭(福井県西部)の守護大名・武田(たけだ)氏のもとへ。

若狭武田家の当主・武田義統(よしずみ)の妻が義輝の妹だった縁もあり、力を貸してくれるはずと期待していたのですが

義統とその子・元明(もとあき)の関係が険悪で、家を二分する御家騒動の真っ最中。 『ダメだこりゃ』とばかりに、義昭たちは早々に若狭を去ります。

(なお、義昭が若狭を去ったわずか2年後、若狭武田氏は隣国の越前朝倉氏に侵略され滅亡。 ダメだこりゃ。


そして、義昭一行が次に向かったのは、戦国大名・朝倉(あさくら)氏が本拠を置く、越前(福井県東部)は一乗谷(いちじょうだに)。

朝倉氏は、もとは守護代の身分ながら”応仁・文明の乱”のグダグダを好機として、守護の斯波(しば)氏から越前の支配権を奪取。

その後100年にわたって越前1国を支配し、蓄えられた軍事力も相当なものであると義昭も期待していたのでした。

ところが・・・ 朝倉家の当主・朝倉義景(よしかげ)は、最初こそ喜んで義昭を出迎えたものの、『上洛の兵を出してほしい』という義昭の要請には消極的。

これには様々な原因が唱えられていますが、後に織田信長からの上洛要請(命令?)をも断っていることを考えると

義景本人が中央の政局にほとんど興味を持たず、領内の経営や文化の振興ばかりに関心を向けていた事が一因でしょう。

あるいは単純に「面倒なことに首を突っ込みたくない」という、俗っぽい理由だったかもしれませんが・・・ その行く末はいずれ分かるとして。


そうこうするうちに、義昭のもとに”尾張(愛知県西部)の織田信長が美濃(岐阜県南部)を攻め取った”との知らせが入ります。

”美濃のマムシ”の異名をとった戦国武将・斎藤道三(さいとうどうさん)の孫にあたる斎藤龍興(たつおき)を下して

斎藤氏の本拠・稲葉山(いなばやま)城を制圧した織田信長は、稲葉山の地名を”岐阜(ぎふ)”と改めたうえ

織田家の戦略指針として『天下布武(てんかふぶ)』というスローガンを掲げたことはよく知られています。


この天下布武、現代に生きる私たちにとっては『天下=日本全国』というイメージが定着しているためか

『この時点で、信長は全国統一を志していたのだ!』と説明されることも多いのですが、当然のように異説もあるわけで。

私自身は、そもそも”全国統一を目指す戦国大名像”例の”野望”的な歴史シミュレーションゲームの影響で生まれた”後付けのイメージ”だと考えているのと

昔読んだ何かの本に書いてあった”戦国時代における「天下」とは、室町幕府の支配が及ぶ京と畿内周辺のみを指す”という説を支持しているので

この時点で信長が言いたかったのは、三好氏に対抗して中央政治に介入する意思表示なのではないか、と思っております。 異論は認めます


などとグダグダ語っておりますが、この信長の”天下布武”の意思が次期将軍・足利義昭との縁を結びつけることになります・・・

いつまで経っても兵を出してくれない義景を見て、朝倉家臣(?)・明智光秀が「勢いのある織田殿を頼ってはどうか」と義昭に提案。

義昭もそれを承諾し、美濃出身でもある光秀の仲介で義昭一行は岐阜へ赴き、織田信長と対面することに。

義昭の要請を「あいわかった」とあっさり承諾した信長は、占領したばかりの美濃の経略もそこそこに、上洛戦の準備をはじめます。

こうして”グズグズ義景””テキパキ信長”の違いが、両者の後世における評価にも影響したわけで・・・ 不憫なり義景。


そんなところで、今回はここまで。

次回は、義昭が15代将軍となって兄の無念を・・・ といきたいところですが果たしてどうなるやら。

ではまた来週、この連載でお会いしましょう(残業などなければ、ですが)。

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