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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・11 義昭の野望、信長の無謀!? ~幕府再興を懸けた、めくるめく心理戦~

みなさん、こんばんは。


先週は思わぬ事態に見舞われ、連載を休止してしまいすみませんでした。

2週間ぶりとなります連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」は、第3章「最後の煌(きら)めき」も後半戦。

後に”室町幕府最後の将軍”となる足利義昭(あしかがよしあき)が、三好家の一派に支配された京へ戻るべく

美濃(岐阜県)を制圧して『天下布武(てんかふぶ)』のスローガンを掲げた新進気鋭の戦国大名・織田信長を頼る、というところまでを前回の記事でお話ししておりました。

今回は、美濃に移った義昭が信長とともに上洛(じょうらく)、つまり京への進軍(義昭にとっては”帰還”)を目指すところから始まります。


1567年に稲葉山城(現在の岐阜城)を制圧し、本国の尾張(愛知県西部)に加えて美濃を手中に収めた織田信長は

越前(福井県東部)の朝倉氏の下から移ってきた義昭や細川藤孝、明智光秀らの依頼を受け、翌1568年に上洛の軍を興します。

美濃を制圧したことで、織田領から京へ向かうまでに通過しなくてはならない国は近江(滋賀県)のみとなっていました。

このうち、近江の北部を支配していた浅井(あざい)氏は、当主の浅井長政(ながまさ)と信長の妹・市(いち)が夫婦になっており、織田家と同盟関係にありました。

一方、近江南部の六角(ろっかく)氏は、信長の上洛に抵抗する姿勢を見せたため(三好三人衆と通じていた可能性もあり)、合戦となります。

しかし、以前から家中が内部分裂状態でガタガタになっていた六角軍は、なすすべなく織田(+徳川・浅井)軍に敗れ

実質的な当主の六角義賢(よしかた)が本拠の観音寺(かんのんじ)城を捨てて逃げたことで決着。

信長はその勢いのまま、京の近くに陣取っていた三好三人衆の軍勢をも蹴散らし、義昭を京へ送り届けることに成功しました。


なお、しばらく名前が出てこなかった大和(奈良県)の松永久秀(まつながひさひで)は、三好三人衆との抗争真っただ中でしたが

信長が上洛を目指して出陣したことを知ると、いち早く協力を申し出て三好三人衆を追い落とす手助けをしたそうです。

もっとも、義昭にとっては久秀も兄・義輝を討った三好家の一味であり、決して許すことのできない存在だったので

久秀への厳しい処分を信長に要求したものの、久秀を気に入った信長の説得で”おとがめなし”になった、というのも(歴史好きの人には)有名な話です。


そして1568年10月、義昭は信長の推薦を受け、悲願であった将軍職就任を果たします。 室町幕府15代将軍・足利義昭の誕生です。

実はこの直前に、三好三人衆に擁立された14代将軍・足利義栄(よしひで)が病気で亡くなっており、義昭にとっては追い風となりました。

(この義栄、室町幕府の歴代将軍で唯一”生涯で一度も京に入れなかった将軍”と言われております)

義昭は志半ばで倒れた兄・義輝の分まで、室町幕府と将軍を中心とした政治の復活を目指そうと決意したのでしょう。

しかし、それは信長が目指す”天下布武”の完成形と異なっていたのも事実。 その”ズレ”が、両者の関係を微妙なものにしていきます。


形式上とはいえ日本の最高権力者となった義昭は、上洛に協力してくれた信長に最大限の敬意を払い

「室町幕府の『副将軍』(『管領職』とする説もある)の職を与え、その功績に報いたい」と打診しましたが、信長はこれを丁重に辞退しました。

このエピソードは『古い権威や肩書きには一切なびかない信長△(さんカッケー)』と、”信長の英雄像”を強調するものとしてよく引用されますが

あくまで”幕府が主、信長は従”という立場を明確にしたい幕府と義昭の思惑を、信長が見抜いた結果の駆け引きともいえます。


例えて言うなら「もぅ、義昭ちゃんには私がいないとダメなんだから・・・」と、毎朝起こしに来るお隣さんの幼なじみのように(何の話?)

この時の信長には『これからの幕府と日本を引っ張っていくのは自分だ』という自負があったのかもしれません。


その裏付けとなりそうなのが、1569年から70年にかけて信長が義昭に提出した文書『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』の存在です。

合計21箇条からなるこの文書は、それまでの幕府による政治のルールを再確認するために書き起こされた部分も多いのですが

注目されるのが『これから幕府の用事で将軍に面会するときは、事前に信長の許可を得ること』とか。

『将軍の名で諸大名に発行する文書は、必ず内容を信長に見せて許しを得てから送ること』とか。

極めつけは『信長が必要と認めた場合には、幕府や将軍の許可がなくても諸大名への介入ができるものとする』とあります。

前回の記事でも少し触れた通り、室町幕府には”将軍が直接命令して動かせる兵力”というのがほとんどありませんでしたから

強大な軍事力を誇る信長の存在を”幕府から独立した権力機構”として義昭も認めざるを得なかった、ということになろうかと思います。


例えるなら「べ、別にアンタ(義昭)のために上洛したんじゃないんだからねっ!?」と、思わせぶりな態度を見せる”ツンデレ”な同級生の(だから何の話??)


ともあれ。

最初は信長を頼りにしていた義昭も、こうまで”がんじがらめ”にされては「こんなはずじゃなかったのに・・・」と思い始めます。

この頃から義昭は、先の決まり事にあった「信長が目を通す公式文書」とは別に、各地の大名に向けて「非公式文書」を送ったといいます。

特に、かつて世話になった事もある越前の朝倉義景(よしかげ)に対しては、何度も”ラブコール”を送って自身への協力を求めたようです。

しかし、やはりというかこれを見過ごす信長ではなく、すぐに義景のもとに信長からの詰問状が届きます。

『京で”義景殿に挙兵の動きあり”との噂が流れている。 異論があれば上洛して申し開きをせよ、これは将軍命令である』

挙兵うんぬんは上洛させるための口実に過ぎませんが、当の義景は信長を嫌っていたのか、それとも単に面倒くさがりだったからなのか

この上洛要請を完全に無視。 これを受けて信長は「将軍の命令に従わない不届き者を征伐する」として、越前への侵攻を決意します。

これが、戦国時代を代表する見どころの一つ”信長包囲網”への引き金となる事を、この時はまだ誰も知らなかったのです・・・。


というあたりで、今回はここまで。

次回から次々回にかけて、義昭よりも信長に関する記述が(おそらく)多くなります。 前もってご了承ください。

さーて、気合い入れてネタの仕込みをしないと・・・ 続きは次の土曜日に。

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