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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
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【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・13 信仰は儚き”もののふ”の為に・前編 ~信長包囲網・ラウンド2~

こんばんは。

毎週土曜日のお楽しみ(?)、戦国時代シリーズ連載「落日 ~室町幕府、終焉への道~」のお時間です。

ついに前回から、この連載のクライマックスとも言うべき『信長包囲網』の紹介に入ることができました。

天下布武の理想に向けて突き進む織田信長と、それに待ったをかけようとする周辺諸国の大名たち、そして室町幕府将軍・足利義昭

彼らが激しく火花を散らす様子は、まさに我々が思い描く”戦国絵巻、歴史ロマン”そのもの。 今回はその第2ラウンドです。


【注意】今回と次回の記事には、”戦国時代の宗教”について言及する部分があります。

     これらの記事においてブログ主は、日本における宗教の在り方や是非などを論ずるつもりはないですし

     また読者様それぞれの宗教観や信仰に何ら干渉するつもりはないことを、あらかじめお断りしておきます。



さて、義昭を将軍としてまつり上げ、京の支配者となった織田信長が”包囲”されるまでの経緯は、前回の記事で説明しております。

まぁ早い話が『信長が調子乗ってるから、協力して袋叩きにしようぜ』という思惑で一致した、朝倉・浅井・三好といった信長の隣国の大名たちが

よってたかって信長の軍に対抗しようと打ちかかったものの、そこは強大な戦力を誇る信長軍。 まだまだ余裕がありました。

ところが・・・ 1570年9月、摂津(大阪府北部)のあたりで三好軍と対峙していた信長が驚愕する知らせがもたらされます。

それは、「石山本願寺が織田家に宣戦布告し、各地の一向宗徒に決起を呼びかけた」というものでした。

なぜこれが、信長にとって”驚愕”に値する知らせだったのでしょうか? 順を追って説明してみます。


まず『石山本願寺(いしやまほんがんじ)』とは、織田軍が出兵していた摂津国にある、”一向宗”の寺院です。

一向宗については以前この記事でも触れていますが、一般には『浄土真宗本願寺派』と呼ばれます。

「一向に(ひたむきに)仏を信じ念仏を唱えれば、誰でも救われる」というシンプルな教えが、当時の民衆に受け入れられ

戦国時代の日本においては近畿や北陸などの地域で多くの信者を獲得していた、有力な宗派の一つでした。

”天文法華の乱”で一時は影響力を失いますが、信長が台頭し始めた頃にはすっかりその勢力を取り戻していました。


そして石山本願寺は、”天文法華の乱”で同じ一向宗の寺院・山科本願寺が焼き討ちされた反省から

大規模な改修がなされ、戦国大名たちの城と比べても見劣りしないほどの防御力を誇る”要塞”と化していたのでした。

もちろんそこにいるのは武士ではなくお坊さんなので、『幕府を牛耳って天下を取る』なんて発想は出ないのですが

当時の一向衆の法主(総責任者)・顕如(けんにょ)は信長を『仏敵』と罵(ののし)り、敵対心をあらわにしたのです。


その理由については、現代まで数々の説が唱えられてきました。

一般ウケするのは「神も仏も信じず、既存の宗教を叩き潰したい信長を危険視したから」ですが、ちょっと短絡的すぎるかも。

(確かに絶頂期の信長は『自分こそ神だ』と言ったらしいけど、その割にはキリスト教には好意的で、城下での布教を認めたというし)

私個人としては『信長が顕如に石山本願寺からの立ち退きを要求した』ことが一番の決め手ではなかったか、と思っています。

まぁ、これ以上深入りすると収集がつかないので、あとは例によって個人の興味と想像にお任せして・・・とさせてもらいます。


では、なぜその”お坊さん”の集団が、信長を恐れさせる存在だったのか。

実はこの一向宗、以前から”一向一揆”と呼ばれる戦国大名への反乱部隊を組織的に展開し、大名たちの脅威となっていたのです。

というのも、民衆が自分たちの要求を通すため、その地を支配する武士や大名に対して起こす”一揆”の一種ではあるのですが

一向衆を信仰する者たちによる”一向一揆”では、その参加者に対して顕如ら本願寺の上層の僧侶たちは

「戦って死んだ者は極楽浄土に行けるが、敵から逃げた者は地獄に落ちる」と説いて聞かせたと言われ、

まさに「死をも恐れず戦う」軍団として、領内に一向宗の寺院を抱える大名たちの”頭痛の種”になっていたのです。

特に、一向宗が盛んだった加賀(石川県)では『一向一揆の軍団が守護大名を攻め倒す』という現象も起きており

彼らを敵に回すということは、並みの戦国大名と戦うと同じか、それ以上に厳しい戦いを強いられることを意味したのです。


特に、信長にとって難関となったのが”願証寺(がんしょうじ)”というお寺の存在でした。

願証寺は、信長の故郷である尾張(愛知県)とその隣国・伊勢(三重県)のちょうど境目にある”長島”という地域にあり

この地に織田家に敵対する勢力がいるということは、本来は安全なはずの尾張が常に”緊張状態”にさらされることを意味します。


しかも、本願寺が信長に宣戦布告する前の年(1569年)、それまで長らく伊勢を支配していた

戦国大名・北畠(きたばたけ)氏が、信長軍の侵攻を受けて降伏し、戦国大名としては事実上滅亡したこともあって

城を追われて織田家に恨みを持つ北畠氏の旧家臣や、信長の支配を良しとしない地元の武士なども身を寄せた結果

願証寺が抱えた”一向一揆”の兵力は、多いときで10万人を超えたと言われています。

関ケ原の戦いでも『東軍7万、西軍8万(諸説あり)』と言われることを考えると、とんでもない兵力ですよね。

まさに信長にとっては『目の上のたんこぶ』、あるいは『喉に刺さった魚の小骨』のごとく、彼を苦しめるのであります・・・。


時間軸は冒頭の場面に戻ります。

三好軍に加えて本願寺の一向一揆まで敵に回してはとても勝ち目はない、と愕然とした信長。

それに追い打ちをかけるかのように、浅井・朝倉の両軍が京へと進軍を開始したとの知らせも届きます。

まさに前回のリプレイを見るような、反信長陣営による挟み撃ちの危険にさらされた信長でしたが

ここでも冷静かつ迅速な統率力を発揮、すぐに摂津の陣を引き払って京へと帰還しました(義昭も一緒でした)。


一方、肩すかしを喰らった浅井・朝倉連合軍は、京のほど近くにある比叡山延暦寺に軍を駐留させます。

それを知った信長は、延暦寺に使者を送って軍を退却させるよう要請しましたが、逆に延暦寺からも敵対の意思を表明されてしまいます。

この間にもプレッシャーを逃れた三好軍は京を狙っているし、一向一揆はいつ暴れ出すか分からないし・・・

まさに”八方塞がり”となった信長ですが、この状況を打破するための”とっておきの行動”に出るのでした。


さて、その思い切った行動とは・・・??  ここで今回は時間切れ、続きは次回で。

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