FC2ブログ
そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・14 信仰は儚き”もののふ”の為に・後編 ~信長包囲網・ラウンド3~

こんばんは。

昨年6月頃から(ほぼ)毎週土曜日にお送りしてきた、シリーズ「落日 ~室町幕府、終焉への道~」

連載の”ゴール”と決めている『室町幕府の(事実上の)滅亡』まで、記事内の時間軸ではあと3年余り。 

そして、リアルの時間軸で考えると、3月中の土曜日が今日を含めてあと5回。

年度末で区切りもいいので、その5回で本連載を完結させるべく、記事を練っていきたいと思います。

最終回はおそらく連載の総括というか”あとがき”的な内容になるので、実質あと”4回”で本編が終わる寸法です。

果たして、目論見通りにいきますかどうか・・・ そちらの方も、乞うご期待。


【注意】前回に引き続き、この記事でも”戦国時代の宗教”について言及する部分があります。

     ブログ主は日本史における宗教の在り方や政治との関わりについて、この場で是非を論ずるつもりはないですし

     読者様それぞれの宗教観及び信仰に干渉する意図も一切ないことを、改めてお断りしておきます。



さて、ここからが今日の本題。

自らの理想である”天下布武”を目指して突き進む信長・・・って、前回の記事でも使った表現ですが。

それを阻止せんと立ちあがった、信長の領国を取り囲む朝倉・浅井・三好・六角といった諸大名の勢力のみにとどまらず

当時『戦国大名以上に厄介な相手』とも言われた”一向一揆(いっこういっき)”を抱える、石山本願寺までが信長包囲網に加わることになりました。

それに同調する伊勢長島・願証寺(がんしょうじ)と、朝倉・浅井の将兵をかくまった比叡山延暦寺も、信長にとっては頭痛のタネ。

こいつらが一斉に攻めかかってきてはひとたまりもないと、信長は”苦肉の策”を繰り出すことになるのです・・・ ここまでが前回のあらすじ。


信長はここに至って彼らと正面きって戦うことを(一旦)断念し、”権威”の力を借りることにしたのです。

包囲網完成中の1570年10月ごろ、信長は室町幕府将軍・足利義昭に面会し

”将軍の名において、敵対する諸大名に織田家との停戦を呼びかけ”てもらうよう依頼します。

もう少し砕けた言い方をすれば「大名同士を仲直りさせるのは、将軍の仕事なんでしょ? どうにかなんない??」という感じでしょうか。


一方の義昭にしてみれば『これまで散々ムチャを言っておいて、困ったときだけ頼るなんて虫が良すぎだろ!』と内心穏やかでは無かったでしょうが

ここで拒絶すれば、せっかく建て直しかけた幕府の威信にも傷がつくし、だいいち自分が信長包囲網の”黒幕”であることをバラすようなもの。

義昭はしぶしぶながらこれを受け入れ、反信長の態度をとる大名たちに『将軍である私の顔を立てて、一旦兵を退いてほしい』と呼びかけます。

”信長憎し”で結束していた大名たちにもそれぞれ事情があったことも幸いし、結果として1570年の年末には一通りの和睦交渉が完了したのでした。


一般的には古い権力(室町幕府)を滅ぼすために闘った信長カッコイイ』てな感じで尊敬されることも多いですが

実のところ、例え自分自身が幕府や将軍を”旧い権威”と思っていたとしても、まだまだ利用価値があることをしっかり認めていたのです。

なお、同じ”武士”である大名家に対しては”幕府の威光”というか”将軍の命令”が通用したのですが

そもそも”武士”ではない本願寺や比叡山延暦寺に対しては効き目がないので、信長は”朝廷(貴族階級)”そして”天皇”にまで停戦の仲介を頼んだとか。

その見返りとして織田家から多額の献金があって、経済的に困窮していた朝廷は聞き入れざるを得なかったとか・・・。

まぁこのあたりも『意外と権力には低姿勢』と見るか『外聞より実利を取る現実主義』と見るか、評価が分かれそうなところです。


閑話休題。

なりふり構わぬ外交政策で窮地を乗り切った信長は、年が明けて1571年に入ると、反撃の準備にとりかかります。

前年に苦戦した反省から「また包囲される前に、各個撃破しちゃえばいいじゃない!」と考えた信長。

まずは近場にある脅威から除こうと、出身地・尾張に近い伊勢長島・願証寺を5万の大軍で攻めますが、前回も申し上げた通り

願証寺には”一向一揆”のほかに近隣住民や織田家に敵対的な武士たちも加わり、その兵力はおよそ10万にまで膨れ上がっていました。

さすがの信長でも『これでは攻め落とすのはムリ』と早々に見切りをつけ撤退(その際に家臣が数人戦死)、ターゲットを切り替えることに。


次に狙いをつけたのは、前年に朝倉・浅井軍をかくまい、信長への敵対を表明してきた比叡山延暦寺でした。

このブログを以前からお読みいただいている方だと、過去の記事で心当たりがあるのかもしれませんが

信長が比叡山延暦寺を攻撃したのは、何も「信長が既存の宗教を一切信仰していなかった」ことが決め手だったわけではござんせん。

確かに、比叡山延暦寺といえば当時でもすでに格式と伝統を持ち、そして多くの僧侶を抱える日本有数の大規模な寺院ですから

『それを攻めるなんてとんでもない!』となる戦国武将が大多数だった中で、信長が特異な存在であったことは否めません。

(織田家中でも、信長が『比叡山を焼き討ちするぞ!』と表明した時には、有力家臣のほとんどが反対したという)


それでも、日本の歴史を通して見れば、この”暴挙”は信長個人の信仰や考え方だけが問題だったのではないことも言えるわけで。

実は信長以前にも、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)”明応の政変”の首謀者・細川政元(まさもと)が、比叡山への焼き討ちを行った記録があります。

どちらも自分が舵を取る幕府の政治権力を脅かしかねない存在として、比叡山の影響力を削ぐ必要があったのでしょう。

「信仰うんぬんより、自分の邪魔になる存在を排除せねば!」という強い意志を持っていたことは、信長と彼らに共通する部分かもしれません。


経緯はともあれ、迎えた1571年9月。

信長は3万(諸説あり)の軍勢を率いて比叡山のふもとに陣取り、延暦寺へと続く山道を封鎖します。

これに驚いた延暦寺側は「降伏するから攻撃は中止してほしい」と使者を出しますが、『もう遅い』と信長はこれを一蹴。

その翌日の早朝、たいまつを持った織田軍の兵が山道を攻め上がり、寺や住居を見つけては放火して。

そこから逃げ出した人々もほとんどが捕らえられ、最後には老若男女問わず首をはねられたといいます。

建物という建物が根こそぎ焼かれ、赤々と燃える比叡山の姿は京の街からも見え、人々は恐怖に怯えたとも伝わります。


この一件が信長が「自分に逆らうものは、生かしておかない」というイメージで語られる原点となったことは、疑いようがありません。

同時に、信長に敵対していた大名たちや本願寺の僧侶も『一歩間違えば次は自分たちが・・・』と衝撃を受けたことでしょう。


しかし、この惨劇はこれから始まる信長の『壮絶な反撃』の、ほんの序章に過ぎないのです・・・


次回。 信長に負けず劣らずの実力と知名度を誇る”あの武将”が、ついに包囲網に参戦。 どうする信長・・・!?

お楽しみに。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村




コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)

■ コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

▼この記事へのトラックバック(あれば表示)